藤子不二雄A×赤塚夫人対談イベント

 15日(土)、東京都青梅市青梅赤塚不二夫会館・特設会場で、藤子不二雄A先生と、赤塚不二夫先生の奥様・眞知子さんの対談イベント「赤塚不二夫を語る」が開催された。
 このイベントは、青梅赤塚不二夫会館開館2周年・赤塚不二夫画業50周年を記念したものだ。


 青梅市は、東京都内ながら、都心部からかなり距離があり、はるばるやってきたなぁ、という感覚を味わった。
 午後1時開始予定の対談イベントが始まるまでは、赤塚不二夫会館の展示物を見学するなどしてすごした。同会館は、さほど大規模な施設ではないが、要点を押さえた展示をしており、ひととおり見て回れば充実感の残るミュージアムだった。藤子両先生にこうしたミュージアムがない現状を思うと、早く藤子関係の施設もできてほしいと願わずにはいられなかった。


 入口を入ってすぐのところに、藤子A先生が赤塚不二夫会館に贈ったカラーイラストが飾ってあった。赤塚先生の傍らに忍者ハットリくんとニャロメが立っているイラストで、「ぐわんばってくだされ!赤塚氏!」と、病床の赤塚先生を応援する力強いメッセージが添えられている。その近くには、当ブログ10月13日の記事でとりあげた「赤塚不二夫漫画大全集 オンデマンド版」が全巻並んでいて、手にとって読めるようになっていた。


 展示物のなかでは、やはり赤塚作品の原稿が最も魅力的だった。パンフレットによると、約100点の原稿を展示しているという。単行本や初出誌、グッズがたくさん陳列されているのも楽しかったし、赤塚先生が暮らしたトキワ荘の一室をイメージした立体空間もよかった。ただし、トキワ荘をイメージした空間は、実際のトキワ荘の部屋を忠実に再現したものではなく、たとえば、本当は4畳半だった部屋がこの会館では6畳で作られていたりする。
 レトロな板塀風の壁に、赤塚先生を紹介した昭和時代の雑誌・新聞記事が数多く貼ってあるスペースは、とても居心地がよかった。ビジュアル的には地味な展示だが、私の嗜好に合ったスペースだった。黄ばんだ記事をひとつひとつ読んでいると、なんだか熱い気持ちがこみ上げてくる。時間的に一部の記事しか読めなかったのが残念だ。




 対談イベント「赤塚不二夫を語る」が行なわれるのは、会館の建物のなかではなく、その近くに設営された屋外の特設会場だった。天気予報で雨が降ると聞いていて、もし本当に雨が降ったら台無しになるところだったが、さいわい天候に恵まれた。私は例によって一番前の席を陣取った。
 正午になると、舞台の上に司会の喰始さん(たべはじめ/WAHAHA本舗)が登場し、イベントの開始を告げた。対談イベントの前に、WAHAHA本舗のライブが繰り広げられた。舞台上の全員が赤塚キャラになりきった合唱団や、セクシー寄席、おいおい教、3バカトリオなど、ばかばかしくてちょっと下品でナンセンスな、呆れるほど個性的な芸を披露してくれた。ある意味、赤塚作品の世界と通底するものがあったかもしれない。
 おいおい教は、顔に不気味なメイクを施したおいおい教の教祖が、常に「おーいおい!」と叫びながら、手渡された小道具を使ってナンセンスな動きをするショーで、口に含んだスナック菓子を噴き出したり、輪ゴムを手当たり次第に飛ばしたりと、一番前に座っている我々に被害?が及ぶ芸もあった。


 WAHAHA本舗のライブのあと、藤子A先生、赤塚夫人をはじめ、青梅市長や地元選出の国会議員など、数名の主賓が舞台に上がり、それぞれが挨拶をした。藤子A先生の挨拶はなかった。藤子A先生と赤塚夫人を中心にした除幕式は、幕が画鋲でとめてあったりと準備が悪く、うまく幕を降ろすことができなかった。


 対談イベントは、マンガ本を3万冊以上所有しているという喰始さんの仕切りによって進められた。舞台上の藤子A先生と赤塚夫人は、見るからに親しそうな様子だった。赤塚夫人は、風船で作られたウナギイヌをずっと抱えていた。
 喰始さんは以前から赤塚先生と親しかったが藤子A先生とは初対面とのこと。リアルタイムで初めて読んだ藤子マンガは『海の王子』、赤塚マンガでは『ナマちゃん』だったという。


 藤子A先生は、赤塚先生との思い出を語る中で、「漫画少年」投稿時代やトキワ荘時代のエピソードをいろいろと披露した。我々藤子ファンには馴染み深い話ばかりだったが、藤子A先生がいつものようにユーモアたっぷりに語り、観客の中にはこういう話を初めて聴く方も多かったため、会場はたびたび大きな笑いに包まれた。
「石森は、彼の描くマンガのおしゃれなイメージに反してジャガイモのような顔をしていたが、赤塚は、現在のイメージと違ってシャイな美少年だった」と、初対面の印象を振り返った。つのだじろうの巻紙事件や、赤塚が『ナマちゃん』を描いた経緯、藤子の原稿大量落とし事件なども語られた。


 赤塚先生が『ナマちゃん』を描いたのは、「漫画王」昭和33年11月号の原稿を落としたあるマンガ家の穴埋めのためだったが、当時はそうした穴埋め仕事の依頼がよくトキワ荘に持ち込まれていたそうで、藤子A先生は、「穴埋め仕事は、何でも好きなものを描かせてくれるので勉強になったし、そのうえ稿料までもらえたので、駆け出しの自分らにはありがたかった」と述懐した。


 話がスタジオ・ゼロに及んだときは、喰始さんが「実は私もスタジオ・ゼロで仕事をしたことがあるんです」と告白。「祭りだ!ワッショイ!」という番組の中で、歌謡曲をアニメにして流すコーナーがあり、その仕事でスタジオ・ゼロへ足を運んで鈴木伸一先生と会ったりしたのだそうだ。
 私は「祭りだ!ワッショイ!」と聴いたとたん、前のめりになって耳を傾けた。「祭りだ!ワッショイ!」の歌謡曲アニメは、藤子、赤塚、石森といったスタジオ・ゼロの面々が作品制作に携わっており、喰始さんは赤塚が担当した作品を憶えているようだったが、藤子A先生もピーターの「愛の美学」をアニメ化しているので、先生の口からそのあたりの話が出ることを期待したのだった。しかし藤子A先生は、そんな仕事をしたこと自体忘れておられるような雰囲気だった。残念。


 スタジオ・ゼロ関連では、こんな話も聴けた。
スタジオ・ゼロの社屋だった市川ビルには、藤子、赤塚、つのだのプロダクションが一つのフロアに同居していて、赤塚のフジオ・プロが最も騒々しかった。ある日、赤塚がフジオ・プロのスタッフとおもちゃの鉄砲を撃ち合って遊びだしたときは、いつも物静かな藤本くんが声を荒げて怒った。ぼくも、藤本くんが帰宅したあとフジオ・プロの面々と一緒にルーレットやおもちゃの競馬レースをして遊んだ。毎晩お祭りのようだった」


 赤塚先生の映画狂ぶりが話題になると、喰始さんは、自分はおもしろいと思ったのに赤塚先生がダメな作品だと批判した映画がある、という話を持ち出した。その映画とは、『エイリアン』だったという。


 藤子A先生が、赤塚先生の前の夫人である登茂子さんの話に触れると、現在の夫人である眞知子さんは、「登茂子さんは、本当は赤塚より安孫子さんのほうがお好きだったそうですよ」と、冗談とも本気ともつかぬ爆弾発言を投下した。これには藤子A先生もたじたじといった感じで、「登茂子さんと初めて会ったときには、もう赤塚とつきあっていた」と弁じるのが精一杯の様子だった。
 その話を受けて喰始さんは、「トキワ荘で一番もてたのはどなたですか?」と質問。藤子A先生は迷うことなく「それは、ぼくです」と答えた。「ぼくは富山新聞で働いた経験があるし、藤本くんもテラさんもつのだも堅物だったし、石森もそんな感じだった。赤塚はおとなしそうに見えて、どうだったか分からないけれど(笑)」とご自分の優位性を説いた。
オバQ』の作者だと言ってお店の女の子をくどいたことはないかとの質問には、「それはしなかった」と返答。眞知子さんに「宮沢りえさんをくどいたことがあるんですよね」と突っ込まれたりもしていた。
 ちなみにこの日、赤塚先生の前夫人である登茂子さんも会場にいらしたようだ。


 対談イベントの最後は観客からの質問コーナーとなった。赤塚先生に対してライバル意識はあったかとの質問には、「そういう意識はなく、嫉妬心なども起こらなかった」との回答。次の質問者は、「藤本先生とのコンビを解消された理由は何ですか。喧嘩したのですか?」と、率直すぎる質問を投げかけた。藤子A先生は、その質問を笑顔で受けとめ、「喧嘩はまったくしていない」と即答、「2人の絵柄や作風が違ってきて、合作もしなくなり、なんとはなしに別々になろうという話になった。ぼくらは、解散ではなく独立と言っている。コンビを組んだのも自然だったし、別れたのも自然な流れだった」と説明した。
『サル』の連載が終わったが新連載の予定は?との質問には、「体も弱ってきたし、歳だし、しばらくは休みたい。休んで元気が出ればまた新たな連載を始めるかもしれないが、これからは講演活動をしてすごそうかな(笑)」と、新連載を期待するファンにはやや寂しい答えが返ってきた。


 イベントの締めとして、藤子A先生は、「今日は、病気の赤塚に代わってここに来た。赤塚のお見舞いに行くたびに、彼の顔色はよくなっている。お見舞いには姉と一緒に行くが、その姉は〝赤塚さんの顔色はこんなにピンクになってきているのに、あなたの顔は土気色で…〟などとぼくのことをけなすのでやめてほしい(笑) 来年は、この場に赤塚本人がいられるといいと思う」、赤塚夫人は、「今日は安孫子さんにほとんど喋ってもらって助かった。現在闘病中の赤塚に〝起きてくれ!〟と皆さんで祈ってほしい」と述べた。



 イベントを終えて帰ろうとする藤子A先生の周囲には大勢の人が群がり、サインを求めたりしていた。ちょっとしたパニックの様相だった。


 我々はイベント後、八王子の古本屋を経由して新宿へおもむき、居酒屋で会話を楽しんだ。この日初めてお会いしたIさんから、「コンビを解消して1〜3年後くらいに、藤子・F・不二雄先生が、〝子どもマンガはどうあるべきか〟というような討論会のパネリストとしてテレビ出演されているのを観たことがある。テレビ朝日の夕方の番組だったと思う」といった情報をいただいた。その番組のなかで「マンガは子どもに夢を与えるべきだ」と訴える女性がいたが、それに対して藤子・F先生は「マンガが必ず子どもに夢を与えるべきものだとは思わない。子どもに夢を与えるのでないマンガがあってもいい」というような反論をして、強く印象に残ったのだそうだ。いつ放送されたどんな番組だったのかたいへん気になる。