「魔界大冒険」小研究2(魔界歴程をめぐって)

のび太の魔界大冒険』には「魔界歴程」というアイテムが登場する。魔界へただ一人足を踏み入れたことのあるナルニアデスという人物が書き残した古文書である。
 この「魔界歴程」のネーミングの元ネタが、ジョン・バニヤン(イギリス)の宗教的寓意物語『天路歴程』であるのは間違いないだろう。クリスチャンという名の男性が聖書を携えイエスの教えを道しるべに「滅亡の町」「落胆の泥沼」「俗念の市」「困難の丘」「死の影の谷」「虚栄の市」「疑惑の城」など各地を巡り、様々な試練・苦難・誘惑を克服しながら最後に「天の都」に到達する旅の物語である。イギリスのキリスト教者のあいだでは聖書についで大事な書物とされているという。
(『天路歴程』には、正篇(1678年)のほか、続篇(1684年)もある)



 世界名作劇場などでアニメ化もされた、L・M・オルコット(アメリカ)の自叙伝的小説『若草物語』(1868年)では、『天路歴程』が重要な役割を担っている。『若草物語』の物語構造そのものが『天路歴程』をなぞっているとの見方もできるだろう。オルコットの父親が『天路歴程』を愛読していたことが、『若草物語』の内容に反映しているのである。
若草物語』は、メグ、ジョー、ベス、エイミーの4姉妹の成長物語だ。その作中で、4姉妹の母親が娘たちにこんなことを語りかける場面がある。

あなたたち、まだ小さかったとき、よく『天路歴程』をまねて巡礼ごっこをしたのをおぼえているかしら?

 4姉妹は幼いころ、『天路歴程』のストーリーをたどる遊びを、母親の作ったルールの上で行なっていたのである。
 母親のその問いかけに対し、4姉妹は巡礼ごっこを懐かしみながら思い出を語りだす。そこで次女のジョーはこんなことを言う。

ほんとうにおもしろかったわ。とくに、ライオンのそばを通ったり、魔王と戦ったり、お化けがいる谷を抜けていくところなんか。

 ジョーがおもしろかったと語る「ライオンのそばを通ったり、魔王と戦ったり、お化けがいる谷を抜けていく」というくだりは、『のび太の魔界大冒険』のなかでのび太たちが、猛獣のいる森を抜けたり、お化けみたいな魔物のいる海・野原を進んだり、魔王デマオンと戦ったりする場面とイメージが重なる。それを思うと、『のび太の魔界大冒険』はバニヤンの『天路歴程』から「魔界歴程」のネーミングのヒントを得るばかりでなく、ストーリー上でもいくらか影響を受けているように感じられる。
 だがストーリーに関しては、『天路歴程』からの直接的な影響というだけでなく、『天路歴程』の影響を受けた19世紀以降の優れたファンタジー作品全般からの影響が大きい、と考えたほうがよいかもしれない。



 ジョン・バニヤンの『天路歴程』からとりわけ強い影響を受けたファンタジー作品の代表が、C・S・ルイス(イギリス)の『ナルニア国物語』(全7巻・1950〜1956年)である。
のび太の魔界大冒険』の作中で「魔界歴程」を書き残したとされる人物の名前は、前述のとおりナルニアデスという。ナルニアデスの由来が『ナルニア国物語』にあるのは間違いないだろう。
 ルイスは、何か言いたいことがあってそれをファンタジーの形式で書いた人物に『天路歴程』のジョン・バニヤンや『北風のうしろの国』のジョージ・マクドナルドがいると考え、自分もその仲間に入ると自己分析していた。そんなルイスは、『天路逆程』という作品も書いている。『天路逆程』は、『天路歴程』の再話というかたちをとっていて、主人公は、ジョン・バニヤンに敬意をこめて「ジョン」と名付けられている。



 ところで、世界に数あるファンタジー作品のなかには、物語の最初からいきなり異世界を描き出すものもあるが、それではすんなりと異世界に溶け込んでいけない読者も出てくる。そのため、物語の初めでリアリティのある現実世界や親近感に満ちた日常を描いて読者を感情移入させ、その手続きを踏んでから異世界へ連れ立っていくファンタジー作品も登場した。そんな作品のひとつが『ナルニア国物語』の第1巻『ライオンと魔女』であるし、そのほかにも、エンデの『はてしない物語』、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』、石井桃子の『ノンちゃん雲に乗る』などいろいろありそうだ。『のび太の魔界大冒険』をはじめ藤子F先生の大長編ドラえもんもまた、そういう手続きを踏んだ作品と言えるだろう。