藤子・F・不二雄作品無料配信企画の新たな更新が2月17日(水)におこなわれ、以下の3作が現在配信中です(21日午前10時まで)。
[現在配信中の作品]2/17(水)AM10時~2/21(日)AM10時
「大雪山がやってきた」(てんとう虫コミックス「ドラえもん」19巻より)
「くたばれ評論家」(てんとう虫コミックス「エスパー魔美」1巻より)
「アン子 大いに怒る」(藤子・F・不二雄SF短編集Perfect版2巻より)
https://dora-world.com/contents/1766
『エスパー魔美』の「くたばれ評論家」が来ましたか!
この話は、一部分のみがネット上で切り取られてよく出回っています。「くたばれ評論家」を読んだことがなくてもそのシーンだけは目にしたことがある、という人も少なくなさそうです。
よく出回っているのは、魔美のパパ・佐倉十朗氏がこういう発言をするシーンです。
「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ」「どんなにこきおろされても、さまたげることができないんだ」「それがいやなら、だれにもみせないことだ」「剣鋭介に批評の権利があれば、ぼくにだっておこる権利がある!!」「あいつはけなした!ぼくはおこった!それでこの一件はおしまい!!」
先日無料配信されて話題になった『ノスタル爺』の「抱けえっ!! 抱けっ‼ 抱けーっ‼ 抱けーっ‼」のシーンも切り取られてネット上によく出回っています。
ひとまとまりのお話のうちの一部分のみが切り取られてネット上で流布し、繰り返し人目にとまりながら伝播しているのです。こうした現象を「インターネット・ミーム」といいます。
「くたばれ評論家」も『ノスタル爺』も一部シーンだけがネットミーム化しているわけです。無料配信企画の作品を選定している公式のなかの人は、ネットミーム化している作品を意識的に取り上げているような気もします。
ともあれ、上掲の佐倉十朗氏の言葉は「言論の自由のなんたるか」や「作品を公表すること」「批評すること/されること」の神髄と心得をわかりやくテンポよく的確に教えてくれます。
評論家に自分の作品を批判されて怒った十朗氏ですが、怒り終えればそれでおしまいで、批判者である評論家の立場を否定したり人格を恨んだりまではしないところがまたいいですね。否定するどころか、その評論家を悪人扱いしてはかわいそうだ…とすら言ってのける度量の大きさです。
十朗氏のフェアな精神と人間的器の大きさには尊敬の念を抱くばかりです。
十朗氏の作品を批判した評論家・剣鋭介氏が述べた批評論・芸術論も、初読時には目を蒙を啓かれるような衝撃を受けました。
「その一!情けとかようしゃとか、批評とは無関係のものです」
「その二!芸術は結果だけが問題なのだ。たとえ、のんだくれて鼻唄まじりにかいた絵でも、傑作は傑作。どんなに心血をそそいでかいても、駄作は駄作」
剣氏のこのセリフを読んで、彼の評論家としての確固たる矜持や覚悟や見識が感じられ、十朗氏と魔美ちゃんの気持ちに肩入れしながらこの話を読んでいた私ですが、剣氏の言葉や立場にも強く納得させられたのでした。
そして、何事にも動じない冷徹な人物に見えていた剣氏が、妻に対して優しさを見せたり、「わ、わしゃニンジンとオバケにはよわいんだ!!」とかわいげすら感じさせる弱みを露呈したりするシーンがあるのもいいです。剣鋭介という人物に奥行きと人間味を感じることができ、彼が魔美ちゃんに救われていく物語に対して素直に感銘を受けることできるのです。
「くたばれ評論家」は、高畑さんによるエスパーのコーチになる宣言、ハート型ブローチの初登場・初使用など、その後の『エスパー魔美』で定例化していく事物の起こりが描かれています。それもこの話の大きなポイントでしょう。
藤子F作品配信企画では、更新のたびにSF短編が一作ずつ公開されています。今回のSF短編枠は『アン子 大いに怒る』です。
この作品は『エスパー魔美』の原型となったものですから、『エスパー魔美』と同時配信されることに大いに意味があると思います。『エスパー魔美』と『アン子 大いに怒る』を、多くの人が手軽に読み比べられる機会が訪れたのです。
じっさいに読んでみれば、アン子が魔美の原型キャラクターだとわかります。アン子は家計を任されているしっかり者でアン子の父親が世間知らずなところなどは魔美と対照的ですが、アン子もよく言葉の言い間違いをしたりちょっと抜けたところもあって、端々から魔美的な性格も感じられます。高畑さんっぽい少年やコンポコに該当する子犬も登場します。
そして、『アン子 大いに怒る』における最重要キーワードのひとつが「ルビーのしたたり」です。『アン子…』といえば「ルビーのしたたり」を思い出す人もだいぶいそうです。
ということで、「これはほのかなシブミと甘さが王者の威厳と慈愛に似て口いっぱいにひろがる王室の味“ルビーのしたたり”なのだ!」と自己暗示をかけながら普通の紅茶を飲んでみました(笑)ソノウソホントのマグカップで飲むと、より暗示効果が高まりそうな気がします。
そして、一口飲んだら「信じられない!?」「これが紅茶だろうか‼」とリアクションすれば、「この紅茶は“ルビーのしたたり”なのだ!」という自己暗示が完璧なものになるでしょう!?(笑)
『ドラえもん』の「大雪山がやってきた」は、大雪山がやってきた光景が見開き2ページを使って大きく描かれていて、そこが強い印象を残します。
その光景は、今いる場所とほかの場所とを入れ替えることができるひみつ道具「空間入れかえ機」を使って近所の公園と雪山を入れ替えたことで生じたものです。
このお話では、大雪山がやってくる前のシーンでも何度か空間の入れ替えがおこなわれています。のび太の部屋のなかにパリのシャンゼリゼ大通りやアマゾンの原始林がやってくる、なんてシーンもありました。
よそから持ってこられるのはのび太の部屋に収まるだけの限られた空間でしたから、シャンゼリゼ大通りもアマゾンの原始林もやってきたのはほんの一部分のみです。言われなければ、それがどこの風景なのかわからないくらい部分的なのです。
そうやって外国の空間のほんの一部分だけがのび太の部屋にやってくるシーンで私がいちばん気に入っているのは、エベレストの頂上の一部分がやってきてその上にのび太としずちゃんが立つところです。世界最高峰への登頂があまりにもお手軽に実現してしまっているその状況が面白いのです。世界最高峰の頂上にいるのに、見た目には少し隆起した部屋の床面に立っているだけ…というのもまた面白いところ。まさに、「日常のなかに闖入した非日常」です。
「三メートルもすべれないくせに」「広くてもせまくてもころぶんだね」と、ドラえもんがのび太のスキーのできなさ加減を的確かつ具体的かつ容赦なく指摘するところも面白いです。
そして、スキーの練習から逃れたいのび太が発した「もう少しうまくなってから練習したほうが…」という因果の転倒した言い訳と、それを聞いてすかさずコワモテを浮かべのび太の言い訳を瞬殺したドラえもんのやりとりなんて、この話のなかでも最高の可笑しさです。
「キザは親ゆずりだい!!」とスネ夫が言うコマでは、彼のキザはご両親からのギフトなんだなあ、とあらためて確認できて妙に愉快な気持ちになりました。