ジャイアニズムとお説教

 マガジンハウスの雑誌「BLUTUS」11月1日号(673号)が「美しい言葉」という特集を組んでいます。白地に毛筆体で「美しい言葉」と記されたシンプルな表紙に心惹かれて、思わず購入してしまいました。「言葉」というものに相応のこだわりを持つ者としても、興味をひかれる特集です。(現在は次の号が出ているようですが…)
 http://magazineworld.jp/brutus/673/


 この特集のなかで、『ドラえもん』に登場するガキ大将・ジャイアンの言葉「おまえのものは、おれのもの。おれのものも、おれのもの」が紹介されています。
 この言葉は、いわゆる「ジャイアニズム」を象徴するものです。ジャイアニズムとは、ジャイアンの自己中心的・手前勝手・横暴な思考形態や行動様式を指す造語です。
「おまえのものは、おれのもの。おれのものも、おれのもの」は、相手の所有物が自分の所有物であることを一方的に宣告したうえで、自分の所有物も自分の所有物であるという当然の事実をわざわざ念押しするという、まったくもって自己中心的かつ帝国主義的な所有権の主張であって、まさにジャイアニズムを象徴する論理なのです。
 戦後民主主義教育を受けた我々の平等観の範囲内で「おまえのものは、おれのもの」というセリフに接すれば、次に来るセリフは「おれのものは、おまえのもの」であると条件反射的に想定してしまうのですが、ジャイアンは堂々と逡巡なく「おれのものも、おれのもの」と言い切ってしまうのです。ジャイアニズムはアンチ平等主義の論理であり、その意味で小市民的な常識を破る意外性を含み持っているのです。


 しかし、この強欲で自己中心的な「おまえのものは、おれのもの」という主張にも、わずかながら仏心というか、仲間との連帯感みたいなものが垣間見られます。「おまえのものは、おれのもの」という構文から読み取れる限りでは、とりあえずジャイアンは、その物の所有権が相手にもあることを認めているようなのです。相手に所有権があることを認めたうえで、その物が同時に自分の所有物でもあると訴えているわけです。つまりジャイアンは、「おまえのものは、“おまえのものではなく、”おれのもの」という言い方をしないことで、その物を、自分だけの独占物ではなく、相手と自分の共有物であると暗に認めているのです。
 まあ、そうはいっても、ジャイアンと物品を共有するということは、結局のところジャイアンに独占されるということを意味するわけですが(笑)


 2004年12月15日放送の「トリビアの泉」(フジテレビ)で、この「おまえのものは、おれのもの。おれのものも、おれのもの」の語源が紹介されたことがあります。
ジャイアンの口癖「お前の物は俺の物 俺の物も俺の物」はイギリスのことわざ』というトリビアでした。
 もともとはシェイクスピアの『尺には尺を』という作品に「俺の物はあんたの物 あんたの物は俺の物」というセリフがあり、それをジョナサン・スイフトが『上品な対話』(1738年)のなかで「お前の物は俺の物 俺の物は俺自身の物」と変形させた、現在のイギリスでは基本的に「傲慢である」という意味で使われる、という内容でした。



 さて、「BLUTUS」11月1日号の特集「美しい言葉」のなかに「美しい説教」というコーナーがあります。
 子どもの頃も大人になっても説教をされるのはあまり嬉しくないことですが、もし美しい日本語でお説教されたら、そのときは優れた芸術に触れたような喜びを感じられるかもしれません^^
 同誌の「美しい説教」で紹介された言葉のなかでは、こんなものが特に印象に残りました。

嫉まれるがいい
憎まれるがいい
幸福もまた
無傷ではない
谷川俊太郎

 このフレーズが出てくる詩は、谷川さんの詩集で読んでいるのですが、この部分だけを抜粋されるとまた印象が違ってきます。無駄のない端正な言葉で真理をついていますね。幸福であることの代償として、他者から嫉妬されたり憎悪されたり… どんな幸福も幸福であるということで傷つかざるをえないのです。

「あの人みたいになりたい」と思うな。
「あの人みたいになりたくない」と思え。
松本人志

 独特の諧謔精神と自負を持つお笑い芸人・松本人志さんだからこそ、言ってのけられる言葉ですね。「あの人みたいになりたくない」と思え、とは、単に反面教師を持てということ以上の意味を持っていると感じます。「あの人みたいになりたくない」と思うことで自分のオリジナリティを獲得していくという生き方の提示だと勝手に受けとめました^^

愚者千人に讃められんよりも 数寄者一人に笑われん事を恥ずべし
千宗旦

 千利休の孫の言葉です。大勢の凡人に誉められることを求めるよりも、見る目を持った一人に評価されるほうが大事である、といった意味でしょう。解説によれば「本物を見分ける目を持った者のみを意識せよ」ということだそうです。なるほど、と納得しつつも、千人もの人に誉められたらそれで充分だ、と私などは思ってしまいます^^ 千人に誉められるほどの実績や実力に達してこそ、ようやく本物を見分ける者のみを意識できるようになるのかもしれません。
 ただし、「この行ないはこの人だけに評価されればいい」ということは多々ありますね。百人千人万人といった大勢に評価される機会などそうそうないことですから、むしろ、この人だけに評価されればいい、という感覚で何事かをなすことのほうが日常的なことであるような気がします。



「美しいお説教」の話に夢中になって、藤子マンガから話が外れてしまいましたが、「お説教」つながりということで藤子マンガのなかでとりわけ印象的なお説教シーンのある『ドラえもん』「くろうみそ」が先月23日発売の藤子・F・不二雄大全集ドラえもん』第3巻に収録されたということに、ここで言及しておきましょう。
 のび太のパパが2ページにわたってのび太にお説教をする、しかもほぼ同じサイズ・同じ構図のコマが15個分も続くという、一話一話のページ数の短い『ドラえもん』という作品にあっては非常に贅沢な(ある意味無駄使い気味な)場面構成がなされています。
 この場面をさらに印象的にしているのは、パパがお説教に入る寸前にパパとのび太のあいだで交わされたこんな会話です。
 のび太「お説教なんておもしろいもんじゃないからね。長ながやると、このマンガの人気が落ちる」
 パパ「いいや、二ページほどやる!!」
ドラえもん』というマンガの作中人物であるのび太とパパが、自分が『ドラえもん』の作中人物であることを意識した発言をする、というメタ台詞になっているのです。のび太のび太で自分がお説教から逃れる口実として作品の人気を心配しているし、パパはパパでこれから始めるお説教の規模を何時間とか何分間という時間の単位ではなく、ページ数で表現しています。
 こうした、むやみに長いお説教シーンやメタ台詞は、(作中のパパは熱く真剣ではあるのですが)作者の藤子F先生のクールな遊び心から生まれたものだと思うのです。マンガという表現の性質を意識してメタレベルで遊ぶような手法は、手塚治虫先生をはじめ他の漫画家の作品でも結構見られるものですが、保守的・定型的なマンガ表現を律儀に踏襲しているイメージの強い『ドラえもん』という作品のなかで遭遇すると、斬新なこと・特別なことが行なわれているという印象が強くなります。