藤子不二雄A先生公開講座in大垣

 28日(水)、午後1時20分より、大垣女子短期大学多目的ホールにて、藤子不二雄A先生の公開講座が開催された。
 大垣女子短大は、毎年(原則として6月に)藤子A先生による公開講座を開講。この講座は、同短大マンガコースで学ぶ学生に向けたものだが、一般人も受講できる。今年で11年目になるが、私は2002年から毎年受講しているので、これが5回目の参加となった。


 
 毎年のことだが、公開講座の前の晩は、藤子A先生のお話が聴けると思うとろくに寝付けず、興奮したまま朝を迎えた。午前11時ごろJR大垣駅にて藤子ファン仲間5人と待ち合わせの約束をしていたので、それに間に合うよう自宅を出た。藤子イベントといえばたいてい関東で開催されるため、前の晩から夜行バスで出発することが多いのだが、大垣となれば半分地元みたいなもので、当日の朝、在来線に乗って行けるのだった。近場のイベントは泣けるほどありがたい。



 大垣駅では、愛知のおおはたさん、大阪のKさん、兵庫のKくんの3人と合流できたが、東の方面からやってくる神奈川のKさんと静岡のNさんは少し遅れそうだったため、先に合流した4人でひとまず大垣女子短大へ向かった。短大近くの喫茶店で昼食中、神奈川のKさんと静岡のNさんも無事到着。
 会場の大垣女子短大・多目的ホールに入ると、いちばん前の席に、懐かしの漫劇倶楽部会員のTさんとMさんが座っていたので挨拶をした。講座が終わってから、三重のKさん、岐阜のGさん、それに、岐阜県マンガ文化研究会の会員さんで毎年この場で会う3名とも合流できた。
 会場に入るさい、係の人に番号カードを渡された。公開講座の終わりに抽選会があって、藤子A先生サイン入り『ミス・ドラキュラ』の単行本が10名に当たるということだった。結果を言えば、私は外れ。仲間内での当選者もなかった。
 私は毎年、いちばん前の席に座るのだが、今回は遠慮して2番目の席を選んだ。



 藤子A先生が会場内に入ると、前の晩から続く興奮が最高潮に達した。
 今年の公開講座の演題は「誰も描かない漫画を描こう!」。漫画家で大垣女子短大デザイン美術科教授のしのだひでお先生が注意事項など述べたあと、藤子A先生が壇上に立った。A先生は、ジャケットの襟に手塚先生&鉄腕アトムのバッジをつけていた。通常より前髪が額に垂れ気味な印象だった。



 公開講座は、藤子A先生の気になる発言で幕をあけた。「この公開講座も今年で11年目になります。ぼくも老人になったので、そろそろ今年でおしまいにしようと思います」とおっしゃったのだ。毎年この公開講座を楽しみにしている身としては、あまりにも衝撃的な言葉だった。
 その衝撃も癒えぬまま、藤子A先生の話は進んでいく。講義の導入部は、おおよそ以下のような内容だった。(ここで紹介する藤子A先生の言葉は、すべて私が要約したものです)


・ぼくは半世紀以上も漫画家をやってきた。マンガ家というのはある意味芸能人より厳しい世界で、長く続けていくのは難しい。資格試験があるわけではないので、一度作品が商業誌に載って稿料をもらえばプロと名乗れるが、何の保証もない。栄枯盛衰の世界だ。


・ぼくはたまたま藤本くんと子どものころに出会って何十年も一緒にやってこれた。その後、手塚先生と出会い、トキワ荘の仲間たちと出会った。この3回の出会いが大きかった。




 藤子A先生はそれから、演題の「誰も描かない漫画を描こう!」という言葉に触れた。


・漫画というのはいろいろあって、すべてに目を通すのは不可能。日本の漫画は世界一だと思う。


・誰も読まない漫画を描いてもそれは自己満足にすぎない。読者の喜ぶ漫画を描くことが大事。テレビや映画が大勢のスタッフによって作られるのに対し、漫画は基本的に個人で描くもの。今では、編集者がプロデューサーをやり、脚本を書く人、絵を描く人、と分業制の場合もあるが、ぼくらのころは絵もストーリーも何もかも一人でやった。個人の資質が重要になってくる。


・雑誌に連載をもっていても、人気投票の結果しだいで、不人気の漫画はたとえ手塚治虫であろうと藤子不二雄であろうと石森章太郎であろうと連載が打ち切られる。手塚や藤子や石森は稿料が高いだけ削られやすい(笑)


・読者が喜ぶ漫画をリサーチするといってもなかなかできないので、自分が描きたくて他人が描いたことのない漫画を描くのがいい。ぼくも自分が読みたいけれど他人が描いていない漫画を描いてきた。最初は手塚漫画の真似から入ったが、このままでは手塚先生を抜けないと思い、手塚先生が描かない漫画を描こうと路線変更。手塚先生はストーリー漫画が強かったが、ギャグはほとんど描いてなかったので、ギャグを描こうと考えた。




 藤子A先生はここから、自作を具体例としながら、「自分にしか描けない漫画」というテーマに沿って話を展開した。


・『わが名はXくん』
ギャグ路線でまず初めにうまくいったと思うのが『わが名はXくん』。力が弱く、いじめられっ子の少年が宇宙人からマスクをもらって、不思議な力を出す作品だ。この路線はいけると思って、その後描いたのが『忍者ハットリくん』。


・『忍者ハットリくん
月刊「少年」から連載を依頼され、まずタイトルから決めた。『わが名はXくん』の路線で忍者を主人公にしようと思った。大映の映画で忍者ものがはやっていて、これをギャグ化してみようと考えたのだ。忍者は自分の感情を表に出さないのでハットリくんを無表情にしたが、少年忍者なのでかわいさや親近感も入れた。黒目が真ん中にあってそれが上下左右へ移動しない、という具合に目に特徴をつけた。への字の口にしたが、これだけでは無愛想なので、頬に渦巻きを入れて愛嬌を出した。ぼくは、こういうことを理論で考えているわけではない。


・『オバケのQ太郎
藤本くんとの合作。連載第1回は毛が10本くらい生えていたが、だんだん毛が抜けていって、半年後には3本になった。1本でも2本でもなく、この3本というのがオバQのキャラクターにいちばん合っていた。3本にしたのは、計算ではなく、藤本くんと話し合ったのでもなく、勝手にそうなった。キャラが自ら生きてきたのだ。


・『魔太郎がくる!!
当時としては変わった漫画だった。ぼくは子ども時代チビだった。ぼくが生まれた氷見は漁師の町で、周りはたくましい子どもたちばかり。寺のぼっちゃんだったぼくは、力がなく、赤面恐怖症で、いじめられっ子だった。いじめられっ子はたくさんいるので、そんな子どもたちの共感を得られると思い、いじめられっ子を主人公にした。でも主人公がいじめられてばかりではカタルシスがない。そこで、主人公がすごい仕返しをする話にした。これが痛快で、たいへんな人気を得た。キャラクターデザインにもこだわった。めがねをかけた主人公というのも当時としては珍しかったが、そのめがねの上側に目をへばりつかせたので、嫌な目になった。バラ柄のTシャツに黒マントというコスチュームも妙にミスマッチでよかった。


・『プロゴルファー猿
ゴルフの漫画を描くと言ったら、編集者は大反対。今まで自分の案がこうやって反対されたことはなかった。でも、どうしてもゴルフ漫画を描きたかったので、プラスアルファを考えることに。当時は少子化の始まりで両親が働きに出て団地で一人ぼっちという子どもが増えていた。そんな子どもたちがお金を使わないで貯めることに関心をもちはじめた。そうした時代背景と、スティーブ・マックイーン主演の『拳銃無宿』からヒントを得、ゴルフで賞金稼ぎする少年の話を考案。編集者も乗ってきた。これが日本で初めてのゴルフ漫画となった。今ではゴルフ漫画は当たり前だが、ぼくがゴルフ漫画の草分けだった。ここだけで自慢してもしょうがないんだけど(笑)


・『愛ぬすびと』
「女性セブン」から依頼されて連載。それまで同誌は、園山俊二が描くようなギャグマンガしか載っておらず、この作品が同誌で初めてのストーリーマンガとなった。当時は結婚詐欺が社会問題化していて、それに関する情報がいっぱいあった。それを元に、妻の病気の治療費を結婚詐欺で稼ぐ男の話を考えた。「女性セブン」には芸能人のスキャンダル記事などが載っていたが、そんな記事を抜いてこの作品が人気トップとなった。人気はあったが、ほかにも連載がたくさんあり、絵がリアルでアシスタントが慣れなかったこもあって、連載をやめた。最終回ラストシーンの、優子から誠への手紙の文字は、達筆なお姉さんに書いてもらった。次に「女性セブン」に連載した『愛たずねびと』は、結婚と離婚を繰り返す女の話だが、人気がなかった(笑)


・『ワールド漂流記』
海外旅行での実体験もよく漫画化した。ぼくは、海外へ行くと気が大きくなってよく嘘をつきたくなる。一人でオーストラリアに行ったときのこと。ぼくが昔習っていた英語の先生はオーストラリアの人だったので、オーストラリア訛りの英語が少し喋れる。だから、ゴルフ場で知り合った地元の人がぼくの言葉を聞いて、「英語がうまいね」と言ってきた。それに対しぼくは「そりゃあ、自分はJALの駐在員だからね」と嘘をついた(笑)


・『ミス・ドラキュラ』
虎木さんの正体がミス・ドラキュラということを作者と読者しか知らないというのがミソ。読者の優越感がくすぐられる。



 藤子A先生は、そうやって自作について語っていくなかで、ホワイトボードに、ハットリくんオバQ、魔太郎の絵を描いていった。お馴染みのキャラクターたちが実際に目の前で、藤子A先生の手によって描かれていくのを目撃できたのは、感動的な体験だった。



 今回は、藤子A先生のお話はいつもより幾分短めで、そのあと「ウルトラジャンプ」編集長・伊藤氏から、漫画家を目指す人へのアドバイスがあった。


・作品を描いたら他流試合をすることが大事。学校の先生に付き添ってもらわず、一人で持ち込みをすると勉強になる。投稿やコミケに出してみるのもよい。相性のよい編集者と出会うことも大切。今は昔と違って漫画雑誌が多いので、漫画家も編集者を選べる時代。


・藤子A先生のように多芸多才な方なら大きなテーマの作品を描けるが、若い皆さんはキャラクターを中心とした作品をまずは描いてみるといい。




 講義終了後は、短大から出ていかれる藤子A先生を見送るのが我々の常である。短大の建物から出てきた藤子A先生に駆け寄って「ありがとうございます」と挨拶。私は、A先生がタクシーに乗る寸前、握手をしていただいた。サイン会での握手より若干長めに手を握ってくださり、「ありがとう」と言いながら3回ほど手に力をこめてくださったのが感動だった。



 タクシーに乗った藤子A先生を見送った我々10人ほどは、午後5時から、長谷邦夫先生としのだひでお先生を囲んで飲み会を開くことに。しかし、その時点で3時ごろだったのと、しのだ先生はまだ仕事があったので、まず長谷先生と我々10人ほどで大垣駅前に移動し、喫茶店に入って時間を潰した。
 午後5時から居酒屋に移り、宴会のスタート。しのだ先生は遅れて参加した。また、名古屋のHさんも遅れて参加。



 長谷邦夫先生は、昭和30年代資本劇画作家として活動したのち、フジオ・プロに参加、主に赤塚不二夫先生のブレーンとして長年にわたり活躍した。パロディ漫画の第一人者としても知られている。現在は、いくつかの大学や専門学校で講師を務めている。そのうちの一校として、大垣女子短大で教鞭をとっているのだ。藤子先生とはトキワ荘時代から付き合いで、『まんが道』の登場人物でもある。スタジオ・ゼロ時代は、『オバケのQ太郎』や『レインボー戦隊』の執筆を手伝ったことがあるそうなので、それらの作品のどこかに長谷先生が引いた線も入っていることになる。『オバケのQ太郎』では主に、石森章太郎(のちに石ノ森)先生が担当したパートを手伝ったという。


 しのだひでお先生は、手塚治虫先生の初代アシスタントを務め、その後漫画家として独立。藤子先生とはトキワ荘時代からの付き合いで、昭和30年代後半から長年のあいだ、藤子先生の仕事を数多く手伝っている。藤子・F先生との合作で『ベラボー』を、藤子A先生との合作で『ぼくんちのタコくん』などを執筆。また『ドラえもん』をはじめ両藤子先生の作品を原作とした代筆漫画も多数発表している。私の世代では、「コロコロコミック」に連載された「藤子不二雄のまんが入門」の塾頭の印象が強烈だ。



 宴会では、長谷先生としのだ先生から、先生方が体験した数々のエピソードや裏話を聞かせていただいた。5時間くらい飲んだと思うが、あっという間にすぎてしまった。
 長谷先生からは、現在先生が執筆中の小説の話や、売れる前のタモリビートたけしとのエピソード、赤塚先生のブレーン時代の裏話などをうかがって非常に興味深かった。昨年伊藤剛氏が上梓した漫画評論『テヅカ・イズ・デッド』が提示した概念を長谷先生なりに分かりやすく解説してくださったのも印象的。飲み会の始まる前には、長谷先生の著作『赤塚不二夫天才ニャロメ伝』にサインをしていただいた。



 しのだ先生の話では、なんといっても藤子先生との交遊や藤子作品の創作舞台裏にまつわるものが面白かった。
 しのだ先生が『ベラボー』(「まんが王」1968年7月号〜1969年11月号)を藤子・F先生とキャラクターを分担しながら描いたことは知っていたが、ではそれが具体的にどのような製作工程で描かれたのか質問してみた。まず藤子・F先生が自身の担当する範囲をすべてペン入れまでし、それがしのだ先生のところへまわってくる。そこに今度はしのだ先生が自身の担当分を描き込んでいったのだ。しのだ先生が本作で担当したキャラクターのデザインや名前は、F先生ではなく、しのだ先生が考えたという。


 また、アニメ化もされた『ドラQパーマン』(「コロコロコミック」1979年8月号)の製作工程もうかがってみた。藤子・F先生がまず原稿用紙に鉛筆でネームの状態に近いもの(コマ割り、人物の位置、だいたいの構図)を描いた。それがしのだ先生に渡され、下描きとペン入れを行なったということだ。キャラクターの絵については、F先生の下描きをなぞったのではなく、しのだ先生が下描きから執筆したという。


 あと、藤子・F先生逝去後の大長編ドラえもんを執筆したむぎわらしんたろうさんや岡田康則さんは、藤子・F先生の画風に似せて描いているように見えるが、かつてのしのだ先生や方倉陽二さんなどはご自分の画風でのびのびとドラえもんを描いていたように見えるので、そのあたりのことも尋ねてみた。当時は仕事量があまりに多く、いちいち藤子・F先生の絵柄に似ているか気にかける暇がなかった、そして、あまり絵柄を似せようとすると絵がぎこちなくなって活き活きとしたものがなくなる、との理由から、自己流の絵柄でドラえもんなどを描いていたそうである。


マグリットの石』の陰間鏡二のモデルが、藤子先生のアシスタントだったSさんであるというのは初めて知る事実だった。Sさんは、性格が暗くめがねをかけていて、まさに陰間のような雰囲気。彼の自宅の部屋は、今で言うゴミ屋敷みたいだったそうだ。



 
 宴会終了後、私は名古屋へ戻ったが、関東方面からきたKさんとNさんが、翌朝の始発で帰宅するということで、彼らに付き合って私も一緒に朝まですごすことに。名古屋駅近くのカラオケに午後11時半に入り、翌朝5時まで歌い続けた。私は20曲ばかり歌っただろうか。