『ジャングル黒べえ』は文明批評アニメ?

のび太の魔界大冒険』は「魔法」を主な題材とした作品である。数ある藤子・F作品のなかで主人公が「魔法」を使うものというと、私は『ジャングル黒べえ』を真っ先に思い浮かべる。
 魔美の超能力もチンプイの科法も魔法みたいな能力といえば魔法みたいな能力だし、ドラえもんひみつ道具パーマンパーマンセットも魔法の道具といえばそのとおりだが、これらの能力には科学的な味付けがほどこされており、神秘的な魔術のイメージとは異なっている。そのうえ『ジャングル黒べえ』の場合、その不思議な能力が作中でそのまんま「魔法」という語で呼ばれているので、藤子・F作品で魔法を使う主人公といえばまずは『ジャングル黒べえ』なのであるw
 魔法といえば呪文がつきものだ。『魔界大冒険』における呪文は「チンカラホイ」とかわいらしい印象だが、ジャングル黒べえは「ウラウラベッカンコ!」とずいぶん賑やかに呪文を唱える。この賑やかさのイメージは、マンガではなくアニメから来ている。黒べえ役の肝付兼太さんの演技が、生き生きと弾けていて素晴らしかった。
 黒べえの場合、魔法を使えるといっても、魔法が成功する確率が低いうえ、彼が日本の常識を理解していないため、周囲の人々を騒動に巻き込んで迷惑をかけてしまうことになりがちだ。



 私が幼年期から小学校低学年の頃に観た藤子アニメとえいば、この『ジャングル黒べえ』と『新オバケのQ太郎』のみで、しかも『ジャングル黒べえ』は繰り返し繰り返し再放映されたので、藤子アニメのなかでも特に付き合いの長さを実感している。(『ジャングル黒べえ』とほぼ同時期に放映されていた日テレ版『ドラえもん』は、当時観た記憶がない)
 そんな思い入れの深い『ジャングル黒べえ』なのに、1988年から活動を開始した「黒人差別をなくす会」による抗議運動に巻きこまれ、1989年夏、藤子不二雄ランド版の単行本をはじめ『ジャングル黒べえ』が少しでも掲載された本がすべて販売中止にされてしまった。それ以後、マンガはずっと絶版のままだし、アニメもまったく再放送されずソフト化もないという状態が続いている。幼い頃から親しんできた愛すべき黒べえが、こんな悲劇的かつ厄介な事態に見舞われるなんて、まことに切ないものだ。



ジャングル黒べえ』はアニメ先行企画で、東京ムービーから藤子先生のところへ企画が持ち込まれた。この企画の原型をあの宮崎駿監督が考案したという話は、ファンのあいだでよく知られているだろう。アニメの放送は1973年3月2日から始まり、藤子・F先生の手によるマンガも小学館学年誌・幼年誌の同年3月号からスタートした。
ジャングル黒べえ』のアニメがスタートするにあたり、当時のテレビ情報誌「テレビ・メイト」1973年3月号が「文明人をあざ笑うアフリカの怪男児」との見出しで『ジャングル黒べえ』をこのように紹介している。

大げさにいえば「文明とは何なのだ」ということを考えさせられるギャグマンガが、三月からスタートします。アフリカの奥地から、いきなり文明国日本へやってきた少年が主人公の『ジャングル黒べえ』がそれです。
私たち文明人は、ジャングル、アフリカという言葉からは「未開の国」「後進国」という言葉を連想します。でもよしんば未開の国だとしても、現代の日本列島よりまだマシなのではないでしょうか。少なくとも「改造」を声高に叫ぶ必要がないだけ、まともなのではないか…とも思えます。
まともであるか、まともでないかは価値観の相違といってしまえばそれまでですが、このマンガはそんな問題を見る者に投げかけてくるような気がしてならないのです。

ジャングル黒べえ』が放映されていた当時の日本は、公害や交通戦争などが大きな社会問題となっていて、日本人は自分らの文明に懐疑的になりつつあった。そのため、南国の豊かな自然のなかで生活する人々へ憧れが強まり、そういう未開の地域に理想郷を見出す風潮が広がっていた。この記事にもそんな風潮が反映していて、日本の文明を否定的にとらえつつ黒べえの文明を賛美しようとする傾向が見てとれる。
 現在を生きる私の目から見ると、『ジャングル黒べえ』という作品は、日本人と黒べえの文明のどちらが上か下かという判断を下すものではなく、日本人の平均的な生活空間にアフリカのピリミー国で生まれ育った黒べえを闖入させることで、二つの異なった常識や文化が擦れ違ったり衝突したり混ざり合ったりする面白さを描いたものだと思うのだ。日本の文明のみを一方的に批判するのでもなく、黒べえの文明を高みから見下げて笑うのでもなく、どちらの文明も作中で対等なのである。



ジャングル黒べえ』は、異なった常識・別個の文化を出会わせることで、通常は一つの文明のなかで自明のこととして君臨している常識や文化の在り方を相対化してみせ、その有様を楽しい笑いへ昇華している。その意味で本作は、文明批評的な作品であるとは思うが、特定の文明を批判したり蔑視したりするものではないのである。



 黒べえという異分子の存在が日本に置かれることで、日本の常識や文化を外部から観察する視点を獲得することになるから、「日本の常識のほうが変な面もあるんじゃないか」と気付かされることはあるだろうし、逆に「黒べえの常識が滑稽に見える」こともあるだろう。それは、どちらの文明が優れているかという価値判断の問題ではなく、視点の置き所によって常識が非常識になったり正常が異常になったりするのだという、ものの見方の問題ではないか。
 ただ、『ジャングル黒べえ』は、日本を舞台とし日本人が創作し日本人が楽しむ作品なので、当時の日本人の文明観やアフリカへのステロタイプ化したイメージが多かれ少なかれ反映しているし、二つの文明の価値を対等に描いているとはいえ、どちらかといえば日本人の常識のほうが主体となり、黒べえの常識が客体となる傾向は見られるかもしれない。日本人にとってみれば、当然ながら日本の常識が内部であり黒べえの常識が外部であって、内部の描写が具体的・個別的になり外部の描写が類型的・固定観念的になりがちなのはやむえないものがある。そういった差異を「差別」とあげつらって作品そのものを闇に葬り去ろうとする行為は、行き過ぎな表現狩りだと思うのだ。



ジャングル黒べえ』を読んだ被差別者の方々が「黒人を差別している」と感じるのであれば、その意見には真摯に耳を傾けるべきだろうし、そういう感じ方もあるのだということに自覚的であるべきだろう。しかしそれにしても『ジャングル黒べえ』を素直に読んでみて、そこから黒人を差別する意図を読みとるのはあまりにも困難である。この作品が世間から封印されてしまうほど悪質なものとは到底思えない。この作品の名誉回復と、黒べえを愛してきたファンの矜持のためにも、単行本の復刊なりアニメのソフト化なりが近い未来に実現してほしい、と願うばかりだ。



 最後に、『ジャングル黒べえ』をとりあげた記念に、私が持っているジャングル黒べえグッズを紹介したい。

写真1:レコード
ジャングル黒べえ』のOP・EDがB面に収録されている。A面は『仮面ライダーV3』の主題歌。当時放送されていた二つの子ども番組を合体させたレコードである。日本コロムビア製。

写真2:お年玉袋
こんな袋でお年玉をあげられたら楽しいだろうが、下手をすると今この袋はお年玉の中身並みにプレミアが付いていそうだw 黒べえの背後に描かれているのはベッカンコの神様。

写真3:シール
ジャングル黒べえ』の登場人物のシール。黒べえ、しし男、赤べえ、パオパオがいるのは順当だが、タイガー、オカラ、たかねちゃんを差し置いて苅部が選ばれているのはちょっと腑に落ちないw パオパオは、のちに『のび太の宇宙開拓史』にも登場した。