「どくさいスイッチ」

 昨日は『わさドラ』3回めの放送。てんとう虫コミックス15巻、コロコロ文庫エスプリ編などに収録された「どくさいスイッチ」のアニメ化だった。通常のアニメ『ドラえもん』は、AパートとBパートで別の作品を放送しているのだが、今回はAパートもBパートもひっくるめて「どくさいスイッチ」1本のみであった。(途中でミニシアターが挟み込まれたけれど)
 そのぶん原作のままでは尺が足りないので、アニメオリジナルのシーンや小道具がずいぶん追加されていた。後半の、のび太が遊園地で遊ぶところや、お風呂につかって涙するシーンは、完全にアニメオリジナル。しずかちゃんがのび太に手渡したバスソルトも、原作に出てこないアイテムだ。バスソルトだなんて、かなり今風だし、お風呂好きのしずかちゃんらしい小道具である。それが話のなかで上手に生かされていて、こういう小道具もうまく使えばとても効果的だと感じた。
 のび太が乗った遊園地のアトラクションに、『ジャングル黒べえ』や『のび太の宇宙開拓史』に登場する2本足のゾウ型動物〝パオパオ〟の姿をしたものがあって、藤子ファンとしてはやはりそこに熱い視線を注いでしまうのであった。


 ミニシアターは、「落ちないつな」(「小学一年生」1972年10月号/ぴっかぴかコミックス1巻)のアニメ化。前回は素描風の簡素で柔らかなタッチの絵だったが、今回はがらりと変わって、キャラクターの輪郭などを示す黒い主線を省き、明瞭に着色した面と面の差でキャラの姿かたちを表現する絵になっていた。どこか貼り絵っぽさも感じさせる鮮やかな絵柄だった。今後もこのコーナーは、アニメーターさんの個性がおおらかに発揮される場になるのだろうか。本編とは違った意味で楽しみが増えた。


 さて、この「どくさいスイッチ」という話、原作を何度も読み返しているため、話がどう展開しどう終わるのかすでに分かった状態でアニメを観たわけだが、それでも充分に楽しめたし、この話がいかに傑作であるかアニメを観ることで改めて実感できた。
 ここでは、これまで繰り返し読んできた原作マンガへの思い入れと、今回アニメを観た体験を交えながら、「どくさいスイッチ」について極めて私的な感想を述べていきたい。


 のび太は、野球でヘマをしてジャイアンに制裁を加えられ、ジャイアンさえいなければこんな目にあわないのに、と思う。そんなのび太の気持ちに、「人ごとではない」と共感する人も多いのではないだろうか。あの意地悪なクラスメイトさえいなければ、あの憎たらしい上司さえいなければ、あの口うるさい両親さえいなければ、自分は毎日を平和に楽しく暮らせるのに…と、口には出さずとも心のうちでひそかに思っている…そんな人は、ジャイアンさえいなければとぼやくのび太に、深く共感し感情移入できるはずである。そうやってのび太に共感した一人が、ほかならぬ私なのだった。
 私はいま現在、特定の誰かに消えてほしいなどと願っていないが、思春期の頃などは、あいつさえいなくなれば、あいつを消してしまいたい、と感じたことが幾度もあったし、精神状態が不安定になると、どいつもこいつもいなくなってしまえ、誰とも会わずひとりっきりで暮らしたい、などと、ひどく人間を嫌悪し厭世的になり孤独を愛そうとしたこともあった。
 その意味で私は、この話の中ののび太を、まさに〝自分ごと〟として見ざるをえない時期をすごしたし、今となっても、そういう陰性の心理から完全に脱却したとは言い切れない。


 ドラえもんから渡された〝どくさいスイッチ〟は、スイッチひとつでお手軽に嫌いな相手を消してしまえる秘密道具だ。でも、いざ本当に人間一人を消してしまうとなれば、いくらその人が大嫌いでも、やはりそんなことはおいそれと実行できるものではない。我々が、あいつを消してしまいたい、と良心を痛めることなく身勝手に思えるのは、現実にはその相手を消してしまうことなどできないという、諦めにも似た前提があってのことだろう。消してしまいたいと思った相手を簡単に自由に消してしまえるとなれば、消してしまいたいと心の中で思うことすらためらわれるのではないか。
 どくさいスイッチを手に入れたのび太も、他人を消すことが現実の問題となれば、いくら憎たらしいジャイアンでも消してしまうのはかわいそうだ、と情けをおぼえるのだった。それが、庶民として日常を生きる人々の自然な感性であり、そうした自然な感性を、この作品は本当に的確に描いている。


 しかし結局、ジャイアンから襲撃を受け冷静さを失ったのび太は、とっさにどくさいスイッチを押して、ジャイアンを消してしまう。すぐに後悔し、ジャイアンが本当に消えてしまったのか友人知人に確認してまわると、皆ジャイアンのことを知らないと言う。どくさいスイッチで消された人間は「消えるというよりも、はじめからいなかったことになる」のであった。
 この場面を初めて読んだ小学生の頃は、「怖いな〜」と感じただけで素通りしたような気がするが、これが10代も半ばになってから読み返すと、背筋に冷ややかな戦慄が走り、そこでいったん立ち止まらざるをえない心境に陥ったのである。現実に確かに存在していた人間が、最初から存在していなかったことになる…そんな、一個の人間存在を根本から根絶やしにしてしまう発想に触れた私は、「今ここに私がいる」という絶対的な確信を揺さぶられ、世界が裏返るような霧散するような感覚の中、「自分がはじめからいない世界」や「誰も自分の存在を知らない世界」などをむやみに想像して、何か得体の知れない恐怖心にみまわれた。そのような、自己の存在の根幹にかかわるメタフィジカルな恐怖を呼び起こす場面を、白っぽい絵と定型的なコマわりと簡潔なセリフで表現しきってしまう藤子不二雄という漫画家に畏怖の念すら抱いたのだった。


 その後のび太は、ジャイアンがはじめからいない世界で今度はスネ夫にいじめられ、たまらずスネ夫も消してしまう。スネ夫がいなくなってもほかの友人たちに責められ、家に帰ればママに叱られ、ようやく部屋で一人になると、しずちゃんドラえもんにまで馬鹿されているような被害妄想(敏感関係妄想)の気分にとらわれていく。
 この場面は、スターリンヒトラーなど歴史上の独裁者の心理として語られる、いわゆる「独裁者の猜疑心」のメタファーにもなっていると思うのだが、それはそうとして、被害妄想のはてにのび太は、全人類をこの世から消し去ってしまうのである。そうして訪れる完全なる孤独状態。ここから、他者との関係がすべて消失した世界で、文字通りひとりぼっちになったのび太の心理がつぶさに描かれていく。
 のび太は「この地球がまるごとぼくのものになった」「ぼくはどくさい者だ」と、不安な自分を鼓舞する意味も含めながら現状を肯定的に受容するが、次第ににじり寄る空虚感や孤独感にさいなまれ、しまいには孤独に耐えきれなくなる。昨日のアニメでは、前述のように遊園地やお風呂のシーンをここに追加していて、のび太の孤独感や悲痛な心情をより丹念に表現していた。こういう場面の追加は、下手をすると単なる無駄や余分に堕してしまう危険性もあるが、今回はもとの話に新しい場面をうまく織り込んでいた。とくに、お風呂につかったのび太が涙するあたりは、私ものび太につられて目頭が熱くなるほどだった。原作の「どくさいスイッチ」を読んで涙することはなかったので、ここで涙したかしなかったかという体験の差が、そのままアニメと原作を鑑賞し終えたさいの後味の差にもなっていった。


どくさいスイッチ」は、傑作なブラック・ユーモアとして、出来の良いエンターテインメントとして、純粋に楽しむことができるし、〝人は一人では生きられない〟〝他人にかまってもらえるありがたさ〟〝嫌いな人ともつきあっていかなければならない〟といった人生のあやを学ぶ訓話として読むこともできる。そしてまた、のび太を通して独裁者の心理や行為を描きながら全体主義社会に警笛を鳴らした風刺マンガ、と解釈することもできるだろう。 
 そうしたなかで私は、自分の内面や存在といった事柄と結びつけ、文学書や哲学書を読むような切実さでこの作品を鑑賞した。正しくは、そう鑑賞した時期もかつてあったというべきか。
 昨日のアニメについては、純粋にエンターテインメントとして享受しようとしたし、実際にそのように楽しんだ。


●追記
 下でコメントをくださったrainyblueさんは、ご自分のブログ「青い空はポケットの中に」で、今回の「どくさいスイッチ」について、非常に詳しく感想を述べておられます。PTAや圧力団体などに配慮した表現の改変の問題にも踏み込んでいます。トラックバックができないので、ここで紹介させて頂きました。
 http://rainyblue.blog6.fc2.com/blog-entry-27.html

●再放送情報
 5月5日(木・祝)午前8時35分からNHK総合で、ドラマ『キテレツ』が再放送されます。CGのコロ助がかわいいですよ。