「くろうみそ」「無敵コンチュー丹」放送

 11月25日、『わさドラ』29回めの放送。



●「くろうみそ」

初出:「小学六年生」1975年4月号
単行本:「てんとう虫コミックス」8巻などに収録

【原作】
「くろうみそ」には、同じような構図、同じようなアングル、同じようなサイズのコマがしばらく続く場面が二ヶ所ある。これは『ドラえもん』という作品においては異例のことで、だからこそ強く印象に刻まれる表現となっている。
 同じような構図・アングル・サイズのコマが続くのは、のび太が漫然と机に向かう冒頭場面と、パパがのび太に熱をこめて説教する場面だ。のび太が机に向かう冒頭場面では、同じようなコマが8コマ続く。そして、パパのお説教場面になると、冒頭場面の似方よりもっと似通ったコマが15コマも続くのである。
 そのようなコマ表現に触れるとき、私は、藤子・F先生が残したいくつかの発言を思い起こす。

藤本(藤子・F) 「(前略)ぼくらが出て来た頃は、マンガ一本の長さが4ページなどというのはざらでしたから。来月号は、なんとか先生の大長編マンガを16ページで、などという時代だったんです。だから、ぼくらは4ページで地球へ侵略者が来て、それをやっつけるという話を描いたのです。とにかく、短く短く、エッセンスだけでという訓練は徹底的にされているわけですよ。」
中島梓「いわばマンガのショートショートですね。」
藤本「ええ。それでだんだんマンガのスペースが増えて来ると、読者も斜め読みになって来るわけで、パッパッパッと読んで行っても対応できるような描き方というのができて来るんです。今のほとんどの人は、それで描いているのではないかと思います。ぼくらは、旧態依然というか、一コマ一コマじっくりと読んでもらわないとわからないような種類のマンガを描いているわけです。」
孫子(藤子A)「だから大ゴマが使えないんです。パッと見開きなんかを使うと、効果があると思うんだけれど。
中島「永井豪さんなんかは、長編型でしょ。本当に感心したのは、見開きで一つの顔が出ていて、次のページをめくるとまた出ている。4見開きが連続していて、合計8ページになるんです。あれは迫力ありましたねえ。」
孫子「ぼくらは、ああいうのを描くと、なんだか恐ろしいような気がするんですね(笑)。いまだに描けないんです。」
藤本「一ページを4段に切って、一段を3つに切って、12コマが標準の形で、たまに2つのコマをつないだりとかもします。」
中島「一番大きくお使いになって、例えば半ページぐらいになさったことは?」
藤本「いまだにもったいなくて使えないんですねえ(笑)。」
(『マンガ少年別冊 地球(テラ)へ… 総集編 第3部』[竹宮恵子著・朝日ソノラマ・1980年3月1日初版発行] 藤子不二雄中島梓竹宮恵子による座談会)

ドラえもん」は一種の実験まんがとも言えます。常識的に考えられないような珍道具が、もし日常生活の中に出てきたら…と、そこから空想を発展させて行くまんがなのです。主題は、その珍道具が日常世界に及ぼすナンセンスな影響にあります。珍道具の入手法ではありません。だから、限られたページ数の中では、極力早く珍道具を登場させることが必須条件なのです。ポケットからヒョイと取り出すのは、この目的に沿った効率的手段です。効率的であろうとすることが、悪いこととは思いません。社会の進歩が有史以来、労働時間の短縮と、それとは一見矛盾する所得の増加という方向に流れているのは周知の事実です。人類はそのために努力してきたとも言えるでしょう。
(『藤子不二雄自選集4 ドラえもん ナンセンスの世界2』[小学館・1981年12月15日初版発行])

斎藤次郎さんが「ドラえもんの救済は一過性、局所性のものである。のび太のどのようなピンチにもドラえもんは、本質的な解決を回避する」と書いておられます。なるほどなるほど、全くその通り!と僕は深く感心しました。しかしそれに続いて「この軽みと明るさがドラえもんの真骨頂」であり「作者はその場しのぎのバラエティに十年間を費やしてきた。そのことによって、子どもの世界の一切の不幸を、個々にあみだしたSF的解決策に対応する程度に軽視しようと志したのではなかったろうか」とあるのは、いささか買い被りです。(引用が不正確だったらお詫びします)ドラえもんの解決策がその場しのぎなのは事実ですが、それは決して作者が志したためではなく、連載の形式がそうさせたのです。もしドラえもんの道具がのび太の悩みを全て解決し、めでたしめでたしとなったら話はおしまいではありませんか。それにこのマンガは学習誌連載なのです。マンガの頁数が8〜10枚程度です。これでとにかく話を完結しようというのですから、社会的大事件など取り上げようもありません。解決の局所性はその故なのです。
(『ドラえもんと私 小学館版「藤子不二雄自選集」を刊行して』1981年)

 エッセンスだけで短くマンガを描く訓練を徹底的に行ない、コマを無駄に使うことをもったいないと感じ、毎回限られたページ数で話を完結させなければならない『ドラえもん』では極力早く珍道具を登場させることが必須条件だと語っていた藤子・F先生にしては、実に贅沢なコマの使い方を見せた作品。それが「くろうみそ」なのである。
 ただし、大ゴマを大胆に使うのではなく、同じような内容の標準型のコマを連続させるという方向での贅沢さだったわけだが。
 同じようなコマの平板な連続のなかで、キャラクターの表情やポーズをコマごとに的確に変えていくという芸の細かさが見られるため、その場面が退屈に堕することはない。


 パパのお説教場面の入口に、のび太とパパによる「お説教なんておもしろいもんじゃないからね。長ながやると、このマンガの人気がおちる。」「いいや 二ページほどやる!!」というやりとりがある。これは、作中の人物がその作品について言及するというメタレベルのセリフだが、1300話以上存在する『ドラえもん』作品のなかで、こうしたあからさまにメタなセリフが見られるものは珍しい。
ドラえもん』におけるメタレベルのセリフといえば、「無人島へ家出」の「どうなってんの?ぼくがおとなになったら、このまんがおしまいじゃないか!」(のび太)や、「大長編ドラえもん のび太の銀河超特急」の「のび太……、大長編になると、かっこいいことをいう。」(スネ夫)などが思い当たる。


 というわけで、この「くろうみそ」は、通常の『ドラえもん』作品と比べ、ある意味実験的ともいえる表現技法が目立つ一作なのである。




わさドラ感想】
 パパのお説教場面は、「いいや 二ページほどやる!!」のようなメタなセリフはなく、パパのバストショットが延々と続くわけでもなく、『わさドラ』なりの、原作とは異なるアレンジで進行していった。熱いお説教を繰り広げるパパと、それに合の手を入れるドラえもん山中鹿之助は絵付きで説明、「憂きことの なおこの上に 積もれかし 限りある身の 力ためさん」「かん難汝を玉にす」は画面に大きく文字を表示、といったふうにあれこれ趣向を凝らし、長めのお説教が飽きられないよう工夫していた。マンガとアニメという媒体の違いがあるので、こうしたアレンジになるのは仕方ないだろう。
 のび太は、「玉になる」というフレーズをたいそう気に入った様子で、その後の場面でも繰り返し使っていた。


 パパのお説教に感動したのび太が涙と鼻水を垂らすシーンと、のび太が苦労に苦労を重ねてお使いを終え家に帰り着いたとき、ドラえもんがのんきにマンガ雑誌を読んでいたシーンは、ほのかに笑えた。


 原作でもいつになく熱いパパだったが、アニメでは、熱のこもった声や動き、大雨のなか外出するなどの苦労も加わって、パパの熱血漢ぶりがますますダイレクトに伝わってきた。





●「無敵コンチュー丹」

初出:「小学四年生」1978年5月号
単行本:「てんとう虫コミックス」19巻などに収録

【原作】
 私が生まれて初めて好きになったマンガは、藤子・F先生の『モッコロくん』だ。『モッコロくん』には様々な昆虫が登場し、それらの昆虫がもつ特殊な能力がアイデアとして活かされている。 本作「無敵コンチュー丹」も、昆虫たちの驚くべき能力を題材にしていて、少年のころ昆虫好きだった私には非常に興味深い一編であった。あいにく、大人になるにつれ本物の昆虫が苦手になってしまった私だが、お話のなかで描かれる昆虫たちの造形や生態には今でも関心と愛着をおぼえる。


 コンチュー丹を飲めば昆虫の驚異的な能力を身につけることができるわけだが、飲んですぐに効き目があらわれるわけではない。卵から幼虫、さなぎという段階を経て成虫に至る昆虫と同じように、コンチュー丹を飲んだ人もそれなりの過程を経なければならないのだ。そんなアイデアが、私には本作一番の魅力である。のび太が木の葉に食欲を感じたり、カイコのように口から糸を吐いて繭を作ったり、というシーンが大好きなのだ。




わさドラ感想】
 毎度のことだが、中村英一さんが作画監督を担当する回は、ドラえもんのキャラデザインが大山ドラ時代に戻りがちだ。そんななか、のび太がコンチュー丹を捨てたときドラえもんが下唇をとがらせた表情は、原作初期のテイストを感じさせた。


 原作の冒頭、ドラえもんは何気なくスライムで遊んでいるが、さすがにスライムは現代の子どもに理解されないと判断されたのか、『わさドラ』でスライムを観ることはなかった。残念といえば残念だが、まあ仕方ないだろう。スライムがブームだった当時、私もよく遊んだものだ。


 原作ののび太はモハメッド・アリを当たり前のように知っていたが、『わさドラ』では全然知らなかった。そのため、ドラえもんが「1970年代に活躍したボクサー」などと説明。


 のび太が〝木の葉〟を食べるくだりは、〝生野菜〟に変えられた。本来人間が食べない葉っぱをのび太がおいしそうに食べるところが虫らしくていいのに、それを生野菜に変えてしまっては…… これを観た子どもが真似をして木の葉を食べるといけないから、という配慮が働いたんだろうなぁ。


 のび太が口から糸を吐き繭を作る場面は、おおむね満足。繭を破ってのび太が飛び出すところは、もう少しとぼけた味わいを出してほしかった、とも思うが、それでもいい具合にばかばかしくて笑えた。


 ラスト、虫捕り網や殺虫剤を怖がるのび太。『わさドラ』ではごきぶりホイホイ(ゴキブリはいはい?)を踏んづけてこける場面が加わってオチに。のび太が怖がるアイテムをひとつ増やした創意に好感がもてた。でも、のび太が白目で気絶する原作のインパクトは失われたかな。白目を敬遠する『わさドラ』らしいオチの追加だ。