氷見旅行記その5(藤子A×氷見市長対談)

 14日(日)午前11時から、氷見市の「いきいき元気館」大ホールで、藤子不二雄A先生と堂故氷見市長の対談イベント『これからの氷見の未来について』が催された。氷見青年会議所35周年を記念するイベントのようで、対談のコーディネーター(司会)は、氷見青年会議所理事長がつとめた。テーマ設定も司会進行も実に生真面目で、通常の藤子A先生のトークイベントと比べてずいぶん硬い雰囲気だった。私は、藤子A先生の姿がよく見えるよう一番前の席に陣取った。

 

 青年会議所理事長の挨拶があってから、藤子A先生と氷見市長がステージに登場。藤子A先生はジャケットの襟に手塚治虫先生のキャラクターであるヒゲオヤジの、氷見市長はハットリくんのバッジを付けていた。



 対談のなかで藤子A先生が話されたのはこんな内容だ(大意)。
●氷見への思い
 ぼくは氷見の光禅寺で生まれた。小学5年まで氷見ですごして高岡へ引っ越した。今でも時々氷見へ帰るが、生まれ故郷なのでホッとする。


●外から見た氷見
 いまは川崎市に住み、新宿の仕事場へ通っているが、氷見は都会と比べ、人と人との触れ合いがまだいっぱい残っている。光禅寺へ帰るとお寺の檀家さんらが寄ってきてくれて、人間的なつながりを感じホッとする。


●子どものころ夢中になっていたこと
 やっぱり絵を描くことに夢中だった。ぼくは子どものころ背が低くて赤面恐怖症で、じんわりと顔が赤くなるので「電熱器」とからかわれた。だから、お寺に帰ってお布施の紙にチャンバラの絵などを描くのが一番の楽しみだった。


●もし漫画家以外だったらどんな職業に就いていたか
 小学5年生のとき父が亡くならなければ、寺を継いで光禅寺50代めの住職になっていたはず。でも父が亡くなって高岡へ引越すことになった。高岡は氷見と違って大きな町で、転校先のクラスで喋る相手もなく、1人でノートに漫画を描いていた。そうしたら1人の少年が「おまえ、漫画うまいのぉ」と声をかけてきてくれた。それが藤本くん、「ドラえもん」の藤子・F・不二雄だった。この出会いがなかったら、二人とも漫画家になっていなかったんじゃないか。


●長年アイデアを枯渇させずやってこれた秘訣
 漫画家は厳しい世界。デビューしたからといって次の仕事が保証されているわけではない。人気投票の結果が悪ければ、手塚治虫でも藤子不二雄でも石森章太郎でも容赦なく切られる。その意味で歌手よりも競争の激しい世界だ。
 何がウけるだろうかと計算して描いてもウけるものではない。結局は、自分が描きたいもの、自分が面白いと思うもので、誰も描いていない作品を描くしかない。
 マンガとは読者に楽しんでもらうためのもの。自分がウツな気持ちでマンガを描くと、それはすぐ読者に伝わる。だから日々、自分の心を盛り上げる工夫をすることが大事。ぼくは、出勤する前の服装選びを楽しんだり、通勤電車をわざと特急にしてみたりして、仕事場に着く前に気持ちを高めている。


 最後に質疑応答の時間があって、地元のかまぼこ屋さんが、かまぼこのよい販促法を質問。藤子A先生は「忍者ハットリくんをデザインしたかまぼこなんかどうでしょう」と回答。「でも、ハットリくんを食べちゃうってのも問題だなあ(笑)」と自分の回答にツッコミを入れていた。


 対談では情報として初めて聴くような話題はほとんどなかったが、未知の情報を得ることよりも、藤子A先生のナマのお姿や肉声を体感することが私の目的だったので満足だ。



 この対談イベントが終わってから、地元テレビ局の取材を受けたり、藤子A先生と一緒に氷見キトキトまつりに行ったりしたことは以前の記事で書いた。いまだに興奮が持続して、快い発熱がおさまらない。
 http://d.hatena.ne.jp/koikesan/20071017


 (つづく)


●藤子関連情報
週刊少年ジャンプ」48号掲載の『プロジェクトSQ.』最終回は「藤子不二雄A先生編」。73歳の今でもお元気なA先生の様子が、バク宙という過剰描写で表現されている。『プロジェクトSQ.』とは、11月2日創刊の「ジャンプスクエア」ができるまでをレポートしたマンガだ。
 同号には、『ONE PIECE』の尾田栄一郎さんが描いた怪物くん、ハットリくん、喪黒など藤子Aキャラのイラストが載っていて、そちらのほうが見ものかも。