「ドラえもんの歌」「ライター芝居」レビュー

 9月8日(金)のアニメ『ドラえもん』で放送された2作品のレビューです。



●「ドラえもんの歌」
【原作】

初出:小学四年生1971年10月号
単行本:藤子不二雄ランド第1巻

 本作は、原作において初めてジャイアンのリサイタルが描かれた記念すべき作品だ。ジャイアンの公害のような歌とその歌に対する過剰な自信は、このときからすでにのび太らを拷問状態に陥れていたのである。ところが本作には、そんなジャイアンを凌駕するほどの音痴っぷりで皆に迷惑をかける存在が登場する。ドラえもんである。
 本作のドラえもんは、ある原因から狂気の沙汰に達し、異常に音痴な自分の歌に芸術性を感じるようになる。そして、その歌を皆に聴かせようと数々の横暴を働き、ジャイアンばりにリサイタルまで開いてしまう。その狂乱と暴走が本作最高の見どころで、ドラえもんの狂気の前では、前半で堂々たる加害者だったジャイアンまでが簡単に被害者に転落する。
 そんな激しい話でありながら、ラストのコマだけは、のび太ドラえもんらが縁側でマツムシの音色を安らかに聴いている、という情感に満ちた内容で、それまでの激しさとの落差が大きい。ドラえもんの暴走によってばらまかれた毒気を解毒する作用がありそうだ。



【アニメ】「実はジャイアンよりひどい!? ドラえもんの歌」


 新生ドラはこれまで、てんとう虫コミックスドラえもん』全45巻の中からのみ作品を選んでアニメ化してきたが、ついにそれ以外のところから作品をもってきた。この作品は、てんコミ未収録で、藤子不二雄ランド第1巻に収録されているのだ。


 ジャイアンの“おんちの怪獣が化けて出たような”歌声と、それよりひどいドラえもんの歌声を、アニメでは本当の音で表現せねばならない。だが、実際に寒気を催し熱を出して寝込む人が出るような音を公共の電波で流すわけにはいかず、どんな方法でジャイアンドラえもんの凄絶な音痴っぷりを表現するかが考えどころになる。
 藤子・F・不二雄先生もこの点は気にかけていたようで、過去にこんな発言を残している。マンガをアニメ化することで効果が出る部分と出ない部分、という話題の中で、効果が出ない部分の事例として語った言葉である。

たとえば、ジャイアンの音痴ですね。彼が唄うと、みんなが吐き気や寒気をおぼえるというんですが、アニメでじっさい声に出して唄うとなると、それだけ他人を恐怖におとしいれる音痴は、まずこの世にいない(笑)。どんなに音痴に唄ってもね。
   (中略)
となると、声の出ないマンガのほうが想像力に訴える分だけ効果がありますね。
(「アニメ―ジュ」1980年9月号)

 で、今回のアニメでジャイアンドラえもんの音痴はどう表現されたか。もちろん歌自体が音痴に歌われたわけだが、それだけだと、ただの音痴というだけで聴く者を悶絶させるレベルには感じられない。そこで、音痴な歌声とともに、そこから発生する狂的な音波が波紋を広げていくさまが描写され、聴覚に訴えるだけでなく視覚的にもジャイアンドラえもんの歌声が尋常でないものだと強調された。そして、マンガと同様、それを聴く者たちの苦痛に歪んだ表情が、彼らの歌声の暴力性を物語った。


 本作では、ジャイアン以上にドラえもんの歌がひどい、ということになっているが、この2人の程度の差もそれなりに表現できていた。ドラえもんが歌うと、窓ガラスが割れ、家具が倒れ、あたかも地震が起きたときのような被害が生じるため、それがジャイアンよりひどい歌声だと視覚的に認識できる。また、直接的に聴覚へ伝わる歌声そのものも、水田わさびさん持ち前の甲高い声質で音痴に歌ったため、ジャイアンの歌声より耳障りに感じられた。


 狂ってしまったドラえもんの目つきや表情や行動は、全体的に原作よりマイルドに処理された。左右の黒目が互い違いになってイっちゃった感あふれる目つきや、「芸術のわからんやつは人間じゃない」とジャイアンをボコボコにする粗暴な行為、「みんな聞きに来るといってた きみは?」とのび太に凄む薄ら怖い表情などがことごとく改変されたのは残念だが、原作初期と現在の「わさドラ」の世界観のズレを埋めつつ、現在のコードに見合ったレベルで精一杯ドラえもんの変な目つきや暴走を描いてくれたとは思う。自主規制の厳しい現状で「ドラえもんの歌」をアニメ化してくれたことは高く評価したい。




●「ライター芝居」
【原作】

初出:小学五年生1975年5月号
単行本:てんとう虫コミックス第8巻など

シナリオライター”というひみつ道具は、見た目には、煙草に火をつけるためのありふれた道具“ライター”と同様である。このシナリオライターの中にシナリオを入れて火を灯すと、シナリオに書いたとおりに人物が動いて演技をする。
 脚本家を意味する“シナリオライター”と、火をつける道具“ライター”を引っかけた単純な言葉遊びが、このひみつ道具のビジュアルや使い道を加味して見ると、とたんに優れた奥深いネーミングに感じられてくる。



 この話を初めて読んだときは、ジャイアンダックスフントのことを“のび犬”と呼んでいて、「のび犬」という呼び方は妙だなあ、と思ったものだが、これがラストへの伏線になっていて、ナンセンスすぎて秀逸な笑いを引き起こすのだから、最後には「のび犬」という語に快哉を叫びたくなるのだった。
 ラストのコマで、のび太が自分の名前をのび犬と書き間違えたことが判明し、しずちゃんのび犬がきょとんとした表情で手をつないで立ち去っていく。その絶妙なトボケ具合が大好きだ。



 のび太が書いた誤字だらけのシナリオに従って演技が進められるさまも非常に笑える。ちょっと点を付け誤ったりするだけで、まったく言葉の意味が違ったり、妙に間抜けな台詞になったりと、そのズレっぷりが最高だ。



【アニメ】「のび太が犬になった? ライター芝居」
 

 原作が異様に面白いので、それをアニメ化した本作も面白いことは面白いのだが、後半、誤字だらけのシナリオで皆が演技する場面がやや説明的で冗長になったため、テンポが悪くなり、笑いを生む力を若干失ったような気がする。そのぶん、のび太の誤字ネタが原作より多くなり、楽しめる面も増えた。


 原作では、ダックスフントのび犬)を見て珍しがったジャイアンが、別種の犬の胴を無理やり伸ばそうとしたが、今回のアニメでは、ダックスフントそのものをいじめ、その長い胴体をもっと伸ばそうとした。このとき、原作でジャイアンが発する「動物実験」という台詞は、さすがにカットされた。





※情報
小学生ママの子育て応援マガジン「edu[エデュー]」10月号小学館)の「eduママの本棚 著者に聞く!」のページに藤子不二雄A先生が登場している。2ページの短いインタビュー記事だ。
『忍者ハットリくん』『怪物くん』が誕生したきっかけや、今の子どもたちに対する思いなどが語られている。