最近読んで面白かったマンガ(非藤子作品)

 最近読んだマンガで面白かったものをメモしておきます。このブログのテーマはあくまでも「藤子不二雄」なのですが、今回とりあげるのは非藤子作品ばかりなので、強引かつ牽強付会に「藤子不二雄」と絡めて記述します。
 最近読んだマンガといっても最近の作品とは限らず、再読のものが多いです。好きな作品は、記憶のなかで内容がおぼろげになった頃合に再読したくなるのです。
【●『作品名』(作者名/連載誌/現在入手しやすいと思われる単行本)】



●『臨死!! 江古田ちゃん』瀧波ユカリ/「月刊アフタヌーン」連載中/アフタヌーンKC現在2巻まで)
 江古田ちゃんは、24歳、独身、独り暮らしのうら若き女性。江古田駅近くに住んでいるから江古田ちゃんと呼ばれている。
 自分の部屋ではいつも全裸ですごす江古田ちゃん。男性からちやほやされる女の子を“猛禽”と名付け、その行動や心理をシニカルに敵意をこめて観察する江古田ちゃん。常にどこか不運で自虐的な空気をまといつつ、ダメだと分かっていながら自分を大事にできない行動へ走ってしまう江古田ちゃん…
 女性の身も蓋もない本音やリアルな行動を描きつつ、その身も蓋もなさや生々しさを絶妙な笑いに昇華する、技の冴えた4コママンガ。笑えて笑えて、でも深くて赤裸々で切ない作品だ。
 女性のリアルな本音や行動をぶっちゃけて描いた本作を「藤子不二雄」と結びつけて考えようとするとき、私はマンガ評論家の故米沢嘉博さんのこんな記述を思い出す。

藤子不二雄は終に「女」を描こうとはしなかったのである。A(藤子不二雄A)のギャンブル物や放浪物などにおいて、女性は対象でしかない。あこがれの女神、姉、ときめきを感じる対象…… 常に女性は自らの中のファンタジーとして描き出される。女たちは通り過ぎていく。(『藤子不二雄論FとAの方程式』2002年/河出書房新社

藤子不二雄は終に「女」を描こうとはしなかった」という断定が本当に正解かどうかはさておき、米沢さんが論じたように、藤子マンガは“女性”を、主体の外部にある“対象”としてとらえ続け、女性性を前面化したり女性の実存に肉迫するようなことはしなかった、といえるだろう。それは単に藤子先生が男性作家だということもあるだろうし、藤子先生の資質とも深い関連があるだろう。
 あと、『臨死!!江古田ちゃん』の単行本第2巻42ページの右側に収録された一編は、『ドラえもん』のひみつ道具や、ドラえもんが机の引出しから出てくる場面や、押入れが寝床になっている設定などが直接的なヒントになっていると思う。



●『るきさん高野文子/1988〜92年「Hanako」連載/ちくま文庫全1巻)
 東京で独り暮らしをする独身女性を描いたマンガといえば、この『るきさん』も面白い。バブル時代の「Hanako」誌に連載され、基本的に1話が2ページ(15コマ)のショートショート作品。
 るきさんはバブルの狂騒に躍らされることなく、マイペースで独り暮らしを楽しんでいる。自分らしく生きねばと肩肘を張る努力家でもなく、浮世離れしすぎた変人でもなく、生活感覚のある地に足のついた女性だ。でも天然さんで少しズレたところがあって、彼女の行動や考え方を見ているとほほえましくてあたたかい気持ちになる。
 るきさんは、えっちゃんという友達とよく一緒にいる。えっちゃんは、おしゃれが好きでファッションに関心があって時流に敏感な女性。その点で、るきさんとは対照的だ。しかし、えっちゃんも実はオクテな人なので、るきさんと波長が合うんだと思う。
 高野文子といえば、『黄色い本 ジャック・チボーという名の友人』も読み返した。『チボー家の人々』という本を読むのに熱中する少女の話。家族や友達との日常を印象的に切り取りながら、読書に熱を上げる少女の様子が生き生きと描写される。説明の少ない作品なので初めて読んだときは内容をよくつかめなくて途惑ったが、何度も読み返すうちに作品が醸す空気がじわじわと心に入ってきて、いとおしい気持ちになった。そういえば、るきさんも読書好きの女性という設定だったなあ。
『黄色い本 ジャック・チボーという名の友人』は、第7回手塚治虫文化賞(2003年)で「マンガ大賞」を受賞しており、同賞の第1回(1997年)は藤子・F・不二雄先生の『ドラえもん』が受賞している。



●『ムーたち榎本俊二/2006〜07年「モーニング」連載/モーニングKC全2巻)
 不条理ギャグマンガの系譜にある。屁理屈や偏った思考や些細なこだわりや常識の裏をかくような物の見方を素材にして、奇妙な面白さを描き出している。1話1話は短いけれど、濃密にネタが詰まった感じ。
 本作の登場人物たちは、物事を執拗に突き詰めようとする。その突き詰め方が、無駄なほど徹底的だったり、重箱の隅をつつくようだったり、屁理屈の繰り返しだったり、勝手な法則性にのっとったりするもので、物事を突き詰めれば突き詰めるほど社会通念から見てバカバカしい位相へズレていく。そのズレ具合の程度や間合いが実に可笑しい。
 この作風が肌に合えば、登場人物たちのトボケ具合や奇妙なリアクションが癖になりそう。こういうマンガ、好きだなあ。
 藤子F先生のマンガが日常の中に非日常を加えることで“すこし・ふしぎ”な世界を描くのに対し、『ムーたち』は日常の中から不思議を抽出あるいは捏造することで不条理な世界を創り出している、と感じる。



●『世界の終わりの魔法使い西島大介/2005年単行本描き下ろし/九龍コミックス)
 魔法使いの少女サン・フェアリー・アンと魔法を使えない少年ムギの、世界に潜む秘密に近づくキュートでかわいげで、でもなかなかハードな物語。
「世界の終わり」とタイトルにあるとおり、世界の創世や人類の滅亡という大きなテーマが描かれているが、絵柄は簡潔でかわいらしく、内容的にもハートフルなところがある。絵の情報量が少なく、話の運び方があっさりした感じなので、そこのところで食い足りなさをおぼえそうになりつつも、その奥に何か深いものが潜んでそうな気配を感じて、その気配に満足感を授けられていく。セリフは、詩的な箴言集みたいに読める。
 この単行本は「せかまほ3部作」の第1部で、現在2部まで単行本が出ている。第2部の『恋におちた悪魔 世界の終わりの魔法使いII』を読むと、第1部で謎だった部分がわかって腑に落ちる。
 魔法が支配する世界の中で科学というものを迷信的・異物的な対象として相対化する視点は、大長編ドラえもんのび太の魔界大冒険』と通じるものを感じさせる。



●『人造人間キカイダー石ノ森章太郎/1972〜74年「週刊少年サンデー」連載/サンデーコミックス全6巻)
 悪の命令に従わぬため良心回路を埋め込まれたキカイダー(人間の姿のときはジロー)を主人公としたヒーロー物。
 良心回路が不完全だったため、キカイダーは悪に操られることもあり、善と悪の狭間で苦悩する。その不完全さは人間の心に近いものであり、キカイダーは人間とロボットの狭間でも葛藤することになる。正義のキカイダーと悪の組織による外在的な戦いを描きつつ、内面的な正義と悪の葛藤をも描写して、善と悪の概念が交錯しながら物語が展開する。衝撃的なラストも含め、ヒーロー活劇でありながら全体的に重い雰囲気をまとっている。
人造人間キカイダー』における“ロボットが善と悪のあいだで葛藤する”“ロボットが人間に好意的な思いを抱くことで苦悩する”といった主題から、私は大長編ドラえもんのび太と鉄人兵団』を想起する。『人造人間キカイダー』のジローと『のび太と鉄人兵団』のリルルが、ロボットと人間の善悪の狭間で葛藤するというところでイメージが重なるのだ。
 キカイダーには“良心回路”埋め込まれ、鉄人兵団の始祖には“競争本能”が植え付けられた。
 石ノ森章太郎先生が藤子先生と同じトキワ荘グループの漫画家であり、生涯の盟友であったことは言うまでもないだろう。