赤塚先生を追悼する

 今回は赤塚不二夫先生追悼の気持ちをこめて、2005年10月16日、青梅赤塚不二夫会館で開催された、藤子不二雄A先生と赤塚眞知子さん(赤塚不二夫先生の夫人)の対談イベント「赤塚不二夫を語る」のレポートをリライトして再掲載します。このイベントは、青梅赤塚不二夫会館開館2周年・赤塚不二夫画業50周年を記念して開催されたものです。


 青梅赤塚不二夫会館は、さほど大規模な施設ではないのですが、要点を押さえた展示をしており、ひととおり見て回れば充実感の残るミュージアムでした。入口を入ってすぐのところに、藤子A先生が赤塚不二夫会館のために描いて贈ったカラーイラストが飾ってあります。赤塚先生の横に忍者ハットリくんとニャロメが立っているイラストで、「ぐわんばってくだされ! 赤塚氏!」と、病床の赤塚先生を応援する力強いメッセージが添えられています。


 対談イベントが行なわれたのは建物のなかではなく、その近くに設営された屋外の特設会場でした。司会は、マンガ本を3万冊以上所有しているというマンガファンの喰始さん(たべはじめ/WAHAHA本舗)。舞台上の藤子A先生と赤塚夫人は、見るからに親しそうな様子です。赤塚夫人は対談中、風船でかたどられたウナギイヌをずっと抱えていました。
 

 藤子A先生は「石森は、彼の描くマンガのおしゃれなイメージに反してジャガイモのような顔をしていたが、赤塚は今のイメージと違ってシャイな美少年だった」と、赤塚先生との初対面の印象を語りました。
 こんなエピソードも披露されました。「スタジオ・ゼロの社屋だった市川ビルには、藤子、赤塚、つのだじろうのプロダクションが一つのフロアに同居していて、赤塚のフジオ・プロが最も騒々しかった。ある日、赤塚がフジオ・プロのスタッフとおもちゃの鉄砲を撃ち合って遊びだしたとき、いつも物静かな藤本くんが声を荒げて怒ったことがある。ぼくも、藤本くんが帰宅したあとフジオ・プロの面々と一緒にルーレットやおもちゃの競馬レースをして遊んだ。毎晩お祭りのようだった」


 赤塚先生の映画狂ぶりに話が及ぶと、喰始さんは「僕はおもしろいと思ったのに赤塚先生がダメな作品だって批判した映画があるんです」と発言。その映画は、『エイリアン』だったそうです。
 藤子A先生が赤塚先生の前の夫人である登茂子さんの話に触れると、現在の夫人である眞知子さんが「登茂子さんは、本当は赤塚より安孫子さんのほうがお好きだったそうですよ」と、冗談とも本気ともつかぬ爆弾発言を投下。これにはA先生もたじたじといった感じで、「ぼくが登茂子さんと初めて会ったときには、もう赤塚とつきあっていたので…」と応じるのが精一杯の様子でした(笑) その話を受けて喰始さんは「トキワ荘で一番もてたのはどなたですか?」と質問。藤子A先生は迷うことなく「それは、ぼくです」と答えました。「ぼくは富山新聞で働いた経験があるし、藤本くんもテラさんもつのだも堅物だったし、石森もそんな感じだった。赤塚はおとなしそうに見えて、どうだったか分からないけれど(笑)」とご自分がトキワ荘一のモテ男であることを強調。
 ちなみにこの日、赤塚先生の前夫人である登茂子さんも会場にいらっしゃっていたそうです。


 対談イベントの最後は観客からの質問コーナーでした。「赤塚先生に対してライバル意識はありましたか」との質問には、「そういう意識はなく、嫉妬心なども起こらなかった」とのご回答。
 イベントの締めとして藤子A先生は、「今日は病気の赤塚に代わってここに来た。赤塚のお見舞いに行くたびに、彼の顔色はよくなっている。お見舞いには僕の姉と一緒に行くのだが、姉は「赤塚さんの顔色はこんなにピンクになってきているのに、あなたの顔は土気色で…」などと僕のことをけなすのでやめてほしい(笑) 来年は、この場に赤塚本人がいられるといいと思う」と語りました。
 赤塚夫人は、「今日は安孫子さんにほとんど喋ってもらって助かった。現在闘病中の赤塚に「起きてくれ!」と皆さんで祈ってほしい」と訴えかけました。




 この対談イベントではとてもお元気そうだった赤塚夫人・眞知子さんは、それから1年もたたない2006年7月、急にお亡くなりになりました。
 そして、きのう、その眞知子さんが「起きてくれ、とみんなで祈ってほしい」と呼びかけ、藤子A先生が「来年はこの場に本人がいられればいいと思う」と願った赤塚先生が他界されてしまいました。さらに、きょうの新聞記事で知ったのですが、赤塚先生の亡くなる3日前の7月30日、前妻・登茂子さんも亡くなっていたそうです。
 

 いま赤塚先生の不在に大きな喪失感を感じています。きのう以上に悲しみが重く襲ってきて泣けてきたりもしました。でも、あんまりしんみりするのも赤塚先生に似合わないでしょうし、長いあいだ赤塚先生と苦楽を共にされた長谷邦夫先生も「赤塚先生はしんみりした雰囲気を嫌う。葬儀で自分のくだらないビデオを流したいと言っていた」とおっしゃっています。私も自分の内に抑えきれない悲しみを懐きつつも、できるだけ明るい態度で赤塚先生を追悼したいと思います。



 最後に、赤塚先生がご自分の葬儀についてどう考えておいでだったか記しておきます。

「どうしてもやりたいことがひとつある。自分の葬式には、まず棺桶の上に黒ワクの写真の代わりにデカいビデオのモニターを置いてもらいたい。そのビデオに生前の自分が登場して、ちゃんと挨拶とか全部するわけさ。(中略)やっぱり死ぬのは自分なんだから、自分でちゃんとお客さんを接待するのが礼儀だからね。」


「葬式をショーアップさせたい。例えばファンファーレが鳴ると、すっ裸にされたオレの死体が祭壇の上に登場する。で、昔と今の女房をはじめ、オレと関わりのあった女たちがやってきて死体を包丁やナイフで思う存分、切り刻むのさ。ひととおり切り終わった頃になって、その肉だけ取り出して網の上かなにかに乗せて焼き上げる。ちょうどコンガリ焼き上がったところで、集まった友達みんなに食べてもらう。」


(『赤塚不二夫の「これでいいのだ!!」人生相談』1995年/集英社

 自分の葬儀に本人が登場して参列者に挨拶をし、そのうえで葬儀を面白おかしくショーアップしたいだなんて、赤塚先生の仲間を大事にする気持ちと人を楽しませるサービス精神は底が知れませんね。関係のあった女性に自分の肉を切り刻んでもらってそれを友人に食べてもらいたいとは、なんとアバンギャルドな発想でしょう。そう、赤塚先生は日本が誇るアバンギャルドなんですよね。


 赤塚先生の生き様は、誕生から死亡まで万事これでいいのだ!!