藤川治水「子ども漫画論」

「子ども漫画論 『のらくろ』から『忍者武芸帖』まで」(藤川治水著/1967年2月23日第1版発行・三一書房)という本が、私の住む愛知県春日井市内の某古書店で、300円で売っていた。定価290円の本が300円だから、ある意味プレミア本(笑)であるが、300円ならば悩まず手を出せる金額なので購入した。


 本書は、〝漫画は、芸術の枠内にかろうじて入れるにしても最後尾にぶらさがった代物とみなされ、とくに少年向けの作品は冷酷な扱いを受けてきた〟と考える著者が真剣に取り組んだ漫画論である。私は、本書が書かれた時代の漫画評論全般の水準を知らないが、真摯な姿勢で本格的に漫画を論じようとしている一冊だと感じた。少なくとも、単なる作品紹介とか解説の類でないことは確かだ。
 ただし、当時の思想潮流や政治状況、著者の藤川治水氏の〝熊本県教職組合執行委員〟という属性などがあって、全体的に、漫画を思想や教育と結びつけて語ろうとする傾向が目立ち、その辺に本書の漫画論としての限界を感じた。


 藤川氏は、手塚治虫白土三平がとくにお気に入りのようで、この2人の漫画家の作品を論じることに多くのページを割いている。手塚治虫白土三平も、この本が出た当時であれば評論の対象にされて当たり前の漫画家であるし、その以後の時代にあっても、この両者の評論は多くの人が手がけている。それほど両者は、評論の欲求を駆り立てる漫画家であるのだ。
 藤川氏は、2人のうちでも、白土三平のほうにより強烈なインパクトを感じているようである。


 本書が手塚治虫白土三平をどう論じているかここで紹介する余裕はないが、その中で最も心に残ったのがどこか挙げれば、藤川氏が『鉄腕アトム』の「地上最大のロボット」を批判的に書いたくだりである。「地上最大のロボット」といえば、『鉄腕アトム』の中でもとくに人気の高い作品として知られ、今現在、これを原作にした『PLUTO』を浦沢直樹氏が執筆し、極めて高い評価を得ている。
 そんな「地上最大のロボット」のことを藤川氏は「その長さにくらべて、いかにもお粗末にできあがっている」と難じており、その理由として〝「地上最大のロボット」には、アトムの機械による直情性を戒めるヒゲオヤジや田鷲警部のような人物がまったく出てこず、そうした人々がアトムのロボット的言動と絡み合うことで作られていた『鉄腕アトム』の、物語としてのふくらみ、大人にも考え込ませるような問題提起が消滅している〟と述べている。さらに〝アトムの批判者が姿を消した「地上最大のロボット」は、ふたつの観念がぶつかりあう、見応えのあるドラマではなくなり、ロボット対ロボット、力対力という平凡な活劇漫画に堕落した〟〝力くらべというものには、ショー的魅力しかなく、それはそれで低年齢層におもしろいスペクタクルな筋と映るだろうが、それは無味乾燥した内容になる〟などと続けている。


 藤川氏がなぜここまで「地上最大のロボット」を厳しく批判するのかといえば、優れた漫画作家であった手塚治虫が作品の質より人気取りばかりを計算する商売人のようになってしまいつつある状況を憂い、その具体的な兆候として「地上最大のロボット」のような作品が描かれてしまった、と考えているからである。藤川氏がそう考えてしまうのは、やはり氏の思想が背景にあるわけで、そのことは、
手塚治虫よ、あなたも、そう、かつては『アカハタ』日曜版にさえ執筆したあなたが、いつ資本家陣営に移ったのか」
 という藤川氏の慨嘆からも、はっきりと認められる。
 今現在の私から見れば、藤川氏が「地上最大のロボット」を批判する動機や内容について、的外れだ、という感覚をおぼえざるをえないが、当時は藤川氏のように考えるインテリが多かったのだろうか。


 さて、ここからは私のホームグラウンドである「藤子不二雄」の話題である。
 手塚治虫白土三平の2人と比べ、藤子不二雄は本格的な評論の対象となる機会が、その知名度や作品量、キャリアのわりには少ない漫画家だといえる。そんな藤子不二雄の作品も、この「子ども漫画論 『のらくろ』から『忍者武芸帖』まで」は取り上げている。藤川氏が本書を執筆した当時に大ヒットしていた『オバケのQ太郎』である。


 藤川氏は『オバケのQ太郎』についてこのように書いている。

オバQ対人間といった対立のなかで、人間の杓子定規ぶりを逆説的に笑いのめしているのである。さらに、おばけ=恐怖的存在だという既成概念を蹴飛ばして、人間こそおばけだと強調する。おばけのもつ怪奇とか恐怖とかいった付属概念をひっくり返し、人間の抱く万物の霊長よといった思い上がりの付属概念をもひっくり返す、という二重のドンデン返しのなかで、オバQのもたらすギャグは、より生彩を放ってくる。」
「おとなの固苦しい常識や道徳意識を叩きのめすばかりでなく、子どもだって同じ穴のムジナの卵ではないか、と悪態をついている。」
「『オバQ憲法改正の巻』なぞ作らせなくても、現実の社会的切片をいなの調子で笑殺していけば、横山泰三『社会戯評』など足元にもよれぬものとなろう。」
「ということは、『オバケのQ太郎』に、正真正銘の漫画精神が脈うっているということでもあるのだ。」

 そういった調子で、藤川氏は『オバケのQ太郎』を風刺漫画として高く評価しているのである。
 藤川氏の『オバケのQ太郎』論は不適正なものではない、と私は感じる。たとえば、上記の藤川氏の文に「おばけ=恐怖的存在だという既成概念を蹴飛ばして…」という箇所があるが、これは、藤子先生(とくに藤子・F・不二雄先生)が、『すすめロボケット』あたりで意識しはじめ『オバQ』の成功によって確立した「非日常の日常化」という手法について藤川氏なりに読み解いた言葉であると思うのだ。この「非日常の日常化」という手法について、藤子・F・不二雄先生は、「まんだらけ」目録のインタビュー(1995年)で次のように話している。

藤子・F「『オバケのQ太郎』でね、オバケの日常化をはかったわけですよ。(略) それで「スーパーマン」という存在を日常化したらどうなるか、それで『パーマン』になった。安孫子君のほうなんだけども、怪物を日常化して『怪物くん』を作って、忍者が『忍者ハットリくん』になって。それから宇宙人を日常化して『ウメ星デンカ』が出来て。未来のロボットとはいうけど実態はポケットからでてくるいろんな道具ですよね。言ってみれば昔でいう魔法漫画にあたるんですよね。魔法でパッ、パッといろいろ不思議なことをやるというところね。それの日常化が『ドラえもん』。その路線のひとつとしてヌードを日常化したらどうなるかなんてね(笑)」
インタビュアー「それが『エスパー魔美』?」
藤子・F「そうそう(笑)」

 藤子先生は『オバケのQ太郎』において、それまで忌避すべき恐ろしい存在だったオバケを、気のおけない親しい友人のイメージへ転化することに成功し、その成功が、のちの藤子漫画の路線を決定していったのである。


 また、藤川氏は「オバQ対人間といった対立のなかで、人間の杓子定規ぶりを逆説的に笑いのめしているのである」と書いているが、オバQと人間が対立しているかどうかは別にして、『オバケのQ太郎』という作品が、人間界の常識をまともに了解していないオバQと、常識を疑わず常識に沿って生活する人間とを対比し、そこから生ずる行動・感覚のズレのおかしさを描いたギャグ漫画だということは間違いない。ただしそれを藤川氏のように〝社会の既成概念をひっくり返して現実の社会的切片を笑殺する風刺漫画〟という論点でばかり評価してしまうと、『オバケのQ太郎』の本質を見誤ってしまうことにもなりかねない。
オバケのQ太郎』は、社会や現実の問題を風刺するのが目的の作品ではなく、ひたすら読者を楽しませるための娯楽であることを目指した漫画であり、それが場合によっては優れた風刺漫画としても読める、というのが自然な見方ではないだろうか。藤川氏の評価の仕方だと、『オバケのQ太郎』から風刺精神が読み取れなくなれば、氏が「地上最大のロボット」を批判したような論法で『オバケのQ太郎』のことを「平凡なお笑い漫画に堕落した」と難詰する羽目に陥ってしまう。そんな批判は、どうしたって筋違いでナンセンスである。