映画『のび太の恐竜2006』感想その1(ネタバレあり)

koikesan2006-03-05


(当記事は、映画ドラえもんのび太の恐竜2006』の内容に具体的に触れていますので、まだご覧になっていないかたはご注意ください)



 3月4日から、映画ドラえもんのび太の恐竜2006の全国ロードショーがスタートした。


 映画ドラえもんは、1980年ののび太の恐竜を皮切りに、2004年ののび太のワンニャン時空伝』まで、毎春欠かさず公開されてきたが、残念ながら昨年、アニメドラえもんリニューアルの影響で、史上初めて休止という事態を迎えた。だから今年は、2年ぶりの映画ドラえもん公開ということになり、リニューアルにともなう新声優・新スタッフによる初めての映画ドラえもんということにもなる。毎春恒例だった映画ドラえもんが、今年は異例の状況に取り巻かれつつ公開されたのである。私にとって映画ドラえもんは1年に1度必ず訪れる楽しい祭りのようなものだが、今年は、近年にない特別な期待と不安と興奮を抱きながら公開前の日々をすごすことになった。


 そして、『のび太の恐竜2006』を鑑賞。想像以上に独特の映像世界が繰り広げられていた。過去のどの映画ドラえもんとも、藤子・F先生の原作とも、今放送されているテレビの「わさドラ」とも違う、もうひとつの個性をもったドラえもん世界がそこにあった。本作の宣伝で「うまれたて、映画ドラえもん」とか「誰も見た事がない映画ドラえもん」というキャッチコピーが使われていたが、まさにそのとおり、かつてないような『ドラえもん』作品がいま新たに誕生したのだ、という鮮烈なインパクトに見舞われた。


 一目見て、これまでの『ドラえもん』と違う、と感じるのは、主要人物のキャラクターデザインである。リニューアル前のアニメとも、現在のテレビ版「わさドラ」とも、F先生の原作とも明らかに違う(あえていえば、これまで渡辺歩氏が手がけてきたキャラに近いものを感じる)。そのひょろっとして柔軟そうなスタイルと、大きく表情の変化する顔と、かっちりしないラフな輪郭は、本作だけの独自のイメージを大胆に発散していた。作画監督小西賢一氏が、テレビのインタビューで「今までお約束だったことも気にせずやろう。容赦なくやろう」と発言していたが、その言葉に偽りはなかった。そんな小西氏のキャラ設定と、ドラクラッシャーと呼ばれた渡辺歩監督の演出が合体すれば、極めて個性的な『ドラえもん』が誕生するは必然だろう。
 本作の独自性を象徴する例が、ドラえもん「あたたか〜い目」だ。原作の「あったかーい目……のつもり」とはまるで異なる、目の輪郭を変形させる手法で「あたたか〜い目」を表現している。しかもその「あたたか〜い目」を、物語のところどころで繰り返し見せてギャグ化していた。これが劇場の子どもたちに大ウケだったから、「あたたか〜い目」の反復によるギャグ効果は抜群だ。
 タイムマシンの高速走行で顔面に強い風が当たり、ドラえもんの唇がめくれ上って歯と歯茎が剥き出しになる映像も強烈だった。これも子どもにウケていた。かつて、ドラえもんに歯はあるのかと質問された藤子・F先生は、「歯といえばいいのか、感情表現の手段として歯らしく描いてるのか、そのへん作者もはっきりしないんです」と答えている*1。もとは感情の変化を示す符号的表現だったドラえもんの歯が、今回の映画では生々しく明瞭に〝歯と歯茎〟として描かれたのだ。こういう表現は以前の映画かテレビアニメでもあったと思うが、ともかく、本来は記号的だった表現を、その真逆であるリアルな身体性をもって表現し、それを効果的にクローズアップしてみせたところに、映画スタッフの心意気と才気がうかがえる。
 それから、アンモナイトの下敷きになってジャイアンがペチャンコになるところ。こうした表現を「カートゥーンのように誇張された動き」と指摘する人もいたし、あまりアニメやマンガに詳しくない私の知人も「『トムとジェリー』みたいだ」と感想を述べていた。こうした『トムとジェリー』的アクションも笑いを誘発するのに効果的だろうし、ハイテンポな本作にマッチしたものだろう。
 いま挙げたような各種キャラクター表現が個人的に好きかといえば、私は条件反射のように抵抗を感じてしまうクチだが、1年に1度の映画で行なわれる祝祭的実験だと思えば好意的に見られる。「あたたか〜い目」とか、ジャイアンがペチャンコになる場面では、私も思わず笑ってしまったし。



 キャラクターデザインの独自性に狼狽した面はあるものの、そんなキャラクターだからこその好ましい側面も十分にあった。大小さまざまな動作や感情がこまやかに表現され、全身からぬくもりのある生命感があふれていて、各キャラの息遣いや鼓動が肌に直接触れてくるようだった。彼らの感動や喜びや恐怖や焦りが、生きた感情として、私の胸に飛び込んでくるようでもあった。



 キャラクターに限らず、こまやかで小粋な演出は作品の随所で見られた。
 たとえば、白亜紀北アメリカ大陸から日本へ向かおうというときの、タケコプターで飛び立つのび太の描写。のび太は、スムーズに飛行状態に入ることができず、タケコプターの推進力で砂浜をずるずる引っぱられ、その後も少し苦労しつつ、ようやく空高く上昇することに成功する。その動きは、飛行機やヘリコプターの内側に乗るのではない、生身の体がそのまま風を浴びながら空へ浮かんでいく飛翔感がみなぎっていて、私にも爽快な浮遊感をもたらしてくれた。
 ピー助のたまごを発掘したのび太が、それを腹にしまいこんで帰宅し、その格好のまま恐竜のものまねをするあたりの演出も秀逸。たまごの化石で腹を膨らませたのび太が自宅に帰り着いたさい、玄関先でママが妊婦さんと立ち話をしており、その瞬間のび太と妊婦さんの腹のイメージが重なって印象に刻まれた。その後、ピー助がたまごから生まれるあたりで、先程の妊婦さんが赤ちゃんを抱っこしながらママと立ち話をするカットが入る。この一連のさりげないシーンから、フタバスズキリュウと人間の赤ちゃんの誕生が重なり合うイメージとして浮かび、新たな生命の誕生がダブルで祝福されているように感じられた。
 ピー助とのび太ドラえもんが、畳の上を遊泳するように這いずりまわって戯れるシーンも、その一挙手一投足に楽しさが横溢していた。



 恐竜をはじめ、人間以外の生き物の描写も見事だった。個人的には、人間のキャラクターの動きよりも、非人間のほうにより魅惑されたかもしれない。
 ティラノサウルスやアラモサウルス、スピノサウルスといった巨大恐竜が俊敏に動くさまは圧巻だったし、オルニトミムスが地を駈ける疾走感はスリリングだった。映画『ジュラシック・パーク』を通過した時代だからこその迫真の恐竜描写である。恐竜の出現の仕方や戦い方などからも『ジュラシック・パーク』以降の恐竜映画の影響が見てとれる。ただ、火口湖でアラモサウルスとティラノサウルウスの戦う場面が、なんだか未完成品のように雑っぽかった気がする*2
 巨大恐竜にも増してすばらしかったのがピー助の動きだ。赤ちゃん時代のピー助が這うさまは、たまごから生まれたばかりのウミガメの赤ちゃんが砂浜を這って海へ向かう姿を彷彿とさせ、その愛らしさとリアリティに酔った。ピー助が泳ぐときの巧みなヒレ足の使い方や、長い首のしなやかな動きにも目を引かれた。熱を出したのび太に会いに来たピー助がのび太の部屋に首を入れてくる描写は、ハッと目を見張るものがあった。
 のび太になついてじゃれるピー助の仕種を見るたびに、ピー助の存在が無性にいとおしくなってきて、だからこそピー助とのび太の別れがいっそう切なく感じられたりもした。
 細かいところだが、のび太がピー助に与えようとしたミミズのくねくねした動きも、気持ち悪いくらいにリアル。


 生きているものではないが、のび太がピー助に食べさせた刺身の質感もやわらかそうで新鮮そうでおいしそうだった。ここで思い出したのは、やはり、F先生の娘さんの「映画の中でピー助にのび太がまぐろの刺身をあげるシーンがあります。じつは、あれは、わが家の食卓での父の行動なのです。父を気遣い、母は子どもと違うおかずを出すのですが、やさしい父は必ず私たちに分けてくれるのです」という言葉だった。F先生のやさしいパパぶりがうかがえるエピソードだ。そういえば今回の映画でも、のび太のパパが、布団にこもりきりののび太に共感を示す言葉をかけていた。のび太のパパとF先生のやさしさが重なって見えた。




 細密な背景の美しさには、最初から最後まで目を奪われっぱなし。背景のなかに気の利いた小道具や小ネタが種々に仕込まれていたのも楽しい。そういったネタを見逃すまいとスクリーンを凝視していたが、それでも見落としてしまうネタがいくつもあったような気がする。映画を見る前、知人から、この映画は情報量が豊富で、最低2度は見ないとその演出意図を把握できないと聞かされていたが、まさにそのとおりだった。
 私が最高に心引かれた小道具は、のび太の机のうえに置かれた、たまごがカパッと割れて恐竜が出てくるオモチャである。このオモチャは、藤子・F先生が『のび太の日本誕生』執筆のさい、作品のイメージに通じるものがあるとして机に置いていたものだ。現実にF先生の机の上に置かれていたオモチャを、映画のなかでのび太の机に置いたこの演出から、映画スタッフのF先生へのオマージュが伝わってくる。このオモチャが立てるカタカタという音も、実在感があってよかった。
 しずかちゃんの部屋で真っ先に映されたチンパンジーのぬいぐるみにも目がとまった。F先生が藤子プロのスタッフに向けた「しずちゃんの部屋徹底研究」のなかに、このチンパンジーの絵があって、F先生は「チンパンジーは絶対に必要です」と書きとめている。そんなチンパンジーのぬいぐるみを、しずかちゃんの部屋のシーンに入って最初に大きく映してくれた気配りが嬉しい。
 群集のなかにいるはずの魔美くんと高畑さんは発見できなかった。




 1980年公開のオリジナル映画を踏襲したプロットだったが、オリジナルと大幅に違ったのは、クライマックスの闘技場からラストの別れに至るまでのシークエンスだ。
 森に置いていかれたピー助が、自力で恐竜ハンターの秘密基地へ向かおうとする。そのさいピー助は必死に滝を登ろうとするのだが、落下する水の勢いに押されて滝壷に戻されてしまう。私はこの描写が大いに気に入った。
 闘技場ではティラノサウルスのほかスピノサウルスまで登場して場を盛り上げたし、秘密基地からの躍動感あふれる脱出劇も見応えがあった。ただ、このあたりの展開がちょっとごちゃごちゃして、整理不足な感もあった。
 脱出後ののび太たちは、タイムパトロールに頼らず、自分らの力で、のび太の部屋の机の引き出しの位置まで進んでいく。ついにその位置に到達したときの達成感が気持ちよい。




 ピー助と別れ現代に帰った5人。2階で何をやっていたのかママに尋ねられたのび太は、「うん、ちょっとね…」とだけ答える。この、ごく短い言葉のなかに、のび太ら5人が壮大な冒険のなかで得たすべての感情と記憶が濃縮されているようで、胸にぐっときた。
 


 作品全体を見終えたとき、おもしろい映画を見たという純粋な満足感に包まれた。笑って興奮して感動して泣いて、そしてまた笑って興奮して感動して泣いて、と感情が心地よく起伏し、優れたエンターテインメントにひたったときのカタルシスを味わえた。のび太とピー助の別れのシーンが、前半とラストの2回あるが、どちらでもストレートに感動できた。とくに最後の別れ、のび太の魂を振り絞るような名演には、心を揺さぶられた。
 息つく暇もないほど楽しませてくるジェットコースターのような映画でもあった。本作のカット割りの速さやクライマックス以後の怒涛の展開は、まさにノンストップ・ムービーだ。




 なんだか、書きたいことが次から次へと湧いてくるが、キリがないのでとりあえずここまでにしておこう。

*1:「ザ・テレビジョン」1984年1月27日号

*2:白亜紀に5人が着いてからのいくつかの場面では、恐竜のみならず、ドラえもんのび太、しずかちゃんといったキャラクターの絵についても、デザインの統一感のブレや、作画レベルにムラっけが感じられ、わざとそうしているかと思ってしまうほど。