不器用な理髪師

 散髪に行ってきた。
 散髪といえば、藤子不二雄A先生のブラック・ユーモア短編『不器用な理髪師』を思い出す。手先が不器用で腕に自信のない理髪師にカミソリで顔を剃られる恐怖を描いた作品だが、私も年に何度かは理髪店のお世話になっているわけで、マンガの中だけの絵空事という気がせず、どこか生々しい感覚を突きつけられる。
 かといって、理髪店に行くのが本当に恐ろしくなるほど実生活に支障を来たすわけでもなく、今日もためらいなく理髪店へ出かけ、カミソリで顔を剃ってもらった。
 

 ところが、私の行きつけの理髪店は、『不器用な理髪師』で描かれたような恐怖を少しだけ体験できてしまう、というありがたくない特典が付いてくるのだ。
 その理髪店は、60代くらいのおじさんとおばさんが二人でやっていて、どちらに散髪してもらえるかは当日店に行ってみないと分からない。たまたまおばさんに当たった場合は何の問題もないのだが、おじさんに散髪してもらうとなると事情が違ってくる。
 このおじさん、手先が微妙に震えているのである。震えているのに、ちゃんとハサミやカミソリを使いこなせるのだから、さすがは熟練した理髪師だと思う。思うのだけれど、髪の毛を切ったり顔を剃ったりしてくれる人の手先が震えているというのは、やはり気持ちのよいものではない。
 物理的な被害だってある。カミソリで顔を剃ってもらうとき、おじさんの手が小刻みに震えていて不安定なため、時どきカミソリの刃が肌に強く当たってチクッとするのだ。チクッとするだけでなく、ごくわずかに皮膚が切れて出血することもある。
 なんと、スリリングな理髪店であることか…
 とはいえ、『不器用な理髪師』に登場する理髪店のように命の危険にさらされることはないし、私はその理髪店のおじさん、おばさんの人柄に親しんでいるし、だいいち、行きつけの理髪店を変えるのは面倒なので、今後も同じ理髪店に通い続けることになるだろう。
 今日はおばさんに散髪してもらったので、痛みも出血もなく平和に散髪を終えられた。


 さて、理髪店というと、赤青白のらせん状の縞がくるくると回転している円筒形の看板が印象的である。
 この看板、赤は動脈、青は静脈、白は包帯を意味していて、中世ヨーロッパの理髪師はたいてい外科医を副業にしていたことから、そのような色合の看板が考案されたらしい。
 藤子・F・不二雄先生は、ご自身の人間観を語るとき、この理髪店の看板を比喩的に用いることがあった。
 たとえば、こんな例がある。

クルクル回っている床屋の看板があるでしょ。(略) あれって、間断なく回り続けているでしょ。上へ上へと上昇している。でもよく見ると、実際は全然進歩していないのね。(略) あれは人間の姿だと思うの。子どものころには夢を持っていてどんどん上昇していくけど、そのうちに限界というものを知らされて平凡になっていく。それでもたまに素晴らしい小説や映画に出会って、自分もこういう生き方をしなくちゃとか思う。でもその気持ちだって3日もすれば終わっちゃう。しまいには、その「上昇の夢」さえ忘れてしまう。そうじゃなくて、挫折しても明るく夢を見続ける「自分を見捨てない人」に共感してほしい。(「ト
ランヴェール」平成8年1月号)

 藤子・F先生は、こうした理髪店の看板の喩えを用いるにしろ用いないにしろ、様々なところで同様の発言を繰り返している。
 人間は、多かれ少なかれ「のび太」的な弱点を抱えている。それで時々わが身を振り返って自分の弱点を反省し、どうにか弱点を克服したいと思って努力しはじめる。でも、その努力もさほど長続きはせず、何日かすれば元の木阿弥。気付いてみれば、今までどおりの弱点を抱えた自分が、今までどおりの生活を続けている、ということになる。大多数の人間は、程度の差こそあれ、そういった行為を繰り返しながら生きているというのが、藤子・F先生の人間観なのだ。
 しかし先生は、そこで止まってはいけない、という。弱い自分、ダメな自分にあぐらをかいて、夢見ること、努力すること、反省することを忘れてはいけない、と語る。夢を見ても夢は破れるし、努力をしてもすぐに挫折するし、反省しても反省したことを忘却してしまうのが我われ普通の人間の本性なのだが、それでもなおかつ上昇しようという志を捨てないでほしい、と願っていたのが藤子・F先生なのである。


『挫折しても明るく夢を見続ける「自分を見捨てない人」に共感してほしい』という言葉に、藤子・F・不二雄先生の願いが凝縮されている。