「ドラえもんだらけ」「ココロコロン」放送

わさドラ』第9回放送。


●「ドラえもんだらけ」

初出:「小学三年生」昭和46年2月号
単行本:「てんとう虫コミックス」5巻など

 原作の「ドラえもんだらけ」は、タイム・パラドックスの不思議とドタバタギャグの笑いを巧みに結びつけた傑作だ。ドラえもんの血走った目、狂気じみた表情も強い印象を残す。


 ドラ焼きというドラえもんの弱みにつけこんだのび太の狡知に長けた罠にかかり、ドラえもんのび太の宿題を代行させられる羽目になった。そこでドラえもんは考えた。未来の自分をここに連れてきて手伝わせれば、1人でやるよりずっと早く宿題を終えられるだろう、と。
 しかし、その一見すばらしい考えによって、ドラえもんは大変な修羅場に引きずりこまれる。ほかならぬドラえもんが自ら招いた修羅場なので、自業自得といえばそのとおりなのだが、その自業自得の結果に至る因果応報のプロセスを、タイム・パラドックスを駆使して描いているところに本作の醍醐味がある。しかも、その顛末を抜群のドタバタギャグにしてしまっているのが凄い。
 そんな最高の原作を、今日の『わさドラ』がどう料理するのか楽しみだった。


 実際に今日のアニメを観てみると、ほぼ原作に忠実な展開だったが、表現が全体的にマイルドになり、演出のテンションが思ったより低い、という印象を受けた。おもしろい話だと思うが、どこか物足りないのだ。あの爆発的な暴走感が伝わってこない、というか…。観る前の期待が必要以上に高すぎたのだろうか。
 原作では、ドラえもんが宿題にとりくんでいる間、のび太ドラえもんの邪魔にならぬよう、隣の部屋で眠るのだが、『わさドラ』の設定だと2階にはのび太の部屋しかなく、隣の部屋で眠ろうにも眠れない。だからのび太は、廊下に布団を敷いて眠るのだった。この、のび太が眠る場所の違いが、本作のおもしろさに影響を及ぼしたということはないだろう。のび太の眠る場所が変わったという、ただそれだけのことだ。
 8時間後のドラえもんが両口スパナをふりかざし「やろう、ぶっころしてやる」と現在のドラえもんに襲いかかるという、この話の暴走ぶりを象徴する場面で、そうした両口スパナや過激な台詞が描かれなかったのは、今回感じた物足りなさと関係がありそうだ。その他の場面でも、原作ではもう少し乱暴に表現されている言葉や動作が抑制されていた。
 しかし、そういったひとつひとつの言葉や動作の問題だけでなく、作品全体にわたってハイテンションなドタバタ感が不足していたような気がするのだ。これは演出の問題だろうか。
 言葉と動作以外のギャグ要素であるドラえもんの表情は、原作のおもしろさを損なわぬかたちで描いていた。とくに8時間後のドラえもんの凄絶きわまる表情は愉快だった。


 今の時代はかつてより自主規制すべき表現が増えているようで、そのことを鑑みれば、今日のアニメは、そんな厳しい制約のもとで「ドラえもんだらけ」のよさを精一杯出そうとしていたように思う。事前の過大な期待がなければ、私ももう少し大らかに楽しめたはずだ。




 さて、前述したように、「ドラえもんだらけ」は、タイム・パラドックスとドタバタギャグを見事に結びつけた傑作だ。タイム・パラドックスとは、時間を行き来することで生じるパラドックスのことである。
 では、タイム・パラドックスの「パラドックス」とは何か。
 パラドックスとは、日本語で「逆説」などと訳され、「一見正しいようであるが、きっちり突き詰めて考えれば誤りだと分かる言説・事象」、あるいは逆に、「一見誤っているようだが、厳密に分析すれば高いレベルの真実を示す言説・事象」のことをいう。我々が日常で遭遇する「矛盾した意見」とか「もっともらしい嘘」もパラドックスの一部といえるし、論理学や哲学、数学、物理学の領域で扱われる、もっと高度で難解な「真のパラドックス」もある。
ドラえもん』では、「ドラえもんだらけ」に限らず、タイム・パラドックスのアイデアがよく使われているし、タイム・パラドックスとはいえないまでも、タイムトラベルを題材にした作品や、ストーリー上でパラドックスが発生する作品も数多く見られる。


 藤子・F・不二雄先生は、タイムトラベルやパラドックスの問題を、子どもにもわかりやすいよう単純化して『ドラえもん』の作中に取り入れている。どんなに難解で高度な問題も、おもしろい話の材料として奉仕させているのだ。
 しかし、そうやって単純化した描き方からも、藤子・F先生の深い知性がにじんでいるため、いわゆる〝学のある人〟が、タイム・トラベルやパラドックスといったテーマを『ドラえもん』から拾い上げ、本来はマンガと関係ない書物でまじめに論じることもしばしばある。
 パラドックスというテーマでは、数学者の林晋氏が『パラドックス!』(林晋・編著/日本評論社/2000年)の中で、「ドラえもんパラドックス」というコラムを書いている。林氏はそこで、どこでもドアなどのひみつ道具が引き起こすパラドックスに言及しており、そのうちのこんな一節は、藤子・Fファンの共感を誘うだろう。

SFのパラドックスのほとんどは、こんな風に言われてみればナーンダというようなことなのだが、中には含蓄が深くて、もしかしたら作者は天才的な科学者か哲学者ではないのかとウーンと腕組みをして感心してしまうようなものもある。私は『ドラえもん』のマンガを読むとよくそういう腕組みをする。子供マンガのレッテルを貼られることが多い藤子・F・不二雄作品だが、『パラレル同窓会』のようにシュールなものが結構あるというのはマンガ通の間では一致した意見のようだ。そして、一見、お子様向けのドラえもんにさえ、そういうシュールさが随所に組み込まれているのである。

 
 タイム・トラベルというテーマでは、哲学者の中島義道氏が自著『哲学の教科書』(講談社/1995年)の中で、『ドラえもん』に見られるタイム・トラベルを例に取り、過去へのタイム・トラベルの不可能性を論じている。
 それからこれは、マンガと関係のない本ではなく、はっきりとマンガをテーマにしたものであるが、哲学者の永井均氏が『マンガは哲学する』(講談社/2000年)の第4章「時間の謎」において、「『ドラえもん』もまた発想の宝庫であり、精密に論じるべき多くの哲学的問題を含んだ大傑作である」と述べ、『ドラえもん』の作品世界の構造を哲学的に考察している。


 ここで、原作の「ドラえもんだらけ」の内容を、今日のアニメのおさらいも兼ねて見ていきたい。
 本作では、現在のドラえもんが、人手を増やして宿題を片づけるため、2時間後、4時間後、6時間後、8時間後のドラえもんをタイムマシンで現在へ連れてくる。そこでは、都合5体のドラえもんが一同に会し互いに他者であるかのように会話をしているが、その5体のドラえもんはすべて自分同士である。本当は1体しか存在しないドラえもんが、それぞれ2時間ずつズレた未来のドラえもん4体と同じ時間・同じ場所に居合わせる、というタイム・パラドックスが生じているのだ。
 現在のドラえもん1体と未来のドラえもん4体は、ときには揉めながらも力を合わせ、何とか宿題をやり終える。責任をはたした未来のドラえもん4体は、それぞれの未来へ戻る間際、「ほんのおかえし」とばかりに現在のドラえもんを殴りつける。現在のドラえもんは、未来のドラえもんに殴られながらも、宿題を終えた安堵にひたり眠りに就くのだった。
 ところが、話はここで終わらない。現在のドラえもんにとっての惨劇は、むしろここから始まるといってよい。眠りに就いた現在のドラえもんが、今度は、先程まで一緒に宿題をしていた2時間後、4時間後、6時間後、8時間後のドラえもんの役割を担わされることになるのだ。そのため、現在のドラえもんから見て2時間前、4時間前、6時間前、8時間前のドラえもんによって、現在のドラえもんは都合4回、それぞれの過去へ無理やり連れていかれることになる。そうすることで、もともと現在のドラえもんが行なった行動の辻褄が合わされるわけである。


 このようにパズルを解くような論理的思考を要するタイム・パラドックスと、論理的思考からとことん頭を解放してくれるドタバタギャグとは、互いに背反しあうパラドックスの関係にあるといってよいはずだ。そんな2つの要素を親和的に結びつけ、おもしろおかしいSFギャグに昇華したこの作品は、数ある『ドラえもん』の話の中でも奇跡の1作というべき大傑作だと思う。




●ミニシアター

初出:「よいこ」昭和45年12月号
単行本未収録

 原作は2ページ(6コマ)の作品。
 今日のアニメは、先週、先々週のヘタウマ系と違い、パステルカラーが鮮やかな、丁寧な画風の作品だった。




●「ココロコロン

初出:「小学一年生」昭和54年11月号
単行本:「てんとう虫コミックス」20巻など

 原作は「小学一年生」で発表された7ページの作品で、そのままアニメ化すると尺が足りなくなりそうだから、アニメオリジナルのシーンが相当追加されるだろうと予想していた。案の定、スネ夫がいらなくなってジャイアンにあげた玩具のエピソードが、ストーリーの途中とオチに追加された。ちょっと余計なエピソードのような気がしたけれど仕方がないか。


 本作の最大のポイントは、人形の中にこもっている思い出を、オモイデコロンを使って、人形の元の持ち主である少女へ送り届ける場面だろう。ここで少女は、人形と遊んだ日々の思い出にひたり、一度はいらなくなって捨てた人形を再び自分のもとに置きたいと思うようになる。このとき少女が味わった、懐かしいようないとおしいような気持ちを、これを観ている視聴者にも感じさせるほど説得力ある場面に仕上がれば成功だと思うが、今日はその点でどうだったろうか。
 藤子・F先生はこうした感動的な見せ場のシーンでもあっさりと淡泊に描くことが多く、それは藤子・F先生がよく弁明していたようにページ数の都合もあったのだろうが、藤子・Fマンガ独特の味にもなっている。その味は、藤子・F先生が直接描いたマンガだからこそ感動的・魅力的に感じられるのであって、アニメでそのまま表現するには無理がある。
 今日のアニメでは、原作にあるような、少女と人形の過去の思い出を丹念に描いたあと、その思い出が、現在の人形の記憶へ連なり、少女が人形のもとに導かれるという、うまい展開の仕方をしていた。ほどよく感動させてくれる、素敵なシーンだったと思う。


 
 ココロコロンは、それをふりかけた人形の心がわかる、というひみつ道具だ。つまり、ココロコロンをふりかけられた人形は、自分の心を伝達する能力を得るわけである。その心の伝達手段が、言語ではなく顔の表情であるところに私は注目したい。
 ラストで使われるオモイデコロンは、人形の中にこもっている思い出を相手に伝える道具だが、こちらも、その思い出を伝達する手段は言語ではない。相手に映像*1を送り届けるのである。
 人形が、最後まで言葉に依らず、表情や映像といった非言語的な手段で自分の心を伝えるところが、この話の繊細な機微となり絶妙な効果になっていると感じるのだ。

*1:映像内で少女や少女のパパは言葉を話しているが、人形は相変わらず言葉を発しない。