藤子F先生のご命日に『未来の想い出』を読む

 きのうのエントリで述べたとおり、藤子・F・不二雄先生のご命日(9月23日)に『未来の想い出』を読み返すことで先生を偲びました。

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2021/09/23/144328

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ビッグコミックススペシャル『未来の想い出』(小学館、1992年9月5日初版第1刷発行)

 

未来の想い出』が雑誌「ビッグコミック」で連載されたのは1991年6月10日号から1991年8月25日号にかけてのことでした。そして今年は2021年。

 つまり、今年でちょうど30年が過ぎたわけです。

 

未来の想い出』の主人公・納戸理人は、1948年4月1日生まれの漫画家です。彼はどういうわけか、1971年の上京から1991年の突然死までの半生を何度も何度も繰り返しています。納戸の年齢で言えば、彼が22、3歳のときから42、3歳までの20年間を繰り返している…ということになります。

未来の想い出』を初めて読んだころ、私は20代の前半でしたから、納戸が繰り返す半生の始まり(1971年時点)の年齢とほぼ同だったのです。私は年齢的に若き青年時代の納戸の側にいたのです。

 ところが、2021年現在の私は53歳……。納戸が繰り返す半生の終わり(1991年時点)の年齢すらとっくに越してしまっています……。

 それを思うと、ああ、もうそんなに経ってしまったんだなあ……と一種の侘しさや切なさ、時の流れの無情を感じてしまいます。人生を繰り返すことも時間を巻き戻すこともできない現実の私は、30年という厳然たる時の経過の事実をストレートにつきつけられた気がします。

 ですが、こうも思うのです。こんな年齢になっても藤子F先生のマンガをまだ愛好していられるのですから、その点で私は時の流れに押し負けてはいないのだと…。まあ勝ちとか負けの問題ではありませんが(笑)、とにかく昔も今も藤子マンガのファンでいられてほんとうによかった!と心から思えます。

 あらためて、すばらしい作品たちを生み出し残してくださった藤子F先生に感謝したいです。

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 藤子・F・不二雄先生、ありがとうございます。

 

 ここから余談ですが、『未来の想い出』における納戸理人とその妻の冷ややかな夫婦関係を見ていると、藤子F先生の異色短編『間引き』の主人公と妻の夫婦関係とイメージが重なりました。この2作品で描かれた妻の髪型や雰囲気が妙に似ているなあ…とも思います。

 どちらの作品も、夫婦の冷えた関係がストーリーの最序盤で示されます。早い段階で冷えた夫婦関係を示しておく必要がある(示しておくことが効果的な)作品だということですね。

 それにしても『間引き』の冷ややかな夫婦関係は、あまりにも冷ややかが過ぎる結末を迎えてしまうわけですが……

 

 もうひとつ、余談です。

未来の想い出』を読みだしたら、あるシーンでこれを無性に飲みたくなって、スーパーで買ってきてしまいました。

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未来の想い出』の序盤に、これを元ネタにした缶ビールがアップで出てくるのです。

 その名も「Asahi SUPER DRY」ならぬ「Asohi SUPER DRY」!(笑)

 グビグビといただきました。

藤子・F・不二雄先生のご命日

 本日(9月23日)は、藤子・F・不二雄先生のご命日です。

 あまりにも悲しくて涙があふれてならなかったあの日から25年…。

未来の想い出』を読んで先生を偲びます。

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 今日この作品を読み返そうと思い立ったとき、F先生は未来の想い出を持っているのではないかと折々で思わせてくださるような方でもあったなあ、と不意に感じて顔を上げたら窓から見える空が晴れていました。

中秋の名月と満月が8年ぶりに重なった日

 本日(9月21日)は中秋の名月十五夜)です。

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 和菓子屋へ月見団子を買いに行ったら、こんな鮮やかなのが売っていました。私の住む地方特有の月見団子は、全国区の白い球体の団子と違って“3色・しずく型”でして、今回お供えしたこの団子もそれに近いのですが4色あるし形もなんだかちょっと違う気がします。

 

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 中秋の名月は、秋の収穫をお祝いして「芋名月」とも呼ばれ、私の実家では昔から里芋をお供えしていました。自分が子どものころ家で団子をお供えしていた記憶がありません(笑)

  

 さて、今年の中秋の名月は満月と重なりました。

 中秋の名月と満月が同じ日になるのは、じつに8年ぶりだとか。そう聞いたら、なおさら今晩の月を見たくてたまらなくなるじゃないですか!

 

 ところが、今晩は空が曇っていて(雨すら降っていて)せっかくの満月が見えそうにありません。

 残念です。

 

 そんなあいにくの十五夜に、藤子・F・不二雄先生の児童マンガ『Uボー』のお月見エピソード「お月さまふうせん」を読み返しました。

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 このお話では、せっかくの十五夜なのに空が曇って月が見えないので、Uボーが月の風船を大きくふくらませて夜空に上げてくれます。おかげで町の人たちはお月見ができて喜びます。

 その後、雲が晴れて本物の月も出てきたため、夜空に月が2つも見える!という不思議な十五夜となったのでした。

 

 そんなふうに十五夜に複数の月が浮かぶ…という現象で思い出すのが、『新オバケのQ太郎』の「お月さま出ないかな?」というお話です。十五夜なのに月が見えないのでドロンパとOちゃんが月に化けたら本物の月が出てきて、夜空に月3つ!という事態になるのです。

 

 藤子F先生のマンガでは、十五夜なのに天気に恵まれなくて月が見えないため不思議な力をもった存在が月を見えるようにしてくれる、というお話が複数見られます。風船をふくらませて代わりの月を上げたり(Uボー)、月に化けたり(新オバQ)、雲の上まで飛んで行ったり(オバQ)、月の周辺の邪魔な雲を吹き飛ばしたり(ぽこにゃん)。おかげでお月見ができてめでたしめでたし、というわけです。月を見えるようにする方法のアイデアがそれぞれ異なっているところはさすが藤子F先生!

 

 ※ここで紹介した藤子Fマンガのお月見エピソードは以下のとおりです。

・『Uボー』「お月さまふうせん」(初出:「毎日こどもしんぶん」1976年9月4日付/単行本:藤子・F・不二雄大全集『Uボー』収録)

・『新オバケのQ太郎』「お月さま出ないかな?」(初出:「よいこ」1971年10月号/藤子・F・不二雄大全集『新オバケのQ太郎』4巻収録)

・『オバケのQ太郎』「雨のお月見」(初出:「幼稚園」1965年9月号/藤子・F・不二雄大全集オバQ』12巻収録)

・『ぽこにゃん』「お月見したいな」(初出:「きぼうのとも ようじえほん」1971年9月号/単行本:藤子・F・不二雄大全集ポコニャン』収録)

 

 ちなみに、藤子・F・不二雄大全集『Uボー』(全1巻、2010年初版発行)には個人的な愛着が強いです。

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 初出以来ずっと単行本未収録だった『Uボー』が初めて単行本になったのがこの1冊ですし、そのうえ全179話をオールカーで完全収録してくれていて、しかも私が資料協力しているのですから、それはもう強い愛着をおぼえざるをえないのです(笑)

『昭和のアニメ奮闘記』に『ドラえもん ヨーロッパ鉄道の旅』の舞台裏話が!

 南正時氏の著書『昭和のアニメ奮闘記』(天夢人発行)が6月17日に発売されました。

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 南氏は、楠部大吉郎氏に声をかけられ1968年にAプロダクションに入社。同社に3年余り在籍したのち独立して鉄道写真家として活動されています。

 本書では、南氏のAプロ時代の思い出が回想され、アニメ界のレジェンドたちのエピソードや『ムーミン』『ルパン三世』制作時の舞台裏話などが綴られています。

 

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 藤子ファン的に最大の読みどころは、南氏がテレビ朝日開局25周年特別番組『藤子不二雄スペシャドラえもん ヨーロッパ鉄道の旅』(1983年10月18日放送)の仕事を依頼されたエピソードでしょう。南氏がAプロから独立したのちの出来事です。

 この番組は、二人の藤子不二雄先生がヨーロッパ各地を鉄道旅行し、藤子先生に気づかれないようドラえもんのび太がどこでもドアを使って先生を追いかけていくという内容でした。私は当時リアルタイムで視聴したのですが、藤子先生が出演する実写映像にアニメのドラえもんのび太がうまく合成されていたのが印象的でした。藤子先生のお姿をテレビ番組でたっぷり観られるのも非常に嬉しかったです。

 南氏は、この番組の鉄道監修やロケ先設定の仕事を受けたそうです。

 番組の制作はAプロの後身であるシンエイ動画で、プロデューサーに別紙壮一氏、作画監督に中村英一氏、原画に小林正義氏、色彩設計に野中(石井田)幸子氏といった顔ぶれが並びました。それは南氏にとって旧Aプロの顔なじみばかり。「旧AプロOBによる作品となった感がある」と感じたそうです。

 この番組におけるヨーロッパロケは、1978年に南氏がヨーロッパへ渡り鉄道の撮影旅行をしたときの行程が活かされていて、フランスのTGVで南氏が食べたまずいスパゲッティを藤子先生も食べて「まずい」となったようです。

 

藤子不二雄スペシャドラえもん ヨーロッパ鉄道の旅』は、前述のとおり実写の藤子先生とアニメのドラ&のび太の合成でつくられました。当時としては珍しいCGを用いたデジタル合成で、実写とアニメのCG合成の先駆け的な番組だったということです。南氏は、この番組をデジタルリマスターしてDVDソフトをリリースしてほしいと望んでいます。

 私もきれいな映像で再見できるものならしたいです。

「アニメージュ」9月号に渡辺歩監督インタビュー掲載

 渡辺歩監督のインタビューが載っていると知ってそのうち買って読もうと思っていたのに、気がついてみたら翌月号が発売されてしまっていた「アニメージュ」9月号が、近くの書店のバックナンバーコーナーにて2割引で売っていたので喜んでわが家にお迎えしました。

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 渡辺歩監督が手掛けた最新映画『漁港の肉子ちゃん』は『ドラえもん』の感動短編シリーズとアプローチが近いところがある……

 という話を皮切りに、TVアニメ『ドラえもん』リニューアルのこと、監督をつとめた映画『のび太の恐竜2006』のこと、その後シンエイ動画をやめたことなど、インタビュー記事全4ページのうち1ページ目は『ドラえもん』に関する話題が中心を占めています。

 

 2005年のアニメ『ドラえもん』リニューアルにともないキャラクターデザインが変更されることになったことについて渡辺監督は「どちらかと言うと難色を示したい気分だった」とおっしゃっていて、それが印象的でした。監督はそういう葛藤を抱きながらも「だったら、原点回帰だ」と、しっかり原作の画に向き合ってそれをどれぐらいアニメとして再現できるのかをやってみる方向にシフトしていったそうです。

 その話の流れで「周辺から「こういう方向で変えてほしい」という指示はあったんですか」と聞き手に質問された渡辺監督は、このように答えています。

「実は具体的な提示というものはなかったんです。どういった方向に変えるかよりも、一度、リセットしようという意向が強かったという印象です」

 当時の渡辺監督の印象では、アニメ『ドラえもん』リニューアルにさいして“いったんリセットしよう”という意向が強く働いていたようです。そういう意向のなかに“原点回帰”というテーマが加わったのは、ほかの誰でもなく渡辺監督の考えが大きく作用していたということですね。もし原点回帰というテーマではないリニューアルだったとしたら、私はリニューアルに対して受容したい気持ち以上に拒否反応を示していたかもしれません。原点回帰という方向に持っていってくださった渡辺監督に今さらながら感謝したいです。

 

 渡辺監督が絵コンテを担当したTV版の「あの窓にさようなら」(2009年10月23日放送)について「実は劇場の短編のプロットで考えていた話なんですよ」と語られているところも興味深いです。

 1998年公開の『帰ってきたドラえもん』から5年連続で制作された劇場版『ドラえもん』感動短編シリーズがもしその後もある程度続いていたなら、「あの窓にさようなら」の映画化がありえないことではなかったのですね。

 そう言われると、劇場で「あの窓にさようなら」を観てみたかったなあと思えてきます(笑)

 ただし渡辺監督は「正直言うと短編シリーズはあれぐらいのボリューム感で終わってよかったと思いますけどね。あと数本やったら、多分、飽きられていましたよ」と述べています。

 

 このインタビューでは、シンエイ動画から独立するときのことも少し言及されています。

のび太の恐竜2006』のあとくらいから独立を考えていたんだよね、と聞き手に振られた渡辺監督はこうおっしゃっています。

「そうですね。あれで自分の中では1本撮れたというのがありましたし、映画を作る面白さに気づいてしまったというのもあります。当時は原さん(稲垣註:原恵一監督)もシンエイにいらっしゃったので、どうすれば自分の映画を作っていけるんだろうかと話をしたことがあります。原さんは「会社を辞めるしかない」と仰っていましたね。結局、原さんも僕も辞めるんですが」

 

 このインタビュー記事では、シンエイ動画を辞めたあとのことがその後3ページにわたって語られていきます。