藤子不二雄A先生特別公開講座(その2)

 28日の日記の続きである。


 タクシーに乗って帰られる藤子不二雄A先生をお見送りしたあと、その場に居残った私たちは、何をするともなく談笑を続けていた。すると、大垣女子短大で講師をつとめるマンガ家の長谷邦夫さんが正門を出て行かれようとしたので、私が「食事をご一緒させていただきたいんですが」と声をかけると、快くOKをくださった。
 長谷さんは、明日この短大で講義があるため、大垣駅前のホテルで宿泊されるとのことで、そのホテルへ向かおうとされていたのだった。


 長谷邦夫さんとお酒を飲めることになったのだから、万々歳である。
 長谷さんといえば、石ノ森章太郎さんや赤塚不二夫さんとともに「墨汁一滴」という同人誌をつくっていたメンバーであり、戦後マンガの揺籃期から活動していた長老マンガ家である。さらには、パロディマンガというジャンルの第一人者であり、マンガ評論家の先駆け的な存在でもあるうえに、赤塚不二夫さんのブレーンとして長期にわたり数多くの仕事に携わってきた才人であって、最近では『漫画に愛を叫んだ男たち』の著者として注目を浴びている旬の人物でもある。
 藤子ファンの立場から見れば、トキワ荘の通い組メンバーであり、スタジオ・ゼロの一員であり、『まんが道』に登場するキャラクターの一人でもある、といった具合に、藤子先生と深い縁をお持ちの方との認識が強い。それに加え、デビューして間もない頃の藤子先生のマンガをリアルタイムで読んで好きになったという藤子ファンの大先輩であり、今でもいろいろな場所で藤子不二雄A先生と藤子・F・不二雄先生を高く評価してくださっている大恩人でもある。
 そんな長谷さんから酒の席でどんなお話を聞けるのだろう、と期待は高まるばかりであった。


 同短大の教授で、マンガ家の篠田英男さんもお誘いしたかったのだが、岐阜新聞の取材を受けるということで、岐阜新聞の大垣支局(だと思う)へ車で行ってしまわれた。
 篠田英男さんについては、私からすれば「しのだひでお」というひらがなのペンネームの方に馴染みがある。『藤子不二雄のまんが入門』『ドラえもんの発明教室』といった企画は思い出深いし、『べラボー』『ぼくんちのタコくん』『ドラQパーマン』といった作品では藤子先生と共作をされている。数々の藤子マンガの手伝いもされているし、いわゆる「F先生じゃないドラえもん」の作者の一人でもある。


 長谷さんと私を含めたマンガファン6人で、大垣駅前にある居酒屋に移動。長谷さんを中心にして席に座った。生ビールの中ジョッキ(車で来た人はウーロン茶)で乾杯して、宴の幕が切って落とされた。
 長谷さんは文章のプロでいらっしゃるが、お話も非常にお上手で、長谷さんの正面に座った私はあっという間にその魅惑的な語り口に引き込まれていった。初めて知るようなマンガ界のウラ話や、各界著名人との愉快な交遊エピソードなどをたっぷりと聞かせてくださった。マンガに対する深い見識から、長年通ったゲイバーのお話まで、硬軟とりまぜたその話題の幅広さにも改めて感服した。


 ここで長谷さんの発言内容を簡潔に紹介したいと思うのだが、なにぶん酒の席での私的な歓談であって、公表に適さない話題が多々あるし、さらには私の記憶に曖昧なところがあって、はっきり記憶している発言に限って公の場では書きづらい過激な(?)発言だったりするので、その辺も考慮に入れてのレポートになることをお断りしておく。


●「(ジャズの「山下洋輔トリオ」の元メンバーで、サックス奏者の)中村誠一は、アドリブ芸の達人なのだが、そんな中村誠一が、博多に自分よりおもしろい男がいると教えてくれた。それがタモリだった。中村誠一の芸に勝つ男なんて信じられないと思い、タモリを東京に呼んで、その芸をお披露目してもらおうということになった。実際に彼の芸を見たら、本当におもしろかった。不二夫ちゃん(赤塚不二夫)にそのことを話してもぜんぜん信じてくれなかったが、実際にタモリの密室芸を見てもらったらすぐに虜になった。そうしてタモリは、不二夫ちゃんのマンションに住むことになり、東京での生活がはじまった。
 タモリ本来の密室芸はテレビで見せられないので、タモリは本来の才能とは別の才能を発揮して、今の地位までのぼっていったことになる」


●「芳谷圭児の才能を見出した不二夫ちゃんとぼくは滝沢解の原作で作品を描いてもらい、「少年サンデー」に売り込んだ。その作品は増刊の「サンデー」に載って好評を得、それをきっかけに芳谷は表舞台でヒット作を出すようになっていった」


●「つのだじろうは、自分の弟子だと認識していた芳谷圭児を赤塚が奪っていったと思い、毛筆の巻紙による抗議文を赤塚のもとに送りつけてきた。その誤解を解くため赤塚はつのだと会うことになったのだが、赤塚に頼まれてぼくもその場に同行した。しかし、つのだは赤塚と一対一で話をしたかったらしく、後輩のぼくが口出しをしたことで、よけいに反感を買ってしまった」


●「『レインボー戦隊』は石ノ森章太郎がメインの作品に思われがちだが、安孫子先生が中心的な役割でかかわっている。ぼくは安孫子先生から指示を受けてこの作品の執筆を手伝った」


●「藤子先生が描いた『オバケのQ太郎』の下描き原稿がまわってくると、石森(石ノ森章太郎)が、空いたスペースにその他のキャラクターを描き込んでいった。その石森の下描きにぼくがペン入れしたことが何度もあった。石森が担当したキャラクターでペンタッチの汚いものがあったら、それはぼくのものだ(笑)」


 こうした話は、長谷さんの著書『漫画に愛を叫んだ男たち』でも書かれている内容であるが、実際にご本人の口から聞くと、活字で読むのとは違う臨場感やリアリティがあるし、微妙なニュアンスなども伝わってきて、初めて聞いたエピソードであるかのような新鮮さを感じた。



 そのほかの発言も、ざっと紹介していこう。


●「白土三平は漁師をしながら生活しているらしいが、今は格闘技の観戦に熱中している、という話を小学館の編集者から聞いて驚いた」


●「ぼくが初めて会ったプロの編集者は『少女クラブ』の丸さん(丸山昭)。並木ハウスの手塚先生のところへ、石森・赤塚と訪問したときのことだった。のちに、丸さんにそのときのことを話したら、丸さんは忘れてしまっていた。丸さんはあのとき、ぼくらが来たことで手塚先生の仕事が滞ってしまうのではと気が気ではなく、そんな嫌な記憶は早く忘れたかったのかもしれない(笑)」


●「朝日新聞社手塚治虫文化賞は、マンガ出版社の賞ではないので余計なしがらみがなく、審査委員による得点制度で公正に受賞者が決定される」


●「『漫画に愛を叫んだ男たち』のタイトルは、最近ブームになった『世界の中心で、愛をさけぶ』とはまったくの無関係。昔ぼくが出した『叫びのかたち』という詩集のタイトルがモチーフになっている」


●「大垣駅近くの広大な工場跡地に、少女マンガ記念館をつくればいいと思っている。大垣は(毎年講座を開くことで)安孫子先生とも縁があるのだから、藤子不二雄A記念館みたいなものだってつくれるのではないか。そうやって町おこしをして盛り上げればいい」


●「日本のマンガ史上で、マンガについて批評した文章を初めて公に発表したのはぼくかもしれない。トキワ荘時代、『現代詩』という雑誌に、マンガについて書いた文章を投稿して掲載された。今となっては批評とはいえないようなものだけど」


●「筒井康隆は、エキセントリックな性格で、つきあいを嫌がる人もいるが、実際につきあってみればおもしろくて魅力的」


●「五木寛之は、自己プロデュース力に長けた作家。編集者がやることまで自分でやってくれて、しかも女性からの人気が高いから、編集者にはありがたい作家だ」


●「『坊っちゃん』を読むと、主人公の坊っちゃん夏目漱石のように思えるが、本当の漱石は赤シャツだという説がある。そんな漱石の性格を孫の房之介はしっかりと受け継いでいる」


●「みなもと太郎の『ホモホモ7』は、担当編集者が意味を理解していない状態で連載された奇跡の作品。むしろ、担当者が意味を理解していなかったからこそ続いたといえるだろう」


●「一峰大二は明るい人だ」


●「今年NHKで放送されたアニメ『火の鳥』は物足りない出来だった」


●「京都国際マンガミュージアムが2006年に開設されるということだ。世界中からマンガ単行本や雑誌を収集し、日本のマンガも大量に収蔵する予定だという。現代マンガ図書館の内記コレクションから、どれほど貴重な本を買い取れるかに注目したい。展示だけでなく閲覧もできるようだ」


●「昔、石森の郷里に赤塚と行ったとき置いてきたぼくの名刺がいまだに保存されている。これは石森の父親が几帳面な性格だったからで、石森本人ならとっくに紛失している(笑)(この名刺は『石ノ森ふるさと記念館』に展示されている)」


●(藤子ファン仲間の一人が持ってきた昭和28年の『少年少女冒険王』を見て)「この時代は月刊誌の黄金時代だった。一冊の中に、非常にバラエティーに富んだ内容が詰め込まれていた。今はそれができない。秋田書店ですらこんな素晴らしい雑誌がつくれた(笑)」


●「楳図かずおのようなタイプのマンガ家には、高倉健のような編集者が合う、というのがぼくの持論。男気があってオレが責任を持つから安心して作品に専念しろ、といったタイプがいいんだ。細かい打ち合わせをしてあれこれ指示する人ではいけない」


 そんな調子で、長谷さんは、本当にたくさんのお話を披露してくださった。そのほか、『キャンディ・キャンディ著作権裁判の内情や、集英社「りぼん」連載の『ちびまる子ちゃん』が講談社漫画賞を受賞したからくりなどの話題も印象深かった。


 そして、藤子ファンである私にとって最も感激的だったのは、やはり藤子作品を評価してくださる発言であった。


●「アマチュア時代に『漫画少年』で『砂漠の牙』を読んで、こんな凄いマンガを描けるなんて!と感動した。それ以来ぼくは、(安孫子さんでも安孫子氏でもなく)安孫子先生と呼んでしまう」


 当時としては実験的すぎて理解されにくかった『砂漠の牙』の凄みに気づいて感銘を受けるなんて、さすがは長谷邦夫さんである。この発言を聞いて、やはり長谷さんは我われ藤子ファンの大先輩であるのだな、としみじみ感じ入った。


 長谷さんのトークを夢中になって聞いているうちに、岐阜県マンガ文化研究会のKさんが携帯電話で篠田さんに連絡をとったので、岐阜新聞の取材を終えた篠田さんも、遅れて宴会に加わることになった。
 店に入ってきた篠田さんは、岐阜新聞から取材を受けていただけにしては妙にハイテンションだった。それで私が、「我われよりも、篠田さんのほうが完全に出来上がってますねえ!」と言うと、「このやろう!」と篠田さんに頭をひっぱたかれた。そういう篠田さんのリアクションが、本当に出来上がってしまっていることを証明する結果となったのである(笑)


 篠田さんの参入によって、宴会のボルテージはさらに高まり、酔いどれぶっちゃけトークが繰り広げられた。
 問題発言(?)やちょっとお下劣なエピソードすら飛び出す状況の中で、トキワ荘スタジオ・ゼロ時代のお仲間たちの熱い友情話も挟み込まれたりして、私はジーンと感動を覚える瞬間もあった。問題発言で驚かせ、下品なネタで笑わせ、感動話で涙を誘うなんて、長谷さんも篠田さんも、今は大学の先生であるが、やはり根はエンターテイナーなのだ。


 篠田英男さんの発言では、以下のような言葉が心に残った。


●「ぼくが藤子スタジオでアシスタントをやっていたと言う人もいるが、それは違う。安孫子ちゃんに席が空いているから手伝いにきてと頼まれたので、友人として手伝いに行っていただけなんだ。当時の市川ビルには、藤子、赤塚、つのだ、長谷、古谷、高井、北見といった魅力的な人たちが集まっていたので、誘われれば行かない手はない。ぼくは(藤子不二雄の弟子ではなく)手塚治虫先生の弟子だから」


●「藤子不二雄のコンビが下北沢に仕事場を持っていた頃から、『手が空いていたら手伝いにきてよ』と安孫子ちゃんに言われて、よく手伝いに行っていた」


●「つのだじろうの実家の理髪店は、ワニを飼っていた。金魚をエサにして食べさせる場面も見た。そのうちみんなでワニを食おうという話にもなった(笑)」


 篠田さんは、銀座のクラブで遊ぶ安孫子先生のご様子も教えてくださったが、「これをどこかに書いたら許さんからな」と厳しく口止めされたので、身の安全のためにもここで書くのは控えたい(笑)


 そんな中でも極めつけのお下劣ネタは、スタジオ・ゼロ時代の市川ビル内で行なわれた遊びにまつわるお話であった。当時の市川ビルには、藤子スタジオ、フジオ・プロ(赤塚不二夫のプロダクション)、つのだプロ(つのだじろうのプロダクション)が同じフロアにひしめいていて、たいへん賑やかな状況だった。そんな状況下で様々な遊びが行なわれたのだが、今回うかがった遊びは、ここで書くのも憚られる内容なのである。だが、あまりにもインパクトが強かったので、一応ここで紹介しておこうと思う。お食事中の方や下品な話が嫌いな方は、以下の篠田さんのセリフを読まないでください(笑) 「●●●」の部分は自主規制です。




★「市川ビルの便所で●●●をするとき、●●●をコケシの形にするのがみんなの間で流行っていた。●●●を途中まで出して肛門をギュッとすると、コケシのような形になるんだ。それがうまくできると、みんなを便所に呼んで自慢する。それを見た他の面々は悔やしがって、俺がもっとうまくつくってやると競い合いになるのだが、そうはさせるかと、便所の上から水をぶっかけて妨害したりもした」

 

 この宴は、午後10時半ごろお開きになり、居酒屋から大垣駅前まで皆で歩き、長谷さん、篠田さんと握手をしてお別れした。