「建国記念の日」と『のび太の日本誕生』と山岸凉子『日出処の天子』

 11日は「建国記念の日」でした。
建国記念の日」が2月11日なのは、簡単に言うと、日本書紀に記された神武天皇の即位日を現在の暦にあてはめてみたら「1月29日」という日付になって、でもその日付だと何かと問題があったので、別の算出法によってこの日を導き出したからです。神武天皇の即位年は「紀元前660年」だったそうです。「建国記念の日」は、“日本国の始まり”を“神武天皇の即位日”と解釈しているわけですね。


 神武天皇は初代の天皇とされていますが、その実在に関しては否定的な見解が有力です。初代から第9代までの天皇は架空の人物と考えるのが一般的でしょう。その後の何代かの天皇についても、実在の可能性を疑う説があります。
 ならば、神話・虚構の世界のことではなく、実際の歴史上における日本の始まりとは、いったいいつのことだったのでしょう。
“日本人のルーツ”という観点で考えると、文化人類学歴史学、考古学、分子生物学など多様な分野から研究がなされているうえ、学問的根拠の薄弱な伝説・奇説・トンデモ説もたくさんあって、ここではどうにも扱いづらいので敬遠しておきます(笑)


 ただ、少しだけ、“日本人のルーツ”というテーマを藤子マンガに引き寄せて言及しておきましょう。
 藤子F先生は、『藤子・F・不二雄の異説クラブ2』(小学館、1991年発行)で、日本人のルーツをめぐるご自分の知見や考え方を詳しく語っています。その中にこんな一節があります。

「日本にいつから人がいたかという場合の「人」の定義ですね。一応、今の便宜的な区分けでは、類人猿から猿人、原人、旧人、新人ときているわけですが、ぼくたちの直系の先祖、血のつながりということから考えると、クロマニヨン人に代表される新人を考えざるをえないと思うのです。」

 藤子F先生は、日本人の直系の先祖を“新人”だと考えざるをえないと言ってます。その考えをもとに“日本人のルーツ”を主題化した作品が、大長編ドラえもんのび太の日本誕生』です。
のび太の日本誕生』でのび太ドラえもんたちは、タイムマシンを使って7万年前の日本列島へ出かけます。自分たちだけで思う存分使える広大な空き地を求めて、日本列島に人が住んでいなかったであろう時代を目指したのです。
 そして、本作にはククルという原始人の少年が登場します。彼は、この時代の中国大陸に住む一族の一人でした。
 物語の最後に、ククルの一族が日本へ移り住み、ドラえもんが「ここから「日本」という国が第一歩をふみだすわけだ」と説明します。最後のページでは、それから20年後のククルの姿が映し出され、「ククルはたくましく成長し、族長になっていた。ウンバホ(日の国の勇者)と呼ばれ、村人たちに尊敬されていた。それ以前の日本にも人間はいたようだ。だが彼ら(旧人)は、やがて絶滅したらしく、今の日本人と血のつながりはない。だからあの時…、ククル一族(新人)がすみついた時こそ“日本誕生”の瞬間だったのだ!!」と解説が加えられます。
 作中ではまた、「ほかに、朝鮮やシベリア、南の島なんかからも移住してきたらしいよ。何万年もかかってね」と、中国大陸から以外にも日本人の祖先が移住してきたルートがあることが、ドラえもんのセリフによって説明されています。そのさりげないセリフの挿入によって、作品のリアリティ・説得力がずいぶんと高まっていて、そういうところにも藤子F先生のマンガ作法の冴えを見出せます。



 さて、では、“日本人のルーツ”ではなく、“日本という国”が歴史のうえで正式に登場したのは、いつのことだったのでしょうか。『藤子・F・不二雄の異説クラブ2』における藤子F先生の語りをきっかけに、このテーマを考えていきたいと思います。

「日本が歴史の中に記述された最初が、紀元57年。倭(わ)の奴(な)の国王という人が、後漢から金のハンコをもらっているわけですね。」

 ここで藤子F先生の言ってる「金のハンコ」とは、いわゆる「金印」のことですね。具体的には、後漢光武帝から授けられた「漢委奴國王印(かんのわのなのこくおうのいん)」です。
 そして、藤子F先生は、こうも言ってます。

「紀元239年、3世紀なかば。ここで再び、中国の史書に日本が出てきます。これが有名な『魏志倭人伝』。細かいことをいえば、そういう本のタイトルはないのです。『三国志』の中の「魏志」の中に「東夷伝」というのがあって、その中の、たった二千文字余りの「倭人の条」が、当時の日本を描写した文献として、ただ一つ、今に残されているのです。」

 ここで藤子F先生が挙げた『魏志倭人伝』には、あの有名な、卑弥呼邪馬台国が登場します。今でも、「邪馬台国はどこにあったのか」という論争が続いてますよね。


 私が引用した藤子F先生の発言で触れられた3世紀までの時点で、「倭国」とか「邪馬台国」といった国名は登場したのですが、しかしまだ“日本”という国名は存在していませんでした。では、“日本”という名の国家が正式に誕生したのはいつのことだったのか。
 これにも諸説あるようですが、ここでは、2004年に亡くなった歴史学者網野善彦氏の著書『「歴史」とは何か』(講談社、2000年発行)を参照しようと思います。網野氏が新たにとらえなおした日本の中世史は多方面に刺激を与え、その中世観は、宮崎駿監督の『もののけ姫』にも影響を及ぼしたと言われます。『もののけ姫』のパンフレットにも網野氏が寄稿していますね。


 網野氏によれば、“日本”という国名が公式に決定されたのは、研究者によって多少の見解の相違はあるものの、689年に施行された「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」によってだった、ということです。それと異なる見解にしても、「7世紀半ばから8世紀初頭までの間に日本という国名が誕生した」とするのが大勢のようです。
 それまで「倭国」だった国が、このときから「日本国」と名乗り始めたわけですね。この時点での日本の領域に、東北地方中部以北から北海道、九州南部から西南諸島などはまだ入っていなかったといいます。


 網野氏は、“日本”という国名が決定したそのときが「日本国の成立」であり「日本人の出現である」と訴えます。それより前の時代には“日本”という国はなく、“日本人”という人もいなかったことになりますから、歴史学者が不用意に「日本の旧石器時代」とか「弥生時代の日本人」といった表現を使うことに、網野氏は疑問を呈しています。こうした考えの背景には、日本国政府が虚構の日付(神武天皇の即位日)をもとに「建国記念の日」を定めていることに対して批判的である網野氏の思想的立場も関係しているのでしょう。
 まあ、われわれが日常の中で“日本”という国名が誕生する以前の“日本”を“日本”と呼ぶ分には、何の問題もないでしょう^^


“日本”という国名は、文字通り「日の本(もと)」という意味です。中国から見て東側に位置することから、「日出づる処(ひいづるところ)」と見なしたわけですね。小国である日本が、当時の圧倒的な大国である中国を強烈に意識したネーミングです。中国に視点を置いているという理由で、「“日本”とは、真に自立した国名ではない」とネガティブにとらえる人もいるようです。
「日出づる処」という言葉は、7世紀初頭、遣隋使が持参した倭王の国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや(つつがなきや)」という文脈で登場します。
 そして、この文言を作品の冒頭と結末に用い、タイトルにも使ったマンガが、山岸凉子さんの『日出処の天子』(1980年〜84年「LaLa」連載)です。日本のマンガ史上で名作中の名作と評される作品ですね。


 私は、2月11日「建国記念の日」から今日にかけて『日出処の天子』を再読しました。
 物語の舞台となる時代は6世紀後半。まだ“日本”という国名が誕生する前の日本です。厩戸王子(うまやどのおうじ=のちの聖徳太子)と豪族の蘇我毛人(そがのえみし)を主人公格とし、大和朝廷・豪族らの権力闘争や宗教的対立、複雑な人間関係などを描きながら、少年だった厩戸王子が摂政となって政治的実権を掌握するまでを綴っています。とくに連載の後半は、厩戸王子と蘇我毛人の恋愛が前面化します。
 厩戸王子の妖しく美しくミステリアスな存在感が秀逸で、この世のものなのにこの世のものならざる幽玄と孤高と畏怖を感じます。また本作では、この厩戸王子を美形の超能力者、同性愛者として描いています。歴史上の人物である厩戸王子=聖徳太子が超能力を有していて、しかも女嫌いの同性愛者であるとする大胆な解釈を、鮮やかな手つきで作品に織り込んでいるのです。

 美しくも妖しい天才・厩戸王



建国記念の日」にちなんでこの文章を綴ってきましたが、「『日出処の天子』は何度読んでもゾッとするほど魅惑的な作品だ」というのがこの日記の結論であります(笑)


 最後に、『日出処の天子』と藤子マンガの関係を一つ指摘してみようとするなら、『ドラえもん』の「まんが家ジャイ子先生」という話に、『日出処の天使』をもじった『日出処は天気』なるマンガが登場します。『日出処は天気』は、ジャイアンの妹ジャイ子ペンネーム:クリスチーネ剛田)が描いたマンガのタイトルですね。
『日出処は天気』って、ちゃんと元ネタの語感を踏襲しながら、明快な意味を持っていて、面白くて上手なもじりだなと思います。