本の床積みと草森紳一が論じた藤子マンガ

 私の友人知人には本の好きな人が多く、蔵書の置き場所に困っているという話をよく耳にする。私は、自分の蔵書の大半を実家に置いているのだが、いま居住しているコーポにも相当数の本がたまり、床積みせざるをえない状況になっている。
 そんな本の山のなかで最も高みに達している箇所をちらりと撮影してみた。

 藤子マンガなど特に大切な本はちゃんと書棚に並べてあるのだが、未整理のものや最近読んだもの、近ごろ買ったものなど書棚に納まりきらない本は、このようなありさまである。ここまで来ると、どこまで高く積めるか挑戦したくなるほどだ。
 ところが、この写真を本好きの友人知人に見せると、「これはまだ綺麗なほう」「まだまだ大した規模ではない」といったニュアンスの反応が複数あって、私は「な〜んだ、まだ大丈夫なのか」と安堵した。本に愛着のない人が見れば、私のような床積みのレベルでも異様なゴミの山にしか見えないだろうが、長年にわたり床積みを続けその規模を拡大してきた本好きの人にかかれば、まだまだかわいいものなのだ。
 盛大に床積みを展開している人たちだって、本を保管するスペースさえ確保できれば整然と体系的に本を並べたいのだろうけれど、住宅事情などから床積みするしかないのが実状だ。作家さんとかコレクターの方だとかが、これは図書館じゃないかしらと見紛うような個人書庫を披露しているのを雑誌やネットで見かけるが、ああいう環境がとてつもなく羨ましい。



 こうして本の床積みについて語っていると、草森紳一さんの『随筆 本が崩れる』(文春新書・2005年)を思い出す。物書きである草森さんの本の床積みは桁違いのスケールで、本の山が崩壊して浴室に閉じ込められてしまったことすらあるという。「本は、なぜ増えるのか。買うからである。処分しないからである。したがって、置き場所がなくなる」という草森さんの率直な記述に共感をおぼえる。
 昭和13年生まれの草森さんは、“物書き”を名乗ってこれまで多種多彩な分野で執筆活動を続けてきた。その関心の対象のひとつに“マンガ”があって、藤子マンガについて論じたことも幾度かある。
 今日は、草森さんが“藤子不二雄”について書いた文章のうちから、2点を紹介したい。



 1点めは、立風漫画文庫『黒ィせぇるすまん』(立風書房・昭和54年1月発行)の巻末に掲載された「ドーン 図星でしょう」だ。私はこの文庫サイズの単行本で『黒ィせぇるすまん』(のちに『笑ゥせぇるすまん』に改題)を初めて読んだ。まだ小学校高学年か中学生くらいだった私は、この作品に鋭い衝撃をおぼえ慄然とした。大人の世界を垣間見たような“ちょっといけない”感覚と、精神に作用するクスリを飲んだような背徳的な高揚感が脳裏にもたらされたのだ。そしてその感覚こそが、小学校を卒業する頃合から緩やかに藤子マンガから離れていきつつあった私の心を、小学生時代よりもさらに強力に藤子マンガへ惹き寄せる要因になったのだった。(惹き寄せられた要因は他にもあるが)
 草森さんは、「ドーン 図星でしょう」のなかで、喪黒福造の決めのポーズとも言える「ドーン」について分析している。そこで草森さんは、喪黒が「ドーン」を繰り出す時機について、こう書いている。

 喪黒氏が、十八番の「ドーン」を発する時は、どういう時かといえば、気の弱い主人公たちの潜在的欲望を見抜いて、図星でしょうと太い人差し指を彼等につきつける時である。

「ドーン」は、図星でしょうと相手を驚かすばかりでなく、気合いをいれる道具でもあるわけだ。このほうが重要である。そうしたいと思うだけでなく、実際に実行するための度胸と勇気をあたえる気合いの声でもあるからだ。

 そうだなあ、と私も思う。喪黒福造は、潜在的な欲望や抑圧された不満を不安定な状態で内在させている人物を直観的に嗅ぎつけて声をかけ、それを客にする。その客とコミュニケーションをはかり客の言動を観察することで客の内面に潜んだ欲望や不満を読みとり、巧妙な話術や誘導術でその欲望・不満を露顕させていく。そうして、時機を見て「ドーン」と指を突きつけ、その欲望・不満を(主に破滅的な方向で)発動させるのだ。
 草森さんは、喪黒が指を突き出す行為から「指弾」という語を思い浮かべている。なるほど、「指弾」とは言い得て妙だ。喪黒の「ドーン」は、図星を指し、欲望を後押しするための「指弾」なのだ。それは気合い術や催眠術、暗示法のようなものだと思うけれど、それよりもっと超常的な方向、すなわち超能力とか魔術と呼ばれる領域に入り込んでいるのかもしれない。
 ちなみに、この「ドーン」には特定のモデルがあって、藤子A先生の学生時代からのご友人が麻雀の最中に出したポーズが元になっている。



 2点めの文章は、雑誌「COM」1967年7月号に掲載された「まんが家論5 藤子不二雄の巻 精神科医のギャグ」である。この評論文のなかで草森さんは、『オバケのQ太郎』『パーマン』『忍者ハットリくん』『怪物くん』など藤子先生のギャグマンガを論じつつ、藤子不二雄という漫画家についてこう書いている。(当時は、当然ながら藤子不二雄を二人で一人の漫画家として扱っている)

 藤子不二雄の主人公たちは、手の届かない英雄的なアイドルではなく、たよりになる友だちなのである。彼のまんがは、弱い少年たちの心の奥ふかいところまでおりていって、そのコンプレックスをとりのぞいてやろうという、やさしい精神科医の目をもっている。

 この草森さんの解釈は、私にとってかなり共感できるものだ。私も、いわゆる思春期には、幾多のコンプレックスや得体の知れぬ不安、神経症的な観念にさいなまれ、自分のダメさ、自分の弱さに日夜苦しんでいた。その苦しみを最も支えてくれたのが藤子マンガだったのだ。まさに私にとって藤子先生は、やさしい(ときにはシビアな)精神科医であり、藤子先生が生み出した数々の作品やキャラクターたちは、やさしい精神科医が処方した美味しい精神安定剤のようなものだった。精神安定剤であるとともに、良質のカウンセリングでもあった。
 もちろん藤子マンガはエンターテインメントとして世に提供されたものである。日々の生活のなかで訪れる余暇を藤子マンガによって楽しめればそれで事足りるわけだ。しかし私は、藤子マンガをエンターテインメントとして享受しつつも、自分が死なずに生きていくために切実に必要なものとして受けとめていたのである。


 また、草森さんはこうも書いている。

 特殊能力をもった主人公は、つねにドメスチック(家庭的)である。その特殊能力も、それによってかなえられる夢の現実化も、つねにドメスチックである。ドメスチックの圏内から脱出しても、つねにドメスチックのもとへ回帰する。

 この考察は、この文章が発表された2年以上のちに連載のはじまる『ドラえもん』をも包括して当てはめることができるものだろう。私は、藤子・F・不二雄先生のこんな言葉を思い出す。

ドラえもん」シリーズには、ひとつの大原則があります。それは、ドラえもんのポケットからどんなすごいひみつ道具が出て、どんなすごい事件が起きても、身の回りの世界にはほとんど影響を残さないということです。なるべくママや近所の人にも気づかれず、一話10ページほどの範囲のうちで解決しなければなりません
 この原則には、映画原作の長編ドラえもんにもあてはまります。(略)
 なぜ、こんなきゅうくつな原則を決めたかといえば、「ドラえもんの世界」の〝日常性〟をだいじにしたかったからです。読者のみなさんの身近にありそうな、そんなありふれた世界にドラえもんのトッピな道具を登場させたいからです。
てんとう虫コミックスアニメ版『映画ドラえもん のび太と鉄人兵団』(小学館・1991年)]

 どんなに超常的な力を備えた異分子が日常に闖入してきても、どれだけ異常な出来事が起きても、どれほど不思議な能力が獲得されたとしても、藤子マンガがドメスティックな圏内(家庭や友だちづきあいの範囲内、横丁的な生活の場から完全にはみ出さない空間内)になるべくおさまろうとするのは、“日常性を大事にしたい”という藤子先生の思いが、『オバケのQ太郎』の時代からずっと息づいていたからだろう。私は、藤子マンガのそのドメスティックさに、ほどよいリアリティをおぼえ、微温的な親近感を抱き、時おりそれがあたかも自分の日常であるかのように適度に錯覚しながら、長年のあいだ藤子マンガを愛好してきた。藤子マンガがいつもここにいて、いつまでも自然につきあってくれる友達や家族のように感じられる要因のひとつは、この“ドメスティックな圏内にとどまろう”という意思が、穏やかに、それでいて頑固に守られているからだろう。