「一生に一度は百点を…」「のろいのカメラ」「天井うらの宇宙戦争」放送


 7月1日、『わさドラ』第12回放送。
 1時間特番「DONDONサマースペシャル!!」で、3本立ての構成だった。



●「一生に一度は百点を…」

原作データ
初出:「小学六年生」1973年12月号
単行本:「てんとう虫コミックス」1巻などに収録

 話の冒頭。テストで百点をとって周囲から尊敬と羨望の眼差しを浴びるのび太。「悔しいなあ、どうしても百点以上取れない」と余裕で悔しがるのび太。それはすべてのび太自身が見ている夢の中の出来事だった。その夢を見ている最中ののび太のにやけ顔は、原作以上にニタ〜としていておかしかった。


 夢から覚めれば厳しい現実が待っている。一向に宿題がはかどらず、このままでは、しずかちゃんのところで合奏の練習をするという約束を果たせない。原作では、合奏の練習ではなく、学園祭の打ち合わせになっているが、学園祭より合奏のほうが、現実の小学生にはリアリティがありそうだ。


 のび太は、コンピューターペンシルを手に入れ、友達の宿題やしずかちゃんのパパの仕事を、いとも簡単に片づけていく。ジャイアンスネ夫らは「どうしたんだ?」「変だぞ」と不思議がる。そこで、「これもすべて日頃の努力が実を結んだんです」などと偉そうに演説をぶちはじめるのび太。その、のび太の調子の乗り方と、隣にいるドラえもんのあきれた表情が愉快だった。


 原作に、コンピューターペンシルを使って百点をとろうと企むのび太を、ドラえもんが軽蔑しきった目つきで見つめるシーンがあるが、今日のアニメでは、ドラえもんの表情に甘さがあって、軽蔑という感情まで到達していないように感じた。原作の目つきほうがしらじらとした軽蔑感が伝わってきて印象に残る。


 のび太はいざテストの本番になると、ドラえもんの軽蔑の目つきや、しずかちゃんの尊敬の表情、ジャイアンスネ夫の嘲笑の声などを頭に思い浮かべながら、コンピューターペンシルを使うかどうか葛藤し、結局、使わないことを決断する。この葛藤のシーンは、この話の中で私が一番好きなところだ。
 使わない決断をした決定的瞬間は見せず、帰宅したのび太ドラえもんにコンピューターペンシルを返すところで、ようやくその決断の結果がわかる、という展開も見応えがあった。


 ラスト。百点をとったジャイアンに対し「できの悪いのは仕方ないとして、不正だけはするなと教えてきたはずだ」と説教し、ジャイアンをボコボコにするのは、原作ではジャイアンの父ちゃんの役回りだったが、今日のアニメでは母ちゃんがそれを行なった。そして、いま引用した説教の台詞は省略されてしまった。
 ジャイアンの父ちゃんの初登場を少し期待していたので、肩透かしをくらったような気分だ。


 この作品は、全体的に無難にまとまっていて、普通に楽しめた。





●「のろいのカメラ」

原作データ
初出:「小学三年生」1970年10月号
単行本:「てんとう虫コミックス」4巻などに収録

 原作は、ブラックなネタが炸裂するドタバタ・ギャグ。驚いたドラえもんや衝撃を受けたのび太の姿が黒ベタで塗られたり、ドラえもんの表情がひどいことになったり、背景の効果が凝っていたりと、他の『ドラえもん』作品と比べ、独特の表現があふれ、「のろい」という題材も加わって、私の心にトラウマのように刻みついた一編である。


 本作でドラえもんが出すひみつ道具は「のろいのカメラ」。よく指摘されるように、藤子・F・不二雄先生は、自作の中で何度もカメラを題材に用いたことがあって、『ドラえもん』だけでも、ミニチュア製造カメラ、フリーサイズぬいぐるみカメラ、インスタントミニチュア製造カメラ、XYZ線カメラ、おくれカメラ、カチカチカメラ、着せかえカメラ、こっそりカメラ、サウンドカメラ、さかさカメラ、六面カメラ、タイムカメラ、チッポケット2次元カメラ、チャンスカメラ、イージー特撮カメラ、ぬいぐるみ製造カメラ、念写カメラ、バッジ製造カメラ、めんくいカメラ、ユクスエカメラなど、多種多様な未来のカメラを描いている。
 また、藤子・F先生のSF短編の中には『タイムカメラ』『値ぶみカメラ』『夢カメラ』『コラージュ・カメラ』『四海鏡』など、不思議なカメラをテーマにした作品群が存在する。これらの作品群は、一作一作独立したものといえるが、どの作品にも共通してヨドバ氏という狂言回し的キャラクターが登場し、一種のシリーズ物の体も成している。初出誌の「ビッグコミック」に掲載されたときは、「SFレストランシリーズ」などと銘打たれていたはずだ。
 ちなみに、「ヨドバ氏」という名前は、藤子・F先生が新宿駅西口前の「ヨドバシカメラ」をもじって付けたのではないかと言われている。
 このシリーズの中の『丑の刻禍冥羅』*1は、「のろいのカメラ」の青年向けバージョンだ。のろいのカメラで写真を撮ると、被写体の人物が小さな立体人形となって出てくるが、丑の刻禍冥羅は普通のカメラのように被写体を平面の写真に写す。その違いがあるものの、撮影した人物の人形あるいは写真を傷つければ、その人物の肉体に痛みを与えることができるという点で、二つのカメラの用途はほぼ同じである。



 さて、本日の「のろいカメラ」だが、私は、本日放送された3本の中では、この作品に最も期待をかけていた。それだけ原作に愛着があるのだ。


 冒頭。ドラえもんは、ジャイアンスネ夫のび太をバカにしたことに激しい怒りを示す。
 原作にはジャイアンはまったく登場せず、のび太をバカにしたのはスネ夫だけだったが、今日のアニメでジャイアンを加えたのは妥当な処置だろう。


 ドラえもんは、ジャイアンスネ夫をこらしめるため、悪魔の発明といわれる「のろいのカメラ」を出す。このときのドラえもんの表情はもっと悪辣で深刻そうなほうがおもしろかったと思う。


 ドラえもんは、のろいのカメラを出したものの、いざ使う段になると「いくら悪者でもこれを使うのはあまりに残酷だ」とためらい、結局使わないまま帰宅して、野比家の玄関で、どうしようか思案し続ける。このあたりのドラえもんの心の揺れはうまく表現されていた。


 ドラえもんは、玄関で居眠りしている隙にのろいのカメラで自分の姿を撮られたと知り、激烈に驚く。この驚きの場面は、原作では、ドラえもんの顔がアップで黒く塗られ、口の中に「ゲ」という描き文字が入っていて、とてもインパクトのある絵になっているが、今日のアニメでは、「ゲ」がないぶんインパクトを感じなかった。その辺は、マンガとアニメの差異だから仕方ないだろうが。
 そのあと、ドラえもんが「ドシー」と叫んで飛び上がるところはよかった。「ドシー」という藤子不二雄Aチックな台詞を、わさドラの声で聞けたのが快感だ。


 この話で、私にとって最高の見どころだったのは、ガン子の登場シーンだ。本来は『パーマン』の登場人物であるガン子が、「のろいのカメラ」の原作にゲスト出演しており、それが『わさドラ』でどう描かれるか楽しみだった。
 実際のところ、ガン子は期待通りにそれらしく描写されていた。藤子キャラを描きなれた富永貞義さんが作画監督を担当したため、安心して「おお、ガン子だ!」と感激できるレベルの絵になっていたのだ。
 ガン子とともに、ドラえもん、パパ、ママの人形でお医者さんごっこをするのがジャイ子だ。原作ではガン子とジャイ子は同年齢程度の幼児として描かれているが、今日のアニメでは、ジャイ子のほうが年上で、ガン子の面倒を見る立場にあった。
 また原作のジャイ子は、ガン子と一緒になって人形をばらばらにしようとしたり、葬式を開いたりする残酷キャラだったが、アニメでは、むしろガン子やジャイアンらの暴走に歯止めをかける働きをしていた。ジャイ子はすでに一度『わさドラ』に登場しており、今後も何度か登場して活躍するキャラクターであるわけで、今回原作どおりに残酷な幼児として出演させてしまうと、この話のジャイ子だけ、前後の話とは別人格の異質な存在になってしまう。それを避けるため、幼児でもなく、悪い子でもないジャイ子を登場させたのだろう。


 オチは、原作と同じように、ドラえもんが、のろいのカメラでこしらえたジャイアンスネ夫(原作ではスネ夫のみ)の人形にやかんで水をかけると、本物のジャイアンスネ夫が路上でおもらしをしたようになる、というもの… かと思いきや、そのあと原作にないシーンが加わって、いきなり登場した猫が、机上に放置してあるドラえもんのび太の人形に爪をたてるのだった。すると、ドラえもんのび太の悲鳴が辺りに響き渡り、「人を呪わば穴ふたつ」という諺がおどろおどろしい血文字で画面に表示され、そこで話が終わるのである。
 なぜ、こんな終わり方にする必要があったのだろうか。人を呪っておとしいれるようなまねをすれば、それが自分にもはねかえってきて結局ひどい目にあうのだ、という教訓で話を締めたかったのだろうが、ドラえもんのび太ジャイアンスネ夫に仕返しを遂げたところで終わったほうがずっとすっきりする。無理やり教訓オチに持っていったみたいで、この点は大いに不満だ。




●「天井うらの宇宙戦争

原作データ
初出:「小学四年生」1978年9月号
単行本:「てんとう虫コミックス」19巻などに収録

「天井うらの宇宙戦争」は、映画『スター・ウォーズ』のパロディである。『スター・ウォーズ』は1978年7月に日本で公開され、「天井うらの宇宙戦争」は、「小学四年生」1978年9月号で発表されている。『スター・ウォーズ』が巷で大旋風を巻き起こしているまさにその時期に、「天井うらの宇宙戦争」は描かれたのだ。
 当時の私は、『スター・ウォーズ』を観ていないが、それでもこの映画のキャラクターに魅了され、『スター・ウォーズ』のカードやメモ帳などを集めていた記憶がある。


 藤子・F・不二雄先生は、「天井うらの宇宙戦争」以外にも、いくつかの作品で『スター・ウォーズ』のパロディを描いている。それも、『裏町裏通り名画館』の「ヌター・ウォーズ」や、『ある日……』の「スター・ウォーク」のように、作中作でかなり本格的なパロディを執筆している。『スター・ウォーズ』は、藤子・F先生お気に入りの映画だったのはもちろん、先生のパロディ精神を大いに掻き立てる作品でもあったようだ。
 また、「天井うらの宇宙戦争」で描かれた一連のアイデアは、後年、大長編ドラえもんのび太の宇宙小戦争』で拡大されて用いられることになる。


 ジョージ・ルーカス監督は、『スター・ウォーズ』の企画意図をこのように語っている。

この映画は未来世界を描こうとするものではない。『スター・ウォーズ』はファンタジーである。『二〇〇一年宇宙の旅』よりもグリム兄弟の童話に近い。この映画を私が制作しようとする主な目的は、若い世代に、かつてわれわれの世代がもっていたような健全で真面目なファンタジーを提供しようとするにある。われわれが子どもの頃には、西部劇や海賊ものをはじめとして、あらゆるジャンルにわたるすばらしい名作があった。今、彼らにあるのは『六百万ドルの男』に『コジャック』(いずれもテレビ映画)だけではないか。かつてすべての映画にあふれていたロマンス、冒険、そして面白さはいったい、どこへ行ってしまったのか?

 こうしたルーカスの考えが『スター・ウォーズ』という作品の根底に流れていて、その根っこの部分に藤子・F先生の感性が深く共鳴したのではないか。


「天井うらの宇宙戦争」というサブタイトルは、「宇宙戦争」という壮大なスケールの生死にかかわる事象と、「天井うら」という卑近でせせこましい空間を合体させている。それが、非日常と日常をドッキングさせた『ドラえもん』の世界を反映している。


「天井うらの宇宙戦争」の放送をこの時期のもってきたのは、『スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐』が7月9日から公開されるのにともなって、テレビ朝日の「日曜洋画劇場」で『スター・ウォーズ』の過去作品2作が放送されることが大きく関係していると思われる。
わさドラ』の放送が終わると、さっそく「日曜洋画劇場」の番宣をやっていた。



 といったところで、今日の「天井うらの宇宙戦争」の感想だが、全体的におもしろく観ることができた。


 アーレ・オッカナ、R3‐D3、アカンベーダー、歩兵といった『スター・ウォーズ』のパロディ・キャラは、原作よりも『スター・ウォーズ』から遠ざかる方向で描かれていた。アーレ・オッカナの髪型も、R3‐D3、アカンベーダー、歩兵のデザインも変わっていた。R3‐D3に至っては、その名前も消されていた。そういう変更があったからといってどうということはなく、作品のおもしろさには大して影響がなかった。
 アカンベーダーの垂れ下がった長い舌が、ブラブラと揺れる描写はおもしろかった。
 それから、アーレ・オッカナがアカンベーダーに捕えられたときの、「アーレー」という悲鳴が非常に気に入った。


 平凡な街並やジャイアンの家の天井裏を、精密に描かれた宇宙船が飛ぶ様子に、この作品のおもしろさを感じた。
 日常的で平和な風景と、冒険活劇らしい迫力シーンとが、どちらもしっかり丁寧に描写されることで、宇宙戦争という大事件が起こっていながら、同じ場所で地に足のついた生活感がかもし出されていて、そのシリアスな非日常とユーモラスな日常の出会いが心地よく感じられた。

*1:初出:「ビッグコミック」1983年7月25日号/単行本:「藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版」8巻などに収録