藤子不二雄A『少年時代』

藤子不二雄Aランド」で読める作品のレビュー第2弾として、今日は『少年時代』をとりあげたい。


『少年時代』は、第58回芥川賞を受賞した作家・柏原兵三氏の小説『長い道』に感銘を受けた藤子不二雄A先生が、その『長い道』を原作に使い、自らの体験や創作を加えて執筆した骨太の長編ストーリーマンガである。
 小説『長い道』は、昭和19年から20年の終戦にかけて、東京から富山の山村へ疎開した柏原兵三氏の実体験に基づいた自伝的小説。柏原氏が疎開していたのと同時期に、柏原氏が疎開していた村の近隣の村に疎開していた藤子A先生は、この小説を読んで、「これは自分の物語だ!」と深く共感し、いつか自分の手でマンガ化してみたいと思ったという。そして、昭和53年、「週刊少年マガジン」編集部から連載の依頼があったさい、「このマンガは人気投票の枠外においてほしい。昭和19年夏から昭和20年夏までの話なので、人気が出ないからといって途中で切らないでほしい。そのかわり、いくら人気が出ても1年でキッパリ終わるから」と申し入れて描きはじめたのが『少年時代』なのである。


 戦時中の富山県の山村を舞台に、都会から疎開してきた少年が田舎の習慣や友達関係に葛藤する日々を描いたこのマンガは、「週刊少年マガジン」の中にあってはあまりに地味で実直な内容だったため、連載中は何の反響もなく、静かにひっそりと、約束通り1年で連載を終えた。
 ところが、最終回の載った号が出たとたん、堰をきったように読者から数多くの手紙が届き、それらの手紙には『少年時代』を読んで感動した、マンガを読んで泣いたのは初めて、といった真剣な言葉が綴られていたという。藤子A先生はこのとき、大きな喜びを感じながら、マンガという表現形態に単なるエンターテインメントだけではない〝なにか〟を期待している読者も多いのだ、と実感したのだった。


『少年時代』は、平成2年、篠田正浩監督によって映画化され、それまで知る人ぞ知る名作マンガだったものが、一躍藤子A先生の代表作のひとつとして認識されるようになった。藤子A先生はこの映画のプロデューサーを自ら務めている。
 また、この映画の主題歌『少年時代』を井上陽水氏が歌い、ヒット・チャートにものぼった。この主題歌は、映画と完全に離れたところでも、名曲として世間に認知されている。


『少年時代』の初出と単行本のデータは以下のとおり。

●初出:「週刊少年マガジン」昭和53年37号〜昭和54年39号連載
●単行本:
・「講談社コミックス」全5巻(昭和54年/講談社
・「中公愛蔵版」全1巻(平成元年/中央公論社
・「藤子不二雄ランド」全5巻(平成2年/中央公論社
・「中公文庫コミック版」全3巻(平成7年/中央公論社
・「藤子不二雄Aランド」全5巻(平成15年/ブッキング)


 不朽の名作『少年時代』が「藤子不二雄Aランド」から全5巻で刊行されたのは、平成15年7月から11月にかけてのことだった。このとき私は、中学生のころ「講談社コミックス」全5巻で初めて読んで以来繰り返し再読してきた『少年時代』を、真新しい「藤子不二雄Aランド」の単行本で改めて読んでみた。すると、今まで何度も読んできたマンガとは思えないほど新鮮な感動を味わえたのだった。
 そして、今年平成17年は、終戦60年という節目にあたり、終戦の前年から終戦にかけての時代を描いたこのマンガを読むにはもってこいの年といえるだろう。
 


『少年時代』は、主人公の風間進一が、米軍による本土空襲の激化が予測される世情のなか、縁故疎開で東京から富山の山村、泉山村へ越してくるところからはじまる。
 進一は、泉山村に越してきたばかりの夏休み中に、タケシという知力体力ともに優れた現地の同級生と知り合う。それ以後、進一は、泉山村を離れて東京へ帰るまでのおよそ1年間、タケシの一挙手一投足に、ひたすら心をふりまわされることになる。
 泉山村に越してきて2日めの朝、進一が村内をぶらりと散策していると、村人たちは進一に好奇の目を冷ややかに浴びせかけてきた。あいさつすら交わしてくれる人のいないなか、道の途中で出会ったタケシだけは、自分のほうから進一に声をかけてきてくれた。そのうえタケシは、進一の名前をすでに知っていて、その日のうちに自分が育てた西瓜を進一の住む光禅庵へ届けてくれたのである。
 後日、タケシと進一が2人でよその村へ海水浴に出向いたさい、その村の子どもたちから襲撃を受けた進一を、タケシが体を張って救ってくれる、といった一幕もあった。
 そのように、出会ったばかりの頃のタケシは、進一にたいしてたいそう友好的な態度を示していた。
 

 進一はそうやってタケシとつき合っていくうちに、タケシがほかの子どもたちより強い立場にあることに気づきはじめる。タケシは時折、進一にさえ高圧的な態度をとってくることもあり、そのことで進一は、いくらか気がかりや不快感をおぼえるようになるが、それでもまだ、タケシとはとてもよい友達になれると信じていた。
 これで、本当にタケシが、進一が信じたとおりの純朴で頼もしくて親切な好人物であったなら問題はなかったわけだが、残念ながらタケシという少年は、一筋縄ではいかない、たいへん難しい性格の持ち主だったのである。
 それが明らかになったのは、夏休みが終わり進一が泉山国民学校へ通うようになってからのことだった。学校でのタケシは、級友たちを知力と腕力で支配する独裁的な権力者だったのだ。
 進一にたいする態度も、それまでとはまるで違ったものに変貌していった。夏休み中につき合っていたときとは違う、横暴で陰湿で気まぐれなタケシの言動に、翻弄されいたぶられ苦悩する進一の日々がはじまったのだ。

 
 タケシが常に一方的な暴君で、ただ進一をいじめるだけの凶悪な存在だったなら、進一はタケシのことを単純に恐れ憎み忌避していればよかったわけである。しかし、タケシの態度はそんな一面的なものではなく、通学時や学校内では横暴だったり冷淡だったりするのに、私的な場所では親切にしてくれたり友好的に接してくれたりして、そういった不可解な態度が何度となく繰り返されるものだから、進一はタケシのことを完全に嫌うこともできず、かといって全面的に好きになることもできず、どちらへも落ち着かない感情をかかえて延々と葛藤しなければならなかった。
 葛藤とは、「人を愛するか憎むか」「救うか見捨てるか」といった反対の心理状態が、その時どきにしのぎを削って表面に出ようとせめぎ合うことで、相反する状況にたいして相反する感情を持つことから人間の内面に生じてくる。進一は、この葛藤の状態にさいなまれ続けたのである。


 タケシの、冷淡かと思えば親切だったり、意地悪かと思えば頼もしかったり、といった不可解な二面性によって精神の葛藤を生じさせられた進一は、さらに辛いことに、自分自身の側に心ならずも生じてきた自己の二面性によってもまた、根深い葛藤にみまわれた。進一は、自分の外側にいる他者(=タケシ)の二面性によって葛藤を深めながら、自分の側に発生した自身(=進一)の二面性によっても葛藤に陥ったのである。
 では、進一の側に発生した進一自身の二面性とはどんなものだったのか。
 進一は、タケシの横暴なふるまいや居丈高な命令にたいして毅然とした態度をとりたいと内心では常に思っているのだが、実際の局面では、タケシの言いなりになったりタケシのご機嫌をとったりすることしかできない。進一にとって、そういう自分の卑屈で臆病な態度は、とても屈辱的で惨めなものに感じられた。
 つまり進一は、こうありたいと願う理想の自己像と、理想からはほど遠い現実の自分の有様との、はなはだしい分裂に苦しんだのだ。自分の内面に根差す誇り高い精神、その誇り高い精神とは裏腹に外面にあらわれ出てしまう卑屈な言動、そうした相反する自己の二面性によって、進一の心はまさに葛藤を余儀なくされたのだった。
 タケシの二面性にふりまわされることで生じた、外在的な要因による葛藤、そして、自分自身の二面性に板ばさみにあうことで生じた、内在的な要因による葛藤。この、外と内から生じた二重の葛藤は、両方とも、タケシとのかかわりによって引き起こされた進一の感情であり、その点では、わざわざ区別するまでもない、同種のものだという見方もできよう。


 このように進一は、泉山村に滞在するあいだじゅう、タケシの言動にひたすら心を揺さぶられ傷つけられ囚われていたわけで、進一にとってタケシとは、良くも悪くも、自分の心を支配的に占有するほど巨大な存在であり続けたのである。
 こうした進一の特別な心理状態を凝視すれば、進一はタケシにたいして一種の恋愛感情のようなものを抱き続けていたのではないか、というふうにも思えてくる。そしてまた、作中ではその内面がなかなかつかみにくかった複雑な性格のタケシも、進一にたいして恋愛感情のごとき特別な感情を、ひそやかに(ときには堂々と)抱き続けていたのではないか、とも思えてくる。タケシの進一にたいする感情のほうが、より熱烈で深いものだったのかもしれない、とさえ感じる。


 進一とタケシの関係から恋愛感情のようなニュアンスを読みとったのは、なにも私だけではない。
 たとえば、映画『少年時代』の脚本を担当した山田太一氏は、「僕はこれを恋愛映画として書く」と語っていたし、マンガ評論家の米沢嘉博氏も「見方によっては強烈なホモセクシャルな匂いさえ、このマンガには漂う」と述べている。
『少年時代』は、無骨で初々しく、ときには激烈でどろどろとしていて、しかも哀切にみちた余韻の残る、二人の少年のラブストーリーだった、といえるのではないか。




『少年時代』についてはまだまだ語りたいことがたくさんあるが、今日はあと3つの点に簡単に触れておきたい。


・『少年時代』で描かれたような、物語のラストに何年か経過したあとのシーンを付け加えるという構成が、藤子A先生はとても好きだそうで、その理想的なパターンが、木下恵介監督の映画『野菊の如き君なりき』に見られるという。


・『少年時代』は、戦中の山村の風景や習俗をリアルに記録した作品としても優れている。西瓜やかりんとうなど、食べ物の描写も秀逸だ。


・『少年時代』は、現代社会の病理である「いじめ」の問題を考えるさいのテキストとして読むこともできる。実際に、『少年時代』と「いじめ」の問題を関連づけて論じた文献も見受けられる。『少年時代』と『魔太郎がくる!!』は、「いじめ」という題材を正面から扱った、二大藤子A少年マンガなのだ。


藤子不二雄Aランド「少年時代」第1巻
 http://www.fukkan.com/a-land/index.php3?mode=99&i_no=4091467
藤子不二雄Aランド「少年時代」第2巻
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藤子不二雄Aランド「少年時代」第3巻
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藤子不二雄Aランド「少年時代」第4巻
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藤子不二雄Aランド「少年時代」第5巻
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