「45年後…」

 19日(土)に「ぼく、ドラえもん」25号が届いた。これが「ぼくドラ」最終号となるが、後続誌「もっと、ドラえもん」が4月25日より刊行予定なので、なんだか最終号を迎えたという感慨が薄い。
 この「ぼくドラ」25号の別冊付録に「45年後…」というエピソードが収録され、ファンのあいだで反響を呼んでいる。「45年後…」は、割合さらりとした話ながら、読む者の胸にじわりと感銘を呼び起こす珠玉の名編である。
 私はこのエピソードを、初出誌の「小学六年生」1985年9月号が発売されたとき、リアルタイムで読んだ。といっても、当時の私は現役の小学6年生だったわけでなく、すでに高校生になっていたのだが、藤子マンガが連載されているという理由で「小学一年生」から「六年生」までの6誌を毎月買っていたのである。
 その頃の私は、とにかくのび太に感情移入しながら『ドラえもん』という作品に接していた。1986年くらいから藤子ファンの友人と共同で「月刊のび太くん」というファンレターをこしらえ、毎月せっせと藤子スタジオへ送るようになった。それほどのび太に深い愛情を注いでいた私なので、「45年後…」を読んだとき、それはそれは幸福な感情に包まれたのだった。〝藤子先生、「45年後…」を描いてくださってありがとうございます!〟と東京のほうを向いて頭を下げたくらいである。
 そんな思い出深い一編が、今こうして陽の目を見、多くの人に読まれ、好ましい反応を呼び起こしているのだから、本当に感無量だ。


(このあとの文章は「45年後…」の内容に触れているので、未読の方はご注意を)


 ところで、藤子・F・不二雄先生は、「サンデー毎日」誌上で実現した高円宮殿下との対談で、こんなことを言っている。

「『ドラえもん』も批判されたことがあるんです。(略)
 のび太が困った時に、ドラえもんがポケットからひょいと道具を出して解決してしまうでしょう。それが子どもに依頼心を与えるからけしからん、それなりに努力するところを描かなくてはダメ、というんです。」
毎日新聞社サンデー毎日」1993年5月9日+16日合併号)

 このときに限らず、藤子・F先生は、ドラえもんに向けられたそのような批判をよく気にかけていた。
「NG」というゲーム雑誌のインタビューで、そうした批判を直接ぶつけられたとき、先生は次のように答えている。

インタビュアー「ドラえもんがいつも助けていたら、のび太はいつまでも成長しないと思うのですが…。」
藤子・F「そうですね。いつかは離れて、それぞれが自分の足で歩かなくてはいけない日がくるでしょうね。」
インタビュアー「先生の中にそのお考えがあるとしたら、ドラえもんは終わってしまうのですか?」
藤子・F「いや、いや、そんなことはないですよ。いつかその日はくるとは思いますが、今はのび太ドラえもんも成長過程の段階で、意欲を失わずにいる少年たちをテーマにしていますから。」
ナムコ「NG」1988年12月号)

 また、教育評論家の斎藤次郎氏が『ドラえもんブームの謎を解く』(「望星」1980年)という論文のなかで『ドラえもん』にたいし批判的と取れる指摘をしたさい、藤子・F先生は斎藤氏の言葉を引用しながら反論を展開したことがある。長くなるが、それをここで紹介したい。

 斎藤次郎さんが「ドラえもんの救済は一過性、局所性のものである。のび太のどのようなピンチにもドラえもんは、本質的な解決を回避する」と書いておられます。なるほどなるほど、全くその通り!と僕は深く感心しました。しかしそれに続いて「この軽みと明るさがドラえもんの真骨頂」であり「作者はその場しのぎのバラエティに十年間を費やしてきた。そのことによって、子どもの世界の一切の不幸を、個々にあみだしたSF的解決策に対応する程度に軽視しようと志したのではなかったろうか」とあるのは、いささか買い被りです。(引用が不正確だったらお詫びします) ドラえもんの解決策がその場しのぎなのは事実ですが、それは決して作者が志したためではなく、連載の形式がそうさせたのです。もしドラえもんの道具がのび太の悩みを全て解決し、めでたしめでたしとなったら話はおしまいではありませんか。それにこのマンガは学習誌連載なのです。マンガの頁数が8〜10枚程度です。これでとにかく話を完結しようというのですから、社会的大事件など取り上げようもありません。解決の局所性はその故なのです。
 さて、その結果としてのび太は、文字通り十年一日。進歩も向上もない暮らしを続けてきたわけであります。彼も時どきは反省します。真・善・美というほどはっきりした目標ではないにしても、彼なりのバク然とした理想像はもっていて、実際の自分との大きな落差に悩んだりはするのです。でも三日とは続きません。同じ失敗を繰り返し、反省しては失敗する毎日です。そしてこれは作者の毎日でもあるのです。
                (中略)
 でも、秘かに思うのです。のび太や僕だけではなかろうと。自分の人間的弱点を持て余し、一方これではいけないと反省し、なんとかしなくちゃと考え続けながらなんともならない。それでもなお、人間の有るべき姿とか生き方について、おぼろげながら一つの理想像を持ち続けている。間違ってもヒーローにはなれないが、かと言って最低の位置に安住することもできない。そんな中途半端人間が程度の差こそあれ、意識するとしないの違いはあっても、大人にも子どもにも多いのではなかろうかと。そんな人達が「ドラえもん」ののび太に共感を寄せてくれているのではないかと、僕は秘かに思うのです。
(『ドラえもんと私 小学館版「藤子不二雄自選集」を刊行して』1981年ごろ 発表媒体不明)

 藤子・F先生はこのように、世間の『ドラえもん』批判にたいして、自らの言葉で何度も反論を試みていた。
 そして、このたび「ぼくドラ」25号で再録された「45年後…」は、そうした『ドラえもん』批判をめぐる状況のなかで藤子・F先生が提示した、真摯なアンサーだったとも考えられるのだ。F先生は、『ドラえもん』批判へのアンサーを『ドラえもん』それ自体で行なった、というわけである。


 のび太は、実社会のなかで何度も失敗しながら、それでも自分の力で立ち上がって奮闘し、息子のノビスケをハネムーンに送り出せるまでにしっかりと育て上げた。つまりのび太は、転んでも自分の力で立ち上がれる〝自立した大人〟〝一人前の大人〟へと成長を遂げたのである。


「45年後…」のラストで、45年後から現在にやってきた大人ののび太は、現在ののび太にこんな言葉を贈る。
「きみはこれからも何度もつまづく。でもそのたびに立ち直る強さももってるんだよ。」
 この言葉は、「あの日あのときあのダルマ」のなかで、のび太のおばあちゃんがのび太に向けて「ころんでもころんでも、ひとりでおっきできる強い子になってくれると………、おばあちゃん、とっても安心なんだけどな。」と願ったとおりにのび太が成長したことを端的に証明している。*1
 そして、45年後ののび太や、のび太のおばあちゃんが発したそれらの言葉は、藤子・F先生が実の娘さんたちに願った内容とも通底している。藤子・F先生は、3人の娘さんと雑誌のグラビアに登場したさい、こんな発言を残している。

「いくら心配したって、みてやれる範囲って子供の人生全体からみるとごくわずかでしょ。理想的であってほしくても、なかなかそうはいかないのが人生でね。やっぱり山あり谷あり。ただ、谷に落ち込んだとき、また改めてチャレンジしようとする復元力だけは失わないでほしいね。」
潮出版社「潮」1990年10月号)

 藤子・F先生は、実の娘さんにたいしても、のび太にたいしても、同じ願いを抱いていて、その願いの通りに成長したのび太を「45年後…」で表現したのである。


「45年後…」は、ドラえもんが未来の世界からのび太の運命を変えるためにやってきたことの結果が描かれた作品だともいえる。
 ドラえもんは、弱点だらけののび太が元から持っていたちっぽけな強さを、社会のなかで自立し生活していける程度に引き出し育んだのである。これは、ドラえもんが未来の秘密道具をのび太に貸し与え物理的に援助したことによる成果というより、ドラえもんという友達がいつもそばにいてくれた日常がのび太の精神的な成長をゆるやかに促した所産だった、と私には感じられてならない。たとえ秘密道具がもたらした影響があったとしても、それは良きにしろ悪しきにしろ、副次的なものであったと思うのだ。

*1:「45年後…」と「あの日あの時あのダルマ」のつながりについては、MISTTIMES.com Blog さんで言及されている