藤子・F・不二雄とシャミッソーとアンデルセン(影を切り離す物語)

 7月24日に発売された藤子・F・不二雄大全集ドラえもん』第1巻に「かげがり」(「小学四年生」1971年7月号)という話が収録されています。
 ドラえもんが、影を切り取ることのできるハサミを出して、のび太の影をのび太の体から切り離します。切り離されたのび太の影は、のび太の言いつけ通りに働くのですが、時間がたってくると影のほうが知恵をつけてきて、そのまま放置しておくと影がのび太を乗っ取って両者の立場が入れ替わってしまうため、それを何とか防がねば……という話です。
 この「かげがり」を読むと、ドイツ・ロマン派の詩人シャミッソー(Adelbert von Chamisso)が書いた『影をなくした男』(1814年発表)という物語を思い出します。私はこの『影をなくした男』の存在を、藤子先生のアシスタントだったT氏から聞いて知ったのですが、そのT氏は「藤子F先生は『影をなくした男』を読んでいたのでは」と推測されていました。


『影をなくした男』は、自分の影を失ったかわりに巨万の富を得る主人公・シュレミールの物語を、メルヘン調で綴っています。
 主人公・シュレミールは、あるところで長身痩躯の歳をとった男と出会います。その男は、シュレミールの影がほしい、と持ちかけてきました。シュレミールは、男に影を譲るかわりに、どれだけでも金貨が出てくる「幸運の袋」を手に入れます。


 この取引によって、シュレミールは大金持ちになるのですが、“影がない”ということは、人間社会で生きていくには大きなハンディキャップでした。影がないというだけでさんざん差別され、人間扱いされないのです。現代日本で暮らす私の感覚からすると、影を持たない人がいればそれは奇異な存在に違いないのですが、さほど蔑視の対象になるとは思えません。ところが本作の世界では、影がないと知れるだけで、誰もが皆シュレミールを忌避し軽蔑し非人間的なまなざしを向けてくるのです。その世界では、どれだけお金を持っていても、影のない人間は日陰者に落ちざるをえないのでした。
 作者のシャミッソーが本作を書いた当時、ドイツでは影絵が流行っていたそうで、影というものが特別に重要視されるような社会だったのでしょうか…。また、『影をなくした男』は、当時の人々の間で人気を博し、影をつくらないように仕掛けをほどこされたランプが“シュレミールランプ”という品名で売り出されていたそうです。



『影をなくした男』の作中では、一年後、シュレミールの影を手に入れた長身痩躯の男が再びシュレミールの前に姿を現します。そして、またもやシュレミールに取引をもちかけてきました。シュレミールに影を返すかわりに、シュレミールの肉体から魂が離れたときその魂をもらいたい、と言ってきたのです。しかしシュレミールは、この話を断ります。
 影を取り戻すことをやめ、金貨の出てくる「幸運の袋」すらも放棄したシュレミールは、残ったお金で古靴を買います。その古靴が、一歩あるけば七里を行くという魔法の靴(七里靴)であることを知った彼は、世界中を股にかけて旅行をし、動植物の研究に勤しむようになります。自分の役割を得たシュレミールは、自分の影と幸運の袋の所有をあきらめたかわりに、七里靴によって幸福な境遇を獲得していったのでした。
 こうしたシュレミールの生きざまは、物語上の空想的な要素を除けば、本作の作者・シャミッソーの生涯と重なり合うものがあります。シャミッソーは、シュレミールに自己を投影していたのでしょう。
 


 シュレミールの影を欲した長身痩躯の男は、自分が着ている灰色がかった燕尾服のポケットから、なんでもかんでも取り出します。望遠鏡、トルコ絨毯、テント一式、三頭の馬など、とてもポケットに入るはずのない大きなものから、幸運の金袋のような現実にはありえない不思議なものまで、ひょいと取り出すのです。男の話によれば、このポケットの中には、どんな錠前でも即座にあけられる魔法の鍵や、あらゆる望みをかなえてくれる魔法草、たえず持主にもどってくる不思議な金貨、ひろげるだけで食べたい料理が手に入るナプキン、望みの品を即座に打ちだす小槌、魔法の頭巾なども入っているということです。
 こうしたくだりを読むと、四次元ポケットから不思議なひみつ道具をひょいと取り出すドラえもんのイメージと重なるものを感じます。

 長身痩躯の男がシュレミールの影を手に入れる場面に付けられた挿絵に「ハサミ」が描かれていることから、どうやらこの男は、シュレミールから影を切り離すとき、影を切ることのできる不思議なハサミを使ったらしい、とわかります。
 
・シャミッソー『影をなくした男』(岩波文庫、1985年第1刷発行)、21ページより


 このハサミは、『ドラえもん』の「かげがり」の、あの影を切るハサミの原型と見ることができそうです。ここでようやく、この文章の冒頭でふれた「かげがり」につながりました(笑) 
「かげがり」では、切り離した影を再び体にくっつけるための「のり」や、影をつかまえる「かげとりもち」なんていう愉快な道具が出てきます。人間の影をハサミで切ってのりでくっつけるというのが学校の工作みたいな発想で、不思議な現象がとても身近に感じられて面白いです。



 シャミッソーの『影をなくした男』から影響を受けた作品に、アンデルセンの童話『影法師』があります。
 主人である学者から離れて独立した影が、何年かのちには主人よりも羽ぶりがよくなり、しだいに影が主人となって学者を手下のように扱う話です。最後には、影は王女と結婚し、学者は殺されてしまいます。学者視点に立てば、じつに悲劇的な結末を迎えるわけです。
 こうした、人間と影の主従逆転という発想は、『ドラえもん』の「かげがり」でも見られます。のび太も、アンデルセンの『影法師』の学者と同様、自分から離れた影に自分の座を奪われそうになりますが、『影法師』と違って、最後には何とか主従逆転を免れます。のび太が影に乗っ取られたら、『ドラえもん』の話が終わっちゃいますからね(笑)



『影をなくした男』、『影法師』、『ドラえもん』の「かげかり」と合わせて鑑賞すると興味深い作品が、安部公房の小説『壁』の第二部「バベルの塔の狸」や、オッフェンバックのオペラ『ホフマン物語』(初演1881年E.T.A.ホフマンの短編小説が原作)の第4幕(全5幕版だと第4幕にあたるアントニアの物語)といったところでしょう。
『壁』の第二部「バベルの塔の狸」では、貧しい詩人が、突如現れた奇妙な動物に影を引きはがされ持ち去られます。そして、オペラ『ホフマン物語』の第4幕は、『影をなくした男』を意識したとおぼしき内容なのです。
 ほかに影をなくす物語を調べてみると、村上春樹の長編小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、中井英夫の短編小説『影を売る男』、ロード・ダンセイニのファンタジー魔法使いの弟子』などがあります。村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は読んだことがあるけれど、他の作品は未読です。いつか読んでみたいと思っています。


 ※追記
 ドストエフスキーのデビュー2作目『分身』も、アンデルセンの『影法師』や『ドラえもん』の「かげがり」のようなモチーフとストーリー構造を持っています。うだつの上がらない下級官吏のところへ自分の分身があらわれて、そのうち下級官吏は分身に取って替わられ破滅していく、という内容です。
 また、村上春樹がデビュー翌年に発表した『街と、その不確かな壁』は、主人公の“僕”が自分の影を切り離して高い壁に囲まれた街で暮らし始める、という話で、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のベースになった小説のようです。ドストエフスキーの『分身』も、春樹の『街と、その不確かな壁』も、失敗作として評判がよくなかったとか。二人とも似たモチーフの初期作品で失敗しているところに共通性があります。
 ちなみに、春樹のアンデルセン文学賞受賞スピーチは「影の持つ意味」といいます。
(追記は、「中日新聞夕刊」2016年11月10日(木)付、文化芸能欄の「大波小波」を参考に記しました)