藤子・F・不二雄×大友克洋

 今回は、1995年7月11日、NHK教育で放送された『ETV特集 手塚治虫の遺産 アトムとAKIRA』という番組について書きたい。
 この番組は、大まかにいえば、マンガ家の大友克洋さんが手塚治虫について思うところを語っていく、というものだ。私は、藤子不二雄A先生の『まんが道』によって手塚治虫の偉大さを知り、それ以後主要な手塚マンガを読みあさって結果的に手塚マンガ単行本を3〜400冊持つようになった程度には手塚治虫ファンであり、そしてまた大友さんの『AKIRA』や『童夢』なども好きなので、大友さんが手塚先生について語るこの番組に魅力を感じないわけがないのだが、それに加え、われらが藤子・F・不二雄先生までが同番組に出演しているのだから、私のツボは押されっぱなしなのだ。
 番組の構成としては、大友さんが1人で手塚先生について語るパートの合間に、「大友克洋×藤子・F・不二雄」「大友克洋×りんたろう」「大友克洋×秋本治」といった対談パートが挟まった形態になっている。もちろん私にとっての目玉は、「大友克洋×藤子・F・不二雄」である。


 大友克洋といえば、「大友以後」とか「大友化現象」という言葉があるくらい、あとに続くマンガ家に絶大な影響を与えたエポック・メイキングなマンガ家であり、マンガの神様と呼ばれる手塚治虫先生が激しく嫉妬心を燃やした実力者であり、近年ではマンガ家としてよりアニメ作家として世界的な評価を得ている人物である。先に書いたように、私自身、大友さんの『AKIRA』や『童夢』が好きなこともあって、そんな大友さんと、私が敬愛してやまない藤子・F先生が対談するこの番組は、たまらなく魅惑的なものなのであった。対談の内容がどうこうという前に、このビッグな2人が顔を合わせるというその状況にまず幸福を感じた。



 大友さんが藤子・F先生の仕事場を訪ねるシーンから、私の胸は大きく高鳴る。そして、2人のご対面! 2人はこのときが初顔合わせで、藤子・F先生は〝大友さんの名前はよく知っていても、顔写真は見たことがなかった〟とのこと。大友さんのほうはさすがに藤子・F先生の顔を何度もメディアで見たことがあるようだが、「恐れ多くて、なかなか挨拶できなくて…」とF先生に対して恐縮した様子。
 そのあと、いよいよテーブルを挟んで2人の対談がはじまる。対談、というより、大友さんが手塚治虫をテーマに藤子・F先生にインタビューする、といったほうが正確かもしれない。


 そんな2人の対談のなかで、とくに私の心に響いたくだりを抜き出してみる。

●藤子・F先生の発言●
実はね、僕らが昭和29年に東京へ出てきて持ちこみを始めたときに、ある雑誌の編集長がね…… そのころはもう今以上に僕の絵なんてのは手塚先生の影響を受けてるんですよ…… こういう絵はもう古いんだと、手塚先生はもう過去の人なんだと、これからはこういう絵が流行るんだといって、福井英一さん、武内つなよしさんの別冊付録をくれまして、これを見て勉強しろと。

 上京したてで早くも「古い」といわれた手塚風の丸っこい画風を、当の手塚先生以上にかたくなに自分のものとして守り続けたマンガ家が藤子・F先生だと私は認識している。
 手塚先生は、その長いマンガ家生活のなかで、常にその時代の第一線でありたいとの気概を強烈に抱き、同時代に登場した優れたマンガ家と張り合い続けたため、劇画的な描線やその時代に流行った手法などを自作に旺盛に取り込んで、大きく画風を変容させていった。それに対して藤子・F先生は、自身が夢中になって読んだ初期手塚マンガの丸っこい絵柄にずっと寄り添いながら、自分なりの画風を育て上げていったのである。
 昭和29年の時点ですでに「古い」と評された藤子・F先生の丸っこい児童マンガの絵柄は、その後も「古い」だの「時代遅れ」だのいわれ続け、昭和40年代「週刊少年マガジン」を中心とした劇画的マンガ隆盛の渦中では、完全に時代から取り残されたような状況に陥った。
 そのときの藤子・F先生の暗い心情が如実に反映された作品が『劇画・オバQ』である。


 しかしそれでも藤子・F先生は、自分の丸っこい絵柄を劇的に変容させることをしないまま冬の時代をくぐりぬけ、昭和50年代の『ドラえもん』ブームによって、一躍〝時の人〟となったのだった。
 もちろん藤子・F先生の絵も時代とともに変化してはいるが、その変化はいたって緩やかで、もともとの画風から大きく逸脱することはなかった。それが結果として〝古い・新しい〟という次元を超えた、ほどよい普遍性を獲得することにつなっがっていったのである。
 そのことについては、藤子・F先生のこんな言葉に実感がにじんでいる。

ボクと安孫子がまんが界の化石なんて呼ばれたのは、かなり久しい昔ですけどね。新人の時、ダメだと言われたんだもの、〝キミたちの絵は古い! こういう絵はもうはやらない〟と言われたね。もうこれ以上古くなりようがない。そのへん、強いもんです(笑)
小学館「オレのまんが道」(少年サンデー編集部 編/根岸康雄 取材・文/1990年発行)


 さて次は、藤子・F先生との対談における大友さんの発言を引用しよう。

●大友さんの発言●
マンガっいうのは、不思議な分野ですよね。まあフォークソングに近いっていうか、ギターがあれば自分のいいたいことが歌えたっていうか。自分の好きな絵っていうんですかね、それはデッサンがあるとかないとかいう問題じゃなくて、自分なりの絵が描けて、自分なりの言いたいことがあれば、マンガ家として成立するわけですからね。

 うまい表現だと思う。
 藤子・F先生と同世代のマンガ家、たとえば藤子不二雄A先生も石ノ森章太郎さんも赤塚不二夫さんも熱狂的な映画青年で、本当は映画を撮りたかったのだが、映画を作るには人もお金も必要でそうやすやすと実践に移せない。そんなとき手塚先生の『新宝島』をはじめとした単行本作品に立て続けに出会った彼らは、「マンガでも映画をやれるんだ」と蒙を啓かれ、マンガに入れ込んでいったのだった。マンガであれば1人で描けるし、紙やペンなどの道具も安価で手に入るのだから、映画を作ることを思えば格段にとっかかりやすいメディアといえるだろう。


●藤子・F先生の発言●
手塚先生もね、やっぱり、それが当たってるかどうかは別として、自分は絵はうまくないんだと。単に記号として、自分の作りだした架空世界を外部の人たちに伝える手段なんだということをおっしゃってますわね。

 この発言は、手塚先生の意見として語っていながら、実は藤子・F先生自身のことを語っているとの印象を受けた。手塚先生は、自分は絵がうまくない、と発言することがあったが、藤子・F先生も同じようなことをよくいっていた。
「自分が作り出した架空世界を外部の人たちに伝える手段」という言い方は、ここでは手塚先生の言葉として挙げているが、別の機会には手塚先生の名は出さず、藤子・F先生自身の考えとして語ったこともある。
 手塚先生や藤子・F先生が自分の絵は下手だ、と述べたことは、大友さんが描くような絵と自分の絵を比べてみたときどうしようもなく感じた本音の吐露であったのだろうし、それとともに、これまで長いあいだ順風満帆とはいえないまでも第一線で活躍してきたマンガ家としての確かな自負に支えられた〝謙遜〟のニュアンスも含まれていたような気がする。



最後に大友さんが、〝現在マンガは数がすごく出ているし、どうやったら売れるかって考えているマンガ家は大勢いるが、自分の世界観をしっかりともったマンガ家はメジャーにはいないのではないか、そして、あらかたストーリーが出尽くして、ネタ切れになっているのではないか〟とマンガの現在に対する危機感を表明。それに対して藤子・F先生はこう答えている。

進化の頂点が進化の袋小路っていう考え方も確かにありますわね。今まで生物はいろんな種類が出ましたが、絶滅しなかった種はない、といわれています。遠いスタンスで見れば、大きなスタンスで見れば、マンガもあるいは絶滅するときがあるのかもしれないけれど、だけど、それは、まだ、まだ、まだ大丈夫なんじゃないかと思います。僕が楽観的すぎるのかもしれませんけどね。

 マンガに関する自論を述べるさい、〝生物の進化〟を引き合いに出すところがサイエンス好きの藤子・F先生らしい。マンガというジャンルの未来を信じていた藤子・F先生は、この番組が放映されてから1年と少しのちに他界した。今のマンガは、藤子・F先生が展望していたような〝大丈夫な〟状態にあるのだろうか。21世紀に入って〝マンガの豊饒〟を謳う言葉をよく目にするようなったことを思えば、藤子・F先生の展望は当たっていたということか。