藤子不二雄以外で読んだ本①

 今日は、直接的には〝藤子不二雄〟と関係ないけれど、最近読んで心に残った本の感想を書きたい。



『私・今・そして神 開闢の哲学』永井均・著/講談社/2004年10月20日第1刷発行)


 昨年、講談社現代新書が創刊40周年ということで装丁をがらりと変えた。永井均著『私・今・そして神 開闢の哲学』は、講談社現代新書が新装丁になって最初に刊行された10タイトルのうちの1冊だ。
 永井氏は、本書の位置付けとして、氏の別著『マンガは哲学する』講談社)、 『転校生とブラック・ジャック』岩波書店)と三部作をなしている、と述べている。そのうちの『マンガは哲学する』は、日本のマンガ作品から読みとれる哲学性について論じた本で、われらが藤子・F・不二雄先生の「SF短編」や『ドラえもん』もとりあげている。それも、他の漫画家の作品より多めに言及している。私は、『マンガは哲学する』を読む以前から永井本の愛読者だったので、その著者が藤子・F作品に好意的な見解を示してくれたことに、相当な喜びを感じたのだった。
 

 今回読んだ『私・今・そして神 開闢の哲学』も、これまでの永井氏の著作に負けないくらい私の弛緩した脳を刺激してくれる内容だった。副題に〝開闢の哲学〟とあるように、「開闢」をめぐる永井氏の思索が丹念に展開されていて、その思索の道筋をたどる行為が、私の脳内に一種の知的快楽をもたらしてくれるのである。
 本書は、この本を読んだ人にとっての〝哲学の開闢の礎石〟たらんことを標榜しているうえ、私の印象では、子ども時代から哲学的問題にとらわれてきたにもかかわらず自分の哲学はまだ始まっていないのではないかと疑っている永井氏本人にとっても、〝哲学の開闢〟といえる位相に置かれているように感じられる。その意味で本書は、永井哲学への入口にもなるだろう。
 本書と一緒に、同じ講談社現代新書『〈子ども〉のための哲学』を読むと、それがさらに「入口の入口」の役割を果たしてくれそうでもある。


 本書は、私に知的な快楽をもたらしてくれて、永井哲学の入口にもなる、と書いたばかりだが、だからといって、すらすらと気軽に読了できる本ではなかった。一文ごとに立ち止まり、その言葉の意味を自分なりに咀嚼し消化ながら前へ進んでいかねば、永井氏が何を書いているのかまるで理解できないし、理解したつもりにすらなれない。
 本書は既存の哲学のお勉強をするためではなく、永井氏の思考の〝道筋〟〝有り様〟をたどるために読むものだ。本書におけるカント哲学の解釈は、カントの専門家にいわせれば、相当偏っているそうだが、永井氏は自分の哲学を実践するためにカントが過去に成した哲学を活用しているのであって、カント哲学の学問的な解釈を発表しているわけではない。だから、たとえその解釈が偏っていても、そのことが本書の瑕瑾にはならないのだ。
 したがって本書は、永井氏が関心を寄せ考えているような事象に興味のない人にはまったく役に立たないが、そういう世界に興味のある人にとっては、何か本質的なものに出会ったような感興を呼び覚ましてくれるのである。



『やっぱりバカが増えている』小浜逸郎・著/洋泉社/2003年10月20日初版発行)


「評論家」と名乗っている人物が書く文章の中でも、小浜逸郎氏のそれは私の頭に最もすんなりと入ってくる一例である。氏の考えに共感できる部分もあるし、逆に違和感を覚える部分もあるし、まったく同意できない面もあるが、総体的には、氏の文章は私には理解しやすく、納得できることが多い。
 小浜氏は、リベラリストであり近代主義者であり論理的・合理的な思考をする評論家であるが、だからといって、リベラルであること・近代的であること・論理的であることに固執してはおらず、日本の歴史がたくわえてきた伝統や、共同体の成員の多数が暗黙の内に了解している常識、市民の生活に根ざした日常感覚、といったものを適度に尊重していて、理知と実感覚のバランスがよくとれた言説を展開する。私は、その言説からまっとうなリアリティや説得力を感じ、ときには目を見開かされたような感覚を味わうのだ。


 本書は、日本が西欧化・近代化・富裕化するなかで浸透した個人主義自由主義が、過剰にもてはやされ信奉され絶対化していけば、行き着くところは全体主義的な社会であり、個人のレベルではニヒリズムに覆われる、と警笛を鳴らしている。かといって個人主義自由主義を全面的に否定しているわけではなく、そういった主義の長所を認めながら、その主義が教条的になったり杓子定規になったり伝統・常識を無視する形になってしまってはまずいと説いているのである。


〝知の巨人〟といわれる立花隆氏について論じた節で、小浜氏は、立花隆という人物は人間存在を「自然科学的に対象化できる一個の生物として、閉じられた系をもつ個体」というふうに見ていると分析したうえで、そうした自然科学主義的な人間観に傾きすぎた立花に対して、〝人間が実存的、関係的、社会的な存在であることに対する視点がなさすぎる〟〝人間の心情を見くびりすぎている〟と批判している。 そんなところに、小浜氏のバランス感覚があらわれていると感じる。(私自身は、立花隆氏の著作を、小浜氏のもの以上に多く読んできてそれなりに愛着があるので、小浜氏の立花隆批判に一方的に賛同するわけではないが)
 

 あと、本書のなかで、とりわけ私の気を惹きつけたくだりを引用しておこう。
「しっかりした思想的基軸をもたないただの相対主義は、結果として、強大な権力を占有する全体主義に必ず取り込まれる。なぜなら、社会秩序の維持と安定をだれがどのように図るのかという権力論的な問題が最終的に残るからである。」



 藤子ファンの観点で小浜氏の文章に接した場合、これは好印象だと感じたのは、氏の著作『頭はよくならない』洋泉社/2003年3月21日初版発行)を読んでいるなかでだった。この本で小浜氏は、作家の瀬戸内寂聴氏を「通俗道徳家」だと批判しており、その瀬戸内寂聴批判の過程で、藤子ファンである私を少しばかり気持ちよくしてくれることを書いているのだ。そのあたりの文脈を大ざっぱに紹介したい。


 小浜氏によると、少年Aが起こしたいわゆる酒鬼薔薇事件にさいして、瀬戸内寂聴氏がこんな意味のことを発言したという。
「今の教育制度は、知識偏重の頭でっかちなもので、徳育智慧の部分がないがしろにされている。犯人の少年Aは、そういう偏差値教育の犠牲者である」
 それを受けて小浜氏は、その瀬戸内発言を「間違いだらけの通説」と斬り、「学校教育に子どもの心や内面の救済を期待するという発想が、そもそもないものねだりの無理である。学校教育が子どもの精神形成のすべてを左右するなどという考え方は、一部の大人の思い上がり以外の何ものでもない」と論駁。
 そのあと小浜氏は、
「現実の子ども達は、学校生活の中で先生の目を盗み、規制の網の目をくぐり、悪さをし、いくらでも子ども達固有の共同性を作り出している」、「(そういう子ども達の現実は)子どもを素材にしたすぐれた文学作品や映画、マンガなどに触れればすぐ了解できる」と述べるのだが、そこで氏は「すぐれた文学作品や映画、マンガ」の具体例として、「宮沢賢治の『風の又三郎』や『三島由紀夫』の『午後の曳航』、篠田正浩の『少年時代』、藤子・F・不二雄の『ドラえもん』」といった作品名を挙げているのである。
  

 ここで挙げられた「篠田正浩の『少年時代』」とは、映画版の『少年時代』のことを指しているのだろうが、この映画の原作者は、いうまでもなくわれらが藤子不二雄A先生(と柏原兵三)であり、藤子A先生はこの映画の企画・製作(いわゆるプロデューサー)までも担当している。そうして見ると小浜氏は、「子どもを素材にしたすぐれた文学作品や映画、マンガ」の例として、藤子不二雄A作品である『少年時代』と、藤子・F・不二雄作品である『ドラえもん』を合わせて挙げていることになるわけで、そのことが私の気分をよくしてくれたのだ。
 

 ちなみに、小浜氏が『少年時代』『ドラえもん』と並べて挙げた宮沢賢治風の又三郎』と三島由紀夫『午後の曳航』も、私の好きな作品である。とくに三島の『午後の曳航』は、十代の頃読んで大きな衝撃を感じ、そのときの感情が今も蘇ってくるくらいだ。13歳の少年・登が、実の母親とその恋人の船乗り・竜二の情事を、部屋の抽斗(ひきだし)に隠れて覗き見する描写がまず鮮烈だったし、理想の存在だった竜二に失望した登がとっていく行動も私の心を震撼させた。
 三島由紀夫の愛読者でもある藤子ファン仲間のTさんとも、『午後の曳航』の話になったことがあって、そのときTさんは、「三島の『午後の曳航』はちょうど酒鬼薔薇事件のときに(偶然)読んだので強い印象を受けました」と語っていた。



 他の本にも触れたいが、長くなったので、続きは次回に。