藤子不二雄A先生が岐阜にやってきた!②

 きのうの日記の続きである。

 
 11日(月・祝)、岐阜市の未来会館3階で開かれたトークショー「マンガでゴルフ!?」を観覧し終えた私は、そのあと、岐阜県マンガ文化研究会が主催する会員&関係者限定の立食パーティー「ワイワイトーク」に出席した。未来会館6階のレストランを借り切っての催しだった。
 このパーティーには、「マンガでゴルフ!?」出演者である藤子不二雄A先生、ちばてつやさん、小山由紀子プロ、篠田英男さんが参加されるということで、藤子不二雄ファンの私にとっては、藤子不二雄A先生とお酒を酌み交わしながら会話ができる絶好のチャンスであった。
 パーティー会場で実際に藤子A先生に近づけるかどうか、不安と期待がめまぐるしく交錯し、パーティーが始まる前から一種独特の昂揚感と緊張感を味わった。


 出席者全員がパーティー会場に揃い、開会の挨拶として、藤子不二雄A先生とちばてつやさんが短いスピーチをされた。そのさい、藤子A先生は「僕は、全国いろいろなところへ行ってますが、その中でも岐阜がいちばん好きです」とコメントされ、それを聞いた私は隣にいる人と一緒に思わず笑ってしまって、とくに隣の人は声を出して笑ったため、藤子A先生に「そんなふうに笑ったら、僕が嘘をついているみたいじゃないですか(笑)」と軽妙に注意されてしまった。次にスピーチに立ったちばさんも、「私も岐阜がいちばん好きです」とタイミングよくコメントされ、場内の笑いを誘った。


 乾杯の音頭があって、パーティーは本番に突入。藤子A先生は、大垣女子短期大学の教員らしき方と2人で会話をされ始め、なかなか近づけない状態であった。
 しばらくすると、ちばてつやさんが我われのほうへ近づいてこられたので、私はすかさずビール瓶を持ってちばさんのグラスにお酌した。すると、ちばさんも私にお酌をし返してくださった。あの、『あしたのジョー』や『ハリスの旋風』を描いたちばてつやさんにビールを注いでもらえたのだから、興奮せずにはいられない。心臓の鼓動をいくぶん速くしながら会話をさせていただいた。会場の窓から望める長良川岐阜城が話題の中心になった。私は『あしたのジョー』や『あした天気になあれ』などのちばマンガを持っているが、ちばさんのマンガにはあまり詳しくなく、世間話をするしかなかったのが残念といえば残念だった。今になってみれば、あんなことやこんなことを話題にすればよかったな、と冷静に思えるのだが。


 藤子A先生は、相変わらず同じお相手と2人で会話され続けていて、このままでは何ともならないと悟った私は、ビール瓶を持って藤子A先生の横に行き、「先生、あんまりビールが進んでいないようですねえ」とか言いながら、藤子A先生のグラスにビールを注いで、そのまま先生と会話させていただいた。藤子ファン仲間の2人もすぐにそこへ参入した。
 藤子A先生から「今日は何時に来たの?」と質問されたので、「朝8時前には岐阜に着いてしまって、コーヒーショップで藤子不二雄A先生の話をしながら何時間も盛り上がっていました」と答えると、先生に「それは、お店の人に迷惑だよ〜(笑)」と返されてしまった。そうやって楽しく会話をさせていただくうちに、藤子A先生の周囲を合計7〜8人が取り囲む状態になり、場がたいへん賑わってきた。


 私が『わが名はXくん』『はりきり首相』『ゴリラ五郎くん』『魔太郎が翔ぶ』などといったマニアックな藤子A作品に言及したり、藤子A先生の質問に即座に答えたりしているうちに、先生は、「よく知ってるねえ。嬉しいよ〜!」と喜びの感情を示してくださるようになり、次から次へとハイテンショントークを披露してくださった。私の腕を両手でつかんで熱心に話をしてくださる瞬間もあり、私はそれこそ天にも昇るような気持ちになった。
 私にとって、藤子A先生は神様のような存在である。そんな巨大な存在に喜んでもらえたうえに、腕をつかみながら話しかけてもらえたのだから、私はもう、どうにかなってしまいそうだった。こういう感覚を「昇天」と言うのだろうか。


 結局、1時間ほど藤子A先生とお話させていただいた。とにかく先生はノリにノッて、非常に多くのお話をしてくださった。
 そんな藤子A先生の発言の一部を要約して紹介してみたい。


 
●今のアニメやマンガは、CGなどのデジタル技術を駆使したものが多くなった。もちろん、そういった技術も大切だが、それに頼りすぎると、体温が伝わってこなかったり、人間性を深く描くことができなかったり、ストーリーをおろそかにすることになったりする。僕はそれを危惧している。


●映画『NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE』のロケ現場で会った香取慎吾くんは、とてもいい青年だった。あのくらいの大物になると、ハットリくんのようなキャラクターを一生懸命にはやってくれないものだが、彼は本当に熱心にやってくれた。フジテレビだけでなく色々なテレビ局にハットリくんのコスチュームで出てくれて感心した。
最初出来上がってきた脚本は、まるでコントのような内容だったので、かなり手直しをした。おかげでストーリー性のある映画になった。


藤子不二雄A展は、氷見、京都、品川と、回を重ねるごとに規模を拡大できて、大評判だった。


●『鉄腕アトム』や『鉄人28号』、そして『忍者ハットリくん』『シルバークロス』などの名作を生んだ月刊「少年」を廃刊にしてしまった光文社だが、あのまま続けていたら、今ごろ週刊「少年」として、現在のマガジンやジャンプ以上のマンガ雑誌になっていたはずだ。光文社は惜しいことをした。


●僕は秋田書店少年画報社と相性がよかった。


●普段は辛口コメントの多いNHKBSマンガ夜話だが、僕の『まんが道』をテーマにしたときは、いしかわじゅんさんはじめ皆が好意的なコメントをしてくれて嬉しかった。


●『わが名はXくん』は、その後の藤子マンガの王道となる『忍者ハットリくん』『怪物くん』『オバケのQ太郎』などのルーツになっている。Xくんのモデルになった少年は実在する。


●月刊「少年」に描いた『恐怖探偵局』は、少年マンガに初めて「ホラー」の手法を取り入れた作品なのに、その辺はあまり理解されなかった。僕が初めてやったことはたくさんあるのに、いつも時代の先を行きすぎていて理解されない。


●『魔太郎がくる!!』は、僕が子どもの頃にいじめられた体験もあって、いじめられっ子にカタルシスを味わってもらうために描いた。連載当初は、現実的な方法で復讐をしていた魔太郎だが、だんだんと幻想的な方法に変わっていった。連載を始めた当時は、いじめはまだ社会問題になっていなかったが、しばらくすると社会問題化してきて、僕も「いじめ評論家」のような役割で様々なメディアからお呼びがかかった。でも、すべて断った。『魔太郎がくる!!』アニメ化の話も何度かあったが、すべて断っている。
 魔太郎というキャラクターの造形にモデルはなく、イマジネーションで創造した。あの魔太郎のメガネのデザインは、後年になって流行した。こんなところでも時代を先取りしすぎている(笑)


●青年になった魔太郎を描いた『魔太郎が翔ぶ』は、「ヤングマガジン」の編集部に連載を頼まれた作品だが、当時は忙しかったので2回だけの読切になった。




 そのほか、『ONE PIECE』の尾田栄一郎さんや『BECK』のハロルド作石さんと対談したときの感想や、京都「藤子不二雄A展」初日の中川家とのトークショー中川家が喋る暇もないほど藤子A先生がいっぱい喋った理由、もともと講談社の学習誌で作品を描いていた藤子・F・不二雄先生が小学館の学習誌で『ろけっとけんちゃん』を描き始めることになった経緯、「明日にのばせることを今日するな」「なろう! なろう! あすなろう! 明日は檜になろう!」という言葉に寄せる思い、石ノ森章太郎さんに初めて会ったときの印象とそのお姉さんの思い出、「21世紀のコミック作家の著作権を考える会」の活動について、などなど、本当にもりだくさんの話を聞かせていただいた。
『サル』の次の試合の舞台はどこかとか、『愛…しりそめし頃に…』はどの時代まで描いて最終回を迎えるつもりかとか、そういった現在連載中の作品の未来を予告する話題もあったが、それはネタばらしになるのでここで内容を書くのは控えたい。


 私にとっては、個人的に思い入れの深い作品『魔太郎がくる!!』と『わが名はXくん』について藤子A先生と言葉を交わせたことも、重要な体験だった。とくに、子どもの頃『魔太郎がくる!!』を読んでたいへん救われたこと、自分にとってこの作品はバイブルだということを、藤子A先生に伝えられたのは大きい。


 藤子A先生とたっぷりお話ができたことで大満足の私だったが、この日は運がついていたようで、パーティーの途中で行なわれた抽選会で、藤子A先生、ちばさん、小山プロ、篠田さんの4名による寄せ書きサイン色紙が当たった。賞品を受け取った私は、歓喜のあまり、そばにいらした藤子A先生や篠田さんに握手を求めてしまった。


 このパーティー終了後、藤子A先生はすぐにタクシーで岐阜駅へ向かい、帰途につかれた。岐阜駅から名古屋駅まで快速列車で行って、そこから新幹線でご自宅のある神奈川県まで帰られたようだ。ちばさんや小山プロも、ホテルあるいは自宅に戻られた。


 我われは、未来会館を離れ、岐阜の繁華街・柳ヶ瀬のスナックで開催されたニ次会に出席した。
 篠田英男さんの隣に座った私は、昭和41年から「希望の友」に連載された『ぼくんちのタコくん』というマンガを藤子不二雄A先生と合作することになった経緯について質問してみたが、大した理由はないようだった。篠田さんが『ぼくんちのタコくん』をすぐに思い出してくださっただけでも、私としては満足だった。
 それから私は、藤子A先生をはじめ様々なマンガ家や編集者の方々が自伝や戦後マンガ私史のような本を書いているので、篠田さんにもぜひ書いてほしい、と希望を伝えた。
 藤子ファン仲間のKさんは、その場で篠田さんに色紙を描いてもらったのだが、そのとき描かれたイラストにベタ塗りをするよう篠田さんご本人に指示され、皆が注目するなか、線からはみ出すことなく見事にベタ塗り作業を完遂したのであった。「これでこの色紙は篠田さんとKさんの合作ですね」と言うと、篠田さんから「それだけじゃ合作とは言えない。せいぜいアシスタントだな(笑)」といったリアクションが返ってきた。


 すべての予定が終了し帰宅した私だが、酒に弱いくせに、酒にお強い藤子A先生にビールを勧め、その勢いで自分でも結構飲んで、さらに二次会で水割りまで飲んでしまったため、少々気分が悪くなった。でも、この日の素晴らしい体験を思えば、少々の気分の悪さなどすぐに吹っ飛ぶというものだ。



●お断り:上の文章における藤子不二雄A先生の発言内容は、藤子A先生の言わんとしたことを意味的に要約したものであって、先生の発した言葉をそのまま採録したものではありません。先生の発言の主旨を簡潔に伝達するため、私が言葉を補足した部分もあります。