些細な藤子ネタの話

 当ブログでは、これまで何度か他作家の作品に見られる藤子ネタをとりあげてきた。今日は、わざわざとりあげるまでもないほど些細な事柄でありながら、なぜか私の心に弱からぬ印象を残した藤子ネタについて書きたい。

 森見登美彦の『夜は短し歩けよ乙女』(角川書店/2006年)という小説が、本屋大賞で2位に選ばれた。その森見登美彦のデビュー作は『太陽の塔』(新潮社/2003年/第15回日本ファンタジーノベル大賞受賞作)である。『太陽の塔』は、『夜は短し歩けよ乙女』の原型的な作品と言えそうで、どちらの作品も、舞台は京都、主人公は京大生男子、その主人公が憧れの女子をつけまわす話なのだ。
太陽の塔』の主人公の行為は「ストーカー」と言ってしまえば全くそのとおりだが、彼自身はこの行為を「研究」と呼んでいて、「昨今よく話題になるストーカー犯罪とは根本的に異なるもの」と説明している。「彼女の謎に興味を持つことは知的人間として当然のことだ」というのである。彼の研究資料のなかには、彼女の平均的な一日の行動を曜日別に記録した紙があって、これを参照して推理を働かせれば、彼女のおおよその現在位置が特定できるのだそうだ。その情熱たるや、半端ではない(笑)


 最近この小説を再読していたら、『ドラえもん』の一場面とイメージのダブる箇所があった。
太陽の塔』の主人公には「高藪」という名の友人がいる。高藪は超ド級のオタクで、主人公とは“モテない・イケてない”仲間同士である。あるとき、そんな高藪から主人公に電話がかかってきた。なんと、高藪に惚れ込んだ女性が現れたというのだ。あまりに信じられない出来事に高藪は怯えきってしまっている様子。「だって、俺によぅ、女なんて、俺が好きなんて、自然の理に反しているよう」と泣き言を繰り出す高藪に対し、主人公は「馬鹿。蓼喰う虫も好きずきって言うだろ。どーんと行ってやれ。どーんと」と叱咤する。
 すると高藪は「ダメだ。三次元だぜ。立体的すぎる。生きてる。しかも動いてる」と弱気の反応を返すのだった。
 この高藪のセリフ「生きてる。しかも動いてる」を読んだとき、私は『ドラえもん』の「おばあちゃんのおもいで」のなかでのび太が言ったあのセリフを思い出した。タイムマシンで昔へ戻ったのび太が、存命中のおばあちゃんを目の当たりにして感激のあまり発した言葉「生きてる。歩いてる!」が私の頭に浮かび上がったのである。
 相手が「生きてる」ことに対し、『太陽の塔』の高藪は恐怖を示し、のび太は感動を表したというところに面白いコントラストを感じる。


 この小説、タイトルが『太陽の塔』というだけに、やはり太陽の塔が登場する。主人公がデートで万博公園へ行くのだが、そのさい彼女が初めて見る太陽の塔に深く感動し、「宇宙遺産に指定すべき」とまで言い出すのである。
 私も、今年1月大阪へ遊びに行ったとき、モノレールから太陽の塔の威容を眺望して少なからぬ感動をおぼえた。1970年に開催された大阪万博にも行っているので、そのとき、まだ新しかった太陽の塔を見ているはずだが、当時2歳だった私の記憶には、太陽の塔どころか、大阪万博に行った記憶すら残っていない。万博会場で両親が撮ってくれた写真が何枚もアルバムに貼ってあるので、「ああ、自分は万博へ行ったんだなあ」と認識できるのみだ。

 太陽の塔が登場するマンガ作品というと、浦沢直樹の『20世紀少年』が今パッと思い出される。この作品でも“ハットリくん”をはじめ藤子ネタがいくつか見受けられるが、今回は、太陽の塔も藤子ネタも出てくるマンガとして、少し前に読んだ“あびゅうきょ”という漫画家の『あびゅうきょ作品集3 絶望期の終り』(2005年/幻冬舎コミックス)を紹介したい。
 この作品集に収録された短編マンガ『未来世紀 絶望』は、愛知万博の会場跡地で開催中という「死・絶望博」が舞台になっている。その会場になぜか太陽の塔が建っているのだ。「死・絶望博」は、その名称のとおりまさに絶望的な博覧会で、テーマは「人類の死と滅亡」、マスコットキャラは「骨壷くんと骸骨くん」、メインパビリオンは「火葬の国」といった具合である。メインパビリオン「火葬の国」は、1日に5000人を処理できる夢の火葬場だそうだ。


あびゅうきょ作品集3 絶望期の終り』には、『未来世紀 絶望』と同系列のシリーズ作がいくつか収録されていて、それらの作品のタイトルは、『絶望の陽のもとに』『絶望の長い午後』『月は無慈悲な絶望の女王』といったふうに、既存の有名なSF作品のタイトルに「絶望」の語をはめこんだものが多い。「絶望」が全体を覆うテーマになっているのだ。
 主人公は、絶望妄想にとらわれ、「流しの三角コーナーに捨てられたトマトのヘタ」と仇名される影男。彼が毎回違う場所を訪れ、そこで出会った美少女に説教されたり罵倒されたり突き放されたり現実を突きつけられたりするのである。ただでさえ自分が絶望的と思っている影男が、愛くるしいルックスの美少女たちの手厳しい言動によってさらなる絶望に追い込まれるわけだ。そんな状況でありながら、影男は美少女に厳しくされることを積極的に受容しているようにも見え、彼の飄然としたたたずまいもあって、いくら絶望するといっても、まるで救いようのない陰惨でガチガチの絶望感にまでは到達しない。絶望が絶望のまま宙吊りにされて次回へ持ち越されるような感覚なのだ。


 登場する美少女が各コマごとにいろんなポーズをとっていて、そのコマの一つ一つがグラビアとかポスターみたいな一枚絵の構図になっているのも、これらの作品の特徴だろう。コマから次のコマへとなめらかに読み進めていける映画的な連続性よりも、一つ一つのコマに読者の視線を留め置くような一枚絵としての完成度を求めた印象である。


 と、ここまで紹介したところでようやく藤子ネタの話に入る。この作品集の冒頭に収録された『絶望の陽のもとに』という短編に、おジャ魔女郎がくる!』食玩が登場するのだ。この食玩の箱を見ると、どうやらフィギュアは全13種あって、「魔女郎ちゃんの復讐シーンを再現!」しているようだ。
おジャ魔女郎がくる!』とは、言うまでもなく『おジャ魔女どれみ』と『魔太郎がくる!!』を合体させたものであり、『おジャ魔女郎がくる!』のうちの『魔太郎がくる!!』の部分が藤子ネタといえるのである。魔女郎ちゃんというキャラは、顔が魔太郎でコスチュームがおジャ魔女どれみ、といった風情だ。

 あと、この作品集の表題にもなっている短編『絶望期の終り』からも藤子作品が連想される。『絶望期の終り』というタイトルは、SF作家アーサー・C・クラークの『幼年期の終り』を元ネタとしているが、藤子F先生の短編『老年期の終り』のタイトルもまた『幼年期の終り』を元ネタとしているのだ。