『生物と文学のあいだ』と『おれ、夕子』

 5月2日の日記で書いたように、私は川上未映子さんのファンでして、彼女のインタビューやエッセイが載っている雑誌にもなるべく目を通すようにしています。
芥川賞作家・川上未映子さんはドラえもんファン」 http://d.hatena.ne.jp/koikesan/20080502


 今月発売された純文学雑誌「文学界」8月号に、その川上未映子さんと、分子生物学者・福岡伸一さんの対談記事『生物と文学のあいだ』が掲載されていて、その二人の組み合わせにぐっと心をつかまれて購入しました。
 福岡伸一さんといえば、彼の著書『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書/2007年)が大きな評判を呼びました。「生命とは何か、生きているとはどういうことか」という問いをもとに、分子生物学の新発見に寄与した科学者たちのストーリーや分子生物学の基本的な知識が、できる限りわかりやすく、ほどよく情緒のこもった端正な文章で綴られています。
生物と無生物のあいだ』で福岡さんは生命の定義を提示しています。よく言われる「生命とはDNAを使って自己複製するシステムである」という定義に加え、「生命とは動的平衡にある流れである」というもう一つの定義を示していて、その「動的平衡」こそが本書のキーコンセプトになっています。我々は実感として、肉体というものを外界から隔てられた個物としての実体があるように感じているが、実は我々生命体は、たまたまそこで密度が高まっている分子のゆるい「よどみ」でしかなく、しかも高速度でその分子が入れ替わっている… 生命体は常に流動していて、その流れ自体が「生きている」ということだと福岡さんは述べています。



「文学界」の対談記事を読んで、こんなくだりが心にとまりました。

福岡「人間を含めすべての生物は、臓器→細胞→タンパク質→アミノ酸という風に分解していくと、最終的にはみな分子の連なりということになります。(中略) しかも分子はあえて自ら分解され、再構築されるというサイクルを繰り返すことで、どんどん入れ替わっている。川上さんだって、半年や一年経てば、体の中身はすっかり入れ替わって別人になっている」
川上「じゃあ半年前に約束した締切は、別の分子構造が約束したことなのでなかったことにできますかね(笑)」
福岡「分子が入れ替わっているのに見かけ上同じに見えるのは、生命体に秩序=平衡状態を回復しようとするメカニズムがあるからです」

 藤子・F・不二雄先生のSF短編『おれ、夕子』のなかに、この対談内容と意味的に重なり合うセリフがあります。夕子のパパが、死んだ夕子を蘇らせ、彼女に語った言葉です。

いうまでもなく人間のからだは細胞からなりたっている… 
たとえていえば小さなブロックで組みあげられているわけだ
ところで このブロックが常にいれかわっていることを知ってるかな!? 
古いブロックがすてられ あとに新しいブロックがはめこまれる…… これを新陳代謝という……!!
細胞の寿命はそれぞれ違うけれど すっかりいれかわったときには みかたによれば別人になったといえないこともない
それなのに なんども代謝をくり返しても同じ人間になるのはDNAがしっかりとにらみをきかしているからだ
(『おれ、夕子』 初出:週刊少年サンデー1976年4月15日増刊号)

 福岡さんは「分子」、夕子のパパは「細胞」のレベルで入れ替わりについて語っていますが、おおむね同じことを言っていると見てよいでしょう。
 夕子のパパは、上記の基礎知識を踏まえたうえで、人の全身の細胞を一挙に取り替え、その体内で他人のDNAを働かせる技術を研究します。その技術を使って、死んだ娘・夕子に再び会おうと考えたのです。パパは夕子から採取したDNAを夕子の男友達・弘和の体に注射し、夕子と弘和の細胞を入れ替えることに成功。そうして、死んだ夕子が蘇ることになります。
 この技術を見たとき、私は漠然とクローン技術を連想しました。でもクローン技術というのは、もとの遺伝子の持ち主と同じ遺伝子組成を持った別の個体を新たに生み出す技術であり、もとの遺伝子の持ち主そのものをそっくりそのまま複製するものではありません。また夕子は、細胞の復活によって肉体的な要素ばかりでなく、自我とか記憶とかそういう人格的な要素もそのまま夕子として蘇っています。クローン技術では、自我や記憶までは復元できません。
 仮に夕子のクローンを作るとすれば、それは「夕子と同じ遺伝子組成を持った別の女の子が赤ちゃんの状態で生まれてくる」ということにほかならないのです。夕子本人をそのまま復元させてしまったパパの細胞入れ替え技術は、クローン技術とは別の道筋にあるものと考えてよいのでしょうか。それとも、クローン技術の応用系なのか…  分子生物学をやっている知人は、「クローンというよりは“乗っ取り”なので、システムとしてはウィルスに近い」という印象持ったそうです。
 言うまでもなくクローン技術は現実の事象であり、夕子のパパの技術は空想の次元にあるものなので、それを真面目に対比するのもアレなんですが、実科学と空想科学を同じ土俵に上げて思考するのも結構楽しい遊びになるのです(笑) 
 ところで、クローン技術は現実の事象だとしても、ヒトクローンについては倫理的な問題などあって公式にはまだ実現していないんでしたよね。秘密裏にクローン人間が誕生しているのかもしれませんが、公にアナウンスはされていません。倫理的な問題といえば、夕子のパパの技術は、特定の人間の細胞を復活させるため別の人間の存在を消してしまうものなので、1回につき6時間で効果が切れるとはいえ、倫理的に大いに問題ありといえそうです。この技術は、大学の研究室で将来を嘱望された元科学者であるパパが科学的な手法・研究によって開発したものなのですが、その実態は、正当な科学の手続きを超えた、死んだ夕子に再び会いたいと強烈に願うパパの執念やエゴが生み出した呪力のようなものなのかもしれません。夕子のパパは、学会で異端視されたといいますが、やはりマッドサイエンティスト的な資質を持っているのではないでしょうか。




 福岡さんと川上さんの対談ではこんなくだりも印象に残りました。

福岡「実は生物には固定した「輪郭」というものもないんです。皮膚の表面だって無限に解像度を上げていけば、分子が猛スピードで出たり入ったりするのが見えるだけです。CGアニメーションがどんなにリアルに作ってあっても嘘くさく見えるのは、切断された輪郭線があるからなんです。だからCGをさらにリアルにするためには、界面をぼかすような処理を発明すればいい」

 福岡さんから「生物には固定した輪郭がない」と聞かされた未映子さんは、その状態を「蚊柱」に喩えています。生命体のありようというのは蚊柱みたいなもので、その蚊柱(身体)のなかにいる一匹一匹の蚊(分子)はどんどん入れ替わっているが、蚊柱の形自体は平衡を保っている、というニュアンスです。そして、そんな蚊柱のような流動的で輪郭のない人間の体に「自我」が宿っていることの不思議に思いを及ばせます。福岡さんは、「自我」の問題は生物学的に最大の謎の一つだと答えています。

 人間やそのほか全ての生物が明確な輪郭を持たず、固定的な実体も持たないなんてことを知ると、自分が子どものころから抱いていた既定の人間観に揺さぶりがかかります。人間とは我々が素朴に想像する幽霊のイメージみたいに、輪郭のぼやけた非固定的な存在なんですね。未映子さんの「蚊柱」という比喩がわかりやすいです。福岡さんもこの比喩を気に入ったご様子。



「自我」については生物学的に謎だということですが、「脳にこそ「自我」や「考え」や「記憶」がある」とする脳中心的な知見に対して、福岡さんは異なった意見をお持ちのようです。

福岡「脳科学者をみんな敵に回すことになってしまいますけれども、(略)脳って昔の電話局みたいなものじゃないでしょうか。体のどこかの細胞から発せられた信号を、別のどこかにつなぐ交換機のような役割を脳はたしかに果たしている。脳が傷つけばその交信が途絶えてしまうのは確かですが、「考える」という現象は、体のあちらとこちらが話している、その会話そのもののことだと思うんです。脳を経由しているというだけで、その会話を作り出しているのは脳ではない。だから末梢こそが人間の本質だとも言えます」

「末梢こそが人間の本質だとも言えます」というこの発言を読んで私が反射的に思い浮かべたのは、藤子F先生の短編『考える足』です。この作品は、少年の左足が自我を獲得して少年の身体からの独立を主張する話です。脳から見て距離的に最も末梢にある足が自我を有してものを考えるわけです。まさに、絵に描いたような“末梢が考える”事態です。でも、まあ、『考える足』の場合、頭とは別に足にも脳細胞ができるという話なので、“脳は電話局みたいな交換機であり末梢こそが人間の本質だとも言える”という福岡さんの考えとはズレていると思いますが(笑)



 
 そして今月21日(月・祝)、川上未映子さんのライブへ行ってきました。名古屋の「ロジウラのマタハリ」というカフェで、チェロ奏者・坂本弘道さんと川上未映子さんのデュオライブが催されたのです。
 上述したように私は川上未映子さんのファンですし、坂本弘道さんは「たま」の石川さんや知久さんが参加するバンド・パスカルズの一員であって、この両者によるライブが名古屋で開催されるとなれば、これはもう行くしかないでしょう!ってことで行ってまいりました。
 会場の入口前で未映子さんの著書やCDが販売されていたので眺めていたら、未映子さんの掌編小説が3編掲載されてる『超短編』(創英社)って本が置いてあって、そんな本の存在すら知らなかった私はさっそく購入。「へえ、こんな本が出てたんだあ」と感心していたら、なんと、いきなり会場から未映子さんと坂本さんが出てきたのです! 
 私はすかさず未映子さんの横へ進んで、「こんな本が出てたんですね〜! 知りませんでした」などと話しかけました。すると、未映子さんは気さくにこの本のことを説明してくださいました。感謝感激です。
 未映子さんと坂本さんは、ライブが始まるまで別の喫茶店で時間を潰すため外へ出てきたようでした。ロジウラのマタハリには控室がないのでしょう。ライブが始まる前から未映子さんと接近遭遇できて、しかも言葉まで交わせて、ものすごくラッキーです。



 会場内は、ふだんテーブルなどが並んでいるスペースを片づけて、そこに小さな椅子をびっしり並べた状態。未映子さんと坂本さんが演奏する場所も同じ平面上で、かなり狭いです。
 私は一番前の椅子に座ったため、未映子さんと坂本さんが目の前にいるという最高のポジション! お二人と私の距離は1メートルもないほどで、手をのばせば容易に触れられるくらい。低い椅子に座っているので、歌っている未映子さんを見上げる体勢になります。
 昼の部・夜の部、各30名限定の小規模ライブということで、お二人の演奏を間近で聴けるんじゃないかという期待はありましたが、ここまで近いところでライブ鑑賞できるとは思ってもみませんでした。


 
 ライブの最初の10分間は、坂本弘道さんのソロ。チェロを、本来の演奏法だけでなく、創意を凝らした奇抜な方法で演奏して独自の世界を展開。弦の上に鉛筆削りを置いて削る音を響かせたり、鉛筆の削りかすをチェロのボディにぶちまけたり、鉛筆でチェロのボディを引っ掻いたり… そういう特殊な演奏から次第にチェロらしい演奏へと入っていったような気がします。
 未映子さんが最初に歌った曲は『世界なんか私とあなたでやめればいい』でした。備忘のため、ライブで歌われた曲を記しておきます。

『世界なんて私とあなたでやめればいい』
『私の為に生まれてきたんじゃないなら』
『古い歌や物語に』(COTUCOTUのカバー)
メスシリンダー』(COTUCOTUのカバー)
『戦争花嫁』(散文詩の朗読)
『四月の底です』
麒麟児の世界』


アンコール
『機関車』(小坂忠のカバー)
『魔法飛行』

 未映子さんの生声はとても素敵でした。のびやかで声量があって、狭い会場が豊かに押し広げられていくような力を感じました。すぐ近くで歌を聴いているので、未映子さんの声が直接降り注いでくるような臨場感。
 未映子さんが歌いながら腕に鳥肌を立てているのも見えました。未映子さんの歌声は、観客の心を震わせながら、同時にご自身の心身をもしびれさせていたのでしょうか。


 第十次「早稲田文学」1号で発表された散文詩『戦争花嫁』の朗読もよかったです。どこで声に力を込め、どこで間をとり、どこでスピードを上げ、どこで緩めるのか… 読みあげられる鋭い言葉の連なりを耳で追いかけながら、未映子さんの読み方自体にも注意を傾ける体験はスリリングでした。そんななかで特に強く心に刻まれたフレーズは、「傷ついたことのある人は、永遠に傷ついているのだということ」と「それはすべて戦争花嫁の崩れそうな肋骨のなかで起きた出来事であった」です。「肋骨」のくだりで未映子さんは自分の肋骨のあたりに手をあてていました。
 最後に歌った『魔法飛行』は、メリーゴーランドの先頭を見分けられる人物がシャガールの絵の中に入り込んで家を建てるって歌だと未映子さんから解説がありました。この曲のとき、坂本さんがグラインダーを使って火花を散らしました。パスカルズのライブでも見た光景ですが、今回はすぐ目の前で行なわれたので火花がこちらにドバッと飛んできたのです。


 未映子さんは全曲を歌い終えたあと、上述した分子生物学者・福岡伸一さんとの対談について話してくれました。
 感動のライブ終了後、坂本さんとお話させていただきました。 未映子さんともわずかですが言葉を交わせました。
 坂本さんのアルバム『零式』を購入してサインもいただきました。

それから、未映子さんのCDの宣伝用パネルにサインをもらいました。