東京から藤子ファン仲間Mさんがやってきた

 東京在住の藤子ファン仲間Mさんから、名古屋に行く用事があるので一緒に飲みましょう、と連絡が入ったので、23日、名古屋駅前で落ち合って居酒屋へ行った。
 Mさんは、活動を開始して20年以上がすぎた藤子不二雄ファンサークル「ネオ・ユートピア」の創設当時からのスタッフだ。近年では、藤子不二雄A先生漫画家生活50周年記念本『藤子不二雄A ALL WORKS』の編集長として活躍した人物である。


 私がMさんとリアルに会ったのは大人になってからなのだが、すでに高校生のころ(23年ほど前)から互いに名前を知り合っていた関係なのである。私はかつて、藤子不二雄公認ファンクラブ「ユートピア」(現在活動中の「ネオ・ユートピア」とは別組織)の会員だった。現在のようにネット上で同好の士を見つけやすい時代と違って、当時の藤子ファンの大多数は全国各地で孤独に藤子ファンをやっているしかなかった。そんな、全国でバラバラに暮らす藤子ファンの大きな拠りどころが「ユートピア」だったのだ。
 ところが、私が中学3年生のとき「ユートピア」は解散。全国の藤子ファンは急に拠りどころを失うかたちになった。私が感じた喪失感も非常に大きかった。
ユートピア」解散後、その夢よもう一度という志をもった人物や、「ユートピア」不在の穴をわずかでも埋めたいと願う人物たちの手によって、コピー誌による少人数の藤子ファンクラブが複数発足し、それぞれに関係を持ちながら熱心に活動を展開するようになった。年代でいうと、1983年から86年くらいまでのことだ。「ファンクラブ」を名乗る会ばかりではなく、「愛好会」だったり「研究会」だったりするところもあった。私はそうした小規模藤子ファンクラブのいくつかに入会して活発に投書を続け、その過程で今回名古屋にみえたMさんとも互いに名前を知り合っていったのである。
 その後1986年に藤子不二雄ファンサークル「ネオ・ユートピア」が活動を開始することで、このような小規模ファンクラブの複数並立状態が終焉を迎えていくのだった。


 とまあ、そのようにして知り合ったMさんと名古屋駅前のナナちゃん人形で落ち合って居酒屋へ入り、藤子談義で大いに盛り上がった。我々が知り合った当時の藤子ファンダムの思い出や、藤子作品をめぐる現状、「ネオ・ユートピア」結成時の経緯など、午後4時半から11時まで6時間半のあいだ、同じ居酒屋でぶっ通しで喋った。Mさんは、まだまだ話し足りないなあ、と言いながら、11時半発の夜行バスで東京へ向かった。
 Mさんは、名古屋に用事があると言っていたが、私に会えないのなら、その用事のためだけに名古屋へ来ることはなかったかもしれないとのこと。わざわざ東京から日帰りで私に会いに来てくださって、ありがたい限りである。


 そういえば2〜3日前に、Mさんと私が知り合ったのと同じような経緯で20年以上前に知り合った藤子ファン仲間のEさんからメールが届いた。Eさんは現在、香港の邦字紙「香港ポスト」の編集主幹をしている。そのEさんが、経済雑誌週刊ダイヤモンド」に少しだけ登場しているというのだ。香港経済の最新事情に詳しい人物として起用されたようだ。Eさんはこれまで、こうした経済雑誌に何度か記事を書いているが、今回は本人の写真まで載っていた。もちろん藤子不二雄とは何の関係もない記事だが迷わず購入し、居酒屋でMさんとその記事を見て盛り上がった。