「東京シンデレラ」

 安孫子先生(=藤子不二雄A先生)の初期作品『東京シンデレラ』を、最近になって読むことができた。
 この作品は、光文社の少女向け雑誌「少女」昭和31年新年大増刊号(光文社)に掲載された7ページの読切マンガで、特筆すべきは、膨大な数にのぼる安孫子作品の中でほとんど唯一といってよい少女マンガである、ということだ。
 安孫子先生は、デビューして間もない時代に少女雑誌でカットやコママンガのような細かい仕事をしたことがあるようだし、ずいぶんあとの時代になって女性週刊誌に『愛ぬすびと』『愛たずねびと』『ミス・ドラキュラ』などの一般女性向けマンガを連載したことはあるが、少女雑誌に単独で(藤本先生との合作ではない)ストーリーマンガを描いたのは、『東京シンデレラ』以外に例がないのではないか。


 藤子不二雄先生が富山県高岡市から東京へ上京したのが昭和29年、それから3〜4年ほどのあいだ、藤子先生は光文社の「少女」を中心に少女マンガをよく描いていて、たとえば『ゆりかちゃん』(「少女」昭和29年12月号〜30年10月号)、『光公子』(「少女」昭和31年6月号〜10月号)といった連載作品があるし、『エミーと魔法のビン』(「少女」昭和30年2月号)、『黄金のすずらん』(「少女」昭和30年12月号)、『泣き出した王さま』(「少女」昭和31年1月号)などの読切作品も見られる。
 ところが、そうした作品のほとんどすべては藤本先生(=藤子・F・不二雄先生)が執筆したもので、少女マンガというジャンルについていえば、安孫子先生はせいぜい藤本先生の作画協力をするくらいであった。そんな事実から、少女雑誌から〝藤子不二雄〟に原稿の依頼があった場合、かわいい女の子を描くのが得意な藤本先生が一手に引き受けていたと推測される。あるいは、編集部のほうから「藤本先生にお願いします」などとご指名があったのかもしれない。


 にもかかわらず、「少女」昭和31年新年大増刊号の『東京シンデレラ』だけは、なぜか安孫子先生が執筆しているのである。このときに限って、編集者が安孫子先生に描いてもらいたいと要請してきたのか、一度は安孫子先生も少女マンガにトライしてみようと思い立ったのか、それとも藤本先生にこの仕事を引き受けられない何らかの理由があったのか、そのあたりは不明である。
「少女」昭和30年夏の増刊号に、安孫子先生の「わたしの夏やすみ写真日記」というイラスト作品が掲載されていることから、「少女」の〝本誌〟には藤本先生が、〝増刊号〟には安孫子先生が描くことになっていた、とも考えられる。


『東京シンデレラ』の内容を簡単にいえば、東京のネオン街で花売りをして暮らす黒い瞳の少女・ルミが、ひょんなことから有名な映画監督夫妻と知り合い、それをきっかけに幸福を手に入れていく物語である。
 両親と生き別れになり、意地悪な親方のもとで働く薄幸の美少女が、それでもけなげに明るく生きて、最終的には幸福な境遇を手に入れる、というこの話は、そこに描かれた幸福のゴール地点が「身分の高い裕福な男性との結婚」という事象ではないものの、まさに「シンデレラストーリー」というにふさわしい構造を孕んでいる。
 こうしたタイプの話は、昭和31年当時あるいはそれ以前の少女向け読み物の中によく見つかりそうだ。『東京シンデレラ』1ページめの欄外に「このお話は、クリスマスが近づいた、東京の夜の銀座できいた、ほんとうのお話です」とあるので、本作のモデルになった何らかのエピソードが存在するのかもしれない。


 少女を描くことに苦手意識を持っていたであったろう安孫子先生は、この『東京シンデレラ』執筆のために、黒い瞳がまばゆい可憐な美少女をデザインし、なおかつ作品全体を少女マンガ的なムードで彩らねばならなかったわけで、いつもとは違う努力や苦心を必要としたに違いない。実際、作品を読んでいても、そうした苦心の跡がどことなく感じられる。


 この物語の中で主人公のルミと知り合う映画監督は、その名を「木上恵介」という。それが実在の映画監督・木下恵介氏(大正元年〜平成10年)からとったものであることは間違いないだろう。
 安孫子先生は、「キネマ旬報」平成1211月下旬号で行なわれた「20世紀を代表する日本の映画監督を5名挙げて下さい」とのアンケートで、5名の映画監督のうちの1人に木下恵介監督の名前を挙げている。また、文春文庫ビジュアル版「大アンケートによる 日本映画ベスト150」(文藝春秋編)で、「好きな日本映画ベスト10」の3位に木下監督の『野菊の如き君なりき』を選んでいる。
 さらにまた、文春文庫ビジュアル版「大アンケートによる わが青春のアイドル女優ベスト150」では、好きな女優の1人に『野菊の如き君なりき』で主役の民子を演じた有田紀子さんを選出していて、そのさい安孫子先生は、『野菊の如き君なりき』を鑑賞した当時の思い出を次のように語っている。


「当時19歳の純情ロマン青年(!?)であったぼくは、『野菊の如き君なりき』を見て泣いた。民子が哀れでならなかったからだ。周囲の目の冷たさと二つ上というハンディで、身を引こうとするが、やはりあきらめきれず慟哭する民子を有田紀子は、まさに地のままで演じた。そのういういしさは民子そのものだった。」


 こうした資料からも読みとれるように、安孫子先生は、お若い時分から木下監督の映画のファンだったのだ。そんなファン心理から、『東京シンデレラ』の中に木下監督の名前をもじったキャラクターを登場させたのだろう。


 そのほか、『東京シンデレラ』を読んで心にとまったのは、チョイ役の中にそのまんま手塚タッチのキャラクターが見受けられたことや、花屋の親方・権三の顔が見事なまでに強欲そうであったことなどである。
 タイトルロゴの上に「読切りマンガ小説」と銘打たれている点も目を引いた。「テレビ小説」という言葉はよく聞くけれど、「マンガ小説」という表現にはあまりお目にかかったことがない。


 余談になるが、先ほど「シンデレラストーリー」と書いて思い出したのが、作家の田辺聖子氏が「日本のシンデレラストーリー」と呼んだ古典作品『落窪物語』である*1
 中央公論社の「マンガ日本の古典」シリーズで藤本先生がこの『落窪物語』をマンガ化する予定だったのだが、先生の体調の問題で、結局まったく別のマンガ家が執筆することになり、多くの藤子ファンが失意をおぼえる、ということが過去にあった。だから、数ある日本の古典の中でも、この作品には特別な感情を抱かされるのだ。
 今年9月に発売された科学雑誌「POPULAR SCIENCE」10月号の特集「今そこにある、藤子・F・不二雄の世界」の中で、藤本先生が『落窪物語』創作のために書きとめたメモが写真で紹介され、ファンの関心を大いに誘った。そのメモを読んでいると、藤本先生の手によって『落窪物語』が執筆されなかったことが本当に惜しまれてくる。

*1:田辺聖子氏以外にも、『落窪物語』をシンデレラの話にたとえる人は多い