「ドラえもん誕生物語〜藤子・F・不二雄からの手紙〜」放送

 2月19日(日)午後2時から、藤子・F・不二雄先生のドキュメンタリー番組『ドラえもん誕生物語 〜藤子・F・不二雄からの手紙〜』(テレビ朝日系)が放送された。公開が近づいてきた映画『のび太の恐竜2006』の記念特番とのこと。今月は、この番組といい、「Quick Japan」の映画ドラ特集といい、藤子・F先生とドラえもんをテーマにした特番・特集としては比較的濃度の高いものに触れられて、充実感が大きい。



 番組は、女優の水野真紀さんをナビゲーターとしながら、藤子・F・不二雄の生涯を、F先生が残した言葉と関係者の証言、数々の資料、俳優を使った再現ドラマで追っていくというもので、私は番組の最初から最後まで興奮しっぱなしだった。感動のあまり涙がこぼれた場面もいくつかあった。
 藤子・F・不二雄という作家にスポットをあてた本格的な番組は、1997年8月8日『驚きももの木20世紀』(テレビ朝日)の枠で放送された「ドラえもん伝説 永遠の漫画少年 藤本弘」以後ぜんぜん放送されなかったような気がするので、今回の番組は本当に久しぶりの〝藤子・F・不二雄に迫るドキュメンタリー〟なのだった。



 私には全体を通して見どころばかりだったが、再現ドラマのなかでF先生とA先生の出会いから二人三脚の修業時代までがある程度描かれ、A先生ご本人のインタビュー映像があったことが、まずは純粋に嬉しかった。近ごろは〝藤子・F・不二雄〟や〝ドラえもん〟を扱った公式的な雑誌やムックなどで、藤子A先生の存在が素通りされたり冷淡に触れられるだけだったりして寂しいことこのうえなかったのだが、今回はA先生を登場させてくれて心からホッとした。本来ならA先生の登場は当たり前のはずだが、昨今は別々に扱われるのが普通になってしまったので、今回は少なからぬ喜びを感じたのだった。
 A先生のインタビューでは、原稿を大量に遅らせて仕事を干された「ゲンコウオクルニオヨバズ」事件を振り返り、「二人でいたことが大きかった。一人だったらあきらめて田舎へ帰っていた」と語った部分で胸が熱くなった。


 昨年のリニューアルでドラえもんの声を降板した大山のぶ代さんの出演にも好感がもてた。大山さんが現在のアニメドラ声優陣にエールを送ってくれたのも頼もしい。



 長年藤子ファンをやってきたなかでも、同番組でとりわけ貴重な映像だと感じたのは、ベッキーがF先生の故郷を訪ね小学生時代の同級生4名から話を聴くパートと、F先生の娘さん3名がF先生の思い出について語るパートだ。
「僕の描く子供たちはみんな僕の小さい頃の自分、及び 周辺の人物みたいのがイメージにあって それで描いている訳です」というF先生の言葉を手がかりに、ベッキーがF先生のふるさと富山県高岡市を訪ね、同級生4名と会う。その4名が一致してジャイアンのモデルになったのではと考える〝青木貞夫さん〟は、「おお!たしかにそんな感じだな」と納得できるほどガキ大将っぽい風貌だった。青木さんは、間違いなくガキ大将でありながら、弱いものを助けるタイプだったみたいで、そういうところは映画ドラで描かれるジャイアン像に近そうだ。
 このパートで映されたF先生ゆかりの地はおおむね実際に訪れたことがあるが、子どもの頃の遊び場だっという「定塚神社」については憶えがない。同級生の口から、この神社の境内で野球をやっていて近くの家の窓ガラスを割ってしまい皆でターッと逃げたことがある、というエピソードが披露され、ベッキーが「それって『ドラえもん』のマンガにも出てきますよ」と反応するシーンがあり、私は「『ドラえもん』の世界の原風景がここにもあったのだなあ」と感慨深い気持ちになった。
 F先生の生家として紹介された場所は、正確には生家でななく、F先生がA先生と出会った頃に住んでいた家の跡地で、実際の生家跡地は別の場所にある。別の場所といってもさほど離れていないのだが、その本当の生家跡地では何年か前まで旅館が営業していて私も宿泊したことがある。


 F先生の娘さん3名がまともにテレビ出演しているのを観るのは、私の記憶のなかでは初めてだ。F先生に関連した番組で、画面のなかに娘さんの姿が映りこんだところは観たことがあるが、娘さん3名がテレビカメラの前で本格的にF先生について語ったのはこれが初めてだろう。二女・日子さんが、F先生が亡くなったときの様子を語るくだりは、胸に迫りくるものがあった。


 再現ドラマのなかで、F先生が、就職した製菓会社で右手に怪我をしたエピソードが紹介された。番組では詳しく触れられなかったが、この製菓会社は「津田製菓」といって、主にキャラメルを製造していたらしい。高岡時代のF先生と親交の深かったかたの話によると、F先生は、高校卒業後津田製菓で働きだして2日目で指をつぶすような怪我をし、「これではマンガを描けなくなる」ということで会社をやめたそうだ。辞表を出しに行ったのが翌日と考えれば、藤子・F先生がこの会社に在籍したのは3日間ということになる。



 個人的に大きなトピックだったのは、F先生が少年サンデー編集長に出した手紙の内容である。マンガ読者の成長と劇画の流行によって、F先生が描いてきたような児童マンガが時代遅れとなり、少年サンデー側はF先生に、『21エモン』『ウメ星デンカ』でアクの強さを放ったゴンスケをサラリーマン的にキャラクター化してみたらいいんじゃないか、と新作の提案する。しかしF先生は、少年サンデー編集長にあてた手紙のなかで、「私は最近の読者層の変質についていけません 『サラリーマン ゴンスケ』は今の処興味がもてないのです」と自分の考えをきっぱり伝えたのである。その後に続く「しばらく『少年サンデー』の執筆陣から外して頂くほかなさそうです」という文面は衝撃的ですらあった。F先生がこの時代、暗い気持ちで懊悩していたことは、これまでいろいろなところで語られてきたが、そんなつらい状況下にあってもサンデー側の提案に安易に飛びつくことなく、「少年サンデーの執筆陣から外して頂くほかなさそうです」とまで言い切ってしまうF先生の信念と意志の強さは並大抵のものではない。心が震えた。
 このエピソードを観ていて思い出したのが、A先生が描いた『ゴンスケ』という作品である。これは、昭和45年にA先生が「東京タイムズ」「北海道新聞日曜版」に同時連載した、1回が15コマ前後のショート・ショートで、『21エモン』『ウメ星デンカ』に登場するゴンスケを主人公に抜擢した作品である。これによってゴンスケは、F作品とA作品に越境して登場する〝小池さん的キャラ〟になったわけである。当時の世相を反映して大阪万博や公害問題をネタにしているが、週一連載で全4回と、連載期間はひどく短かった。もしかすると、〝ゴンスケを主人公にする〟という少年サンデー側のアイデアを、F先生ではなくA先生がかたちを変えて実現させたのが、この『ゴンスケ』という作品だったのかもしれない。



 シンエイ動画の別紙壮一さんが、ジャイ子の本名を考えようという席でF先生が「やっぱり考えるのはやめましょう。もし本名を決めてしまって、小学校や幼稚園にそれと同じ名前の女の子がいていじめられたらかわいそうだから」と発言した事実を披露した。このことは、「Neo Utopia」40号の別紙壮一さんインタビューですでに知っていたが、テレビで改めて聴くとまたF先生のやさしさが深く伝わってきて心に沁み入る。


ドラえもん』新連載の頃の「小学四年生」編集者だった河井常吉さんも登場。F先生が描いた『ドラえもん』連載開始一ヶ月前の予告が、作品のタイトルも主人公が誰かも分からぬもので困ってしまったというエピソードを語っていた。この河井さんは、『ドラえもん』第1話「未来の国からはるばると」(てんコミ1巻)の最終コマに見られる電柱の看板「河井質店」の元ネタになった人物でもある。


 武田鉄矢さんや柴田理恵さんらドラファンの芸能人も登場。それぞれのコメントに共感する部分があったが、私はとくに、千秋が挙げた映画ドラの名場面に強く同調した。『のび太の宇宙開拓史』の「心をゆらして」が流れるラストシーンは、ビデオソフトがまだ1万円くらいする時代にこれを買って、何度も何度も繰り返し観た思い出があるのだ。このシーンを観返すたび、主題歌のとおりに心が揺れて、深い感銘が呼び起こされる。
 いまや柴田さんの持ち芸にすらなっている『のび太結婚前夜』語りにも相変わらず共鳴したが、今回の柴田さんはいつもみたいに大泣きはしなかった。



 全体的に満足のいく番組内容だったが、細かいところで気にかかる点はあった。贅沢な願望かもしれないが、そういう細部が完璧だったらもっと素敵だったのに、と思う。
 たとえば、藤子両先生のデビュー作とされる『天使の玉ちゃん』の連載回数が、「全8話」と明言されていたが、「Neo Utopia」23号で復刻されたとおり、この作品は少なくとも16回以上続いたことが確認されている。資料が不足していて、正確な連載回数は判明していないものの、「全8話」と断定するのは事実に反するだろう。
週刊少年サンデー」で連載の始まった『オバケのQ太郎』が、当初は「8回限定の試験的連載だった」と説明された部分も、本当は「9回」が正しい。
オバケのQ太郎』が「週刊少年サンデー」で人気を博しアニメ化されたというところで、昭和60年からテレビ朝日で放送されたシンエイ版『オバケのQ太郎』の映像が流されたことにも違和感をおぼえた。ここでは史実に即して、この当時TBS系で放送されたモノクロ『オバケのQ太郎』の映像をちゃんと使ってほしかった。同様に、モノクロ『パーマン』『ウメ星デンカ』の映像を使うべきところで、シンエイ動画版の映画『パーマン』『ウメ星デンカ』の映像が流されていた。せっかく良い番組なのだから、こういうところをもっと徹底してくれたらよかったのになあ、と思った。モノクロ版の映像が残っていないわけではないし、その気になれば版権をクリアするのが難しいなんてこともないはずなのだ。
 あと、F先生が世界の遺跡を現地取材しそれを自作に活かしていたというくだりで、その事例として、F先生の死後作られた映画『のび太太陽王伝説』や『のび太とふしぎ風使い』の映像が示されたのも、ちょっとどうかな、と感じた。F先生が直接描いた作品にもっと適切な例があるというのに。
 まあ、そんな細かいところが気にかかったとはいえ、大局的には些細な事柄なので、おおむね感動的な気持ちで観ることができた。



 今回は、映画『のび太の恐竜2006』公開記念番組であり、『ドラえもん』という作品が誕生するまでの秘密に力点を置いたものだったため、F先生やF作品の善良で健全な面ばかりをクローズアップし、F先生が児童善導的な作品を生涯描き続けた良心的な漫画家だった点を強調する構成になっていた。F先生はやさしくあたたかくまじめな人物で、F先生が描いたマンガは夢と希望と愛と感動の詰まった明朗なものだというアングルで番組が作られていたわけだ。それはそれで間違っていないだろうし、そういうアングルで番組作りをするのが当然といえば当然なのだが、F作品の、人間や世界の裏面の真実をついたダークで深遠で皮肉っぽい側面を探究したドキュメンタリーもファンとしてはいつか観てみたい。