牛塚不二雄

koikesan2006-05-16

まんが道』立志編を読むと、高校生時代の満賀道雄才野茂が「アサヒグラフ」「キング」といった大人向け雑誌にコママンガを投稿して賞金を稼ぐエピソードが見られる。大人マンガでの賞金稼ぎに夢中になっていた2人は、手塚治虫先生の『月世界紳士』を読んで少年マンガのすばらしさを再認識し、自分らが脇道にそれていたことを反省して本来のまんが道へ戻るのだった。

 満賀と才野は、大人向け雑誌に投稿するさい「足塚シゲミチ」というペンネームを使っている。これはもちろん『まんが道』の中だけの架空の名前で、現実の藤子先生は「手塚不二雄」なるペンネームで「アサヒグラフ」や「キング」に投稿していた。「手塚」という姓は、言うまでもなく、尊敬する手塚治虫からいただいたものだ。
 藤子先生は、昭和27年の途中くらいまで、この「手塚不二雄」というペンネームを使っていたが、「手塚」をそのまま無断借用することに気が引けてきて、「手」より「足」はずっと下に位置するという意味で「足塚不二雄」に改名した。


まんが道』では、「アサヒグラフ」に初めて採用された作品として『遺作』なる4コママンガが紹介されている。ベレー帽の男が彫刻で木の形を彫ったかと思ったら、その木の枝に縄をかけて首吊り自殺をはかるという、ちょっとブラックな作品である。この『遺作』が掲載された「アサヒグラフ」昭和27年4月9日号(定価40円)が手元にあるので当該ページを開いてみると、『遺作』の作者名が「牛塚不二雄」と記されている。
 藤子先生はこの作品に限って「牛塚不二雄」というペンネームを用いた……というわけでは、おそらくないだろう。藤子先生は原稿に「手塚不二雄」と書いて送ったのだと思う。けれども「アサヒグラフ」の記者が「手」を「牛」と読み誤るなどして、結果的に「牛塚不二雄」なるペンネームが出現してしまったのではないだろうか。藤子先生の意図せぬところで、『遺作』が唯一の「牛塚不二雄」名義作品ということになってしまったのだ。

 この「アサヒグラフ」昭和27年4月9日号は、藤子コレクションの一環として所有しているものだが、こうした昔の雑誌は、ページを適当にめくって眺めているだけでもかなり面白い。
 この号のトップ記事は、「軍艦マーチ」「君が代行進曲」「暁に祈る」など軍歌のメロディーだけを吹き込んだレコードが流行していることを伝えるものだ。戦後7年でこうした現象が起こっているというのがじつに興味深い。
 次のページからは、「南米移民の船出」と題して、戦後はじめて南米ボリビアへ移民する一家族を紹介している。記事を読むと、この時代、南米移民はどちらかといえば「朗報」「願望の実現」という見方をされていたような雰囲気だ。しかし、実際に南米に移住した数多くの日本人にとって、はたしてそこは、夢や幸福が待ち受ける場所だったのだろうか……。
 現在の日本は出生率の低下や少子化が問題となっているが、この時代は「一年に百万も増加していく」事態が深刻な人口問題と考えられていたりして、そうしたひとつひとつの記事が、この時代の空気をつぶさに物語っている。広告も現在の感覚で見ると驚くようなものが多く、たとえば松下電器の「ナショナル蛍光灯」の広告では、「照明は蛍光灯時代!」と宣伝されている。蛍光灯が新たな照明装置として普及しはじめた時代だったんだなあ、と思いを馳せたくなる。