楳図かずお先生の口から藤子先生の名が

 5日(木)、NHK総合で放送された「スタジオパークでこんにちは」は、楳図かずお先生がゲストでした。その楳図先生の口から、藤子先生の名前が出てきました。だいたいこんな話でした。(以下の楳図先生の発言は、発言内容を伝えるために私が要約したものです)

僕は手塚治虫先生に憧れてマンガを描くようになったが、いつまでも手塚風のままでは手塚先生のコピーでしかないと思った。
ようやく手塚マンガとは違う作品を描けるようになった中学二年生のころ、手塚先生のところへ自分の作品を送ったことがあった。手塚先生から何かリアクションがあったわけでもなく、それっきり忘れていた。
それから何十年もたって、赤塚不二夫賞の審査員をつとめたさい、隣に座った藤子・F・不二雄先生から「手塚先生が楳図かずおという天才があらわれた、とおっしゃっていた」という話を聞いた。
手塚先生は、宝塚の自宅の壁に僕の絵を貼っていたという。

 楳図先生は、藤子F先生からこの事実を聞いて、自分が手塚先生から評価されていたことを初めて知り感銘を受けたようです。


 このエピソードについては、以前から藤子先生がインタビューなどで何度か語っているので、ここではA先生が語った言葉を紹介しましょう。

技術的にはぼくらも結構初めはいろいろと実験的な試みをしたのですよ。その頃は、みんな競って実験的なことをやっていたのですが、手塚先生のところへ行ったら、「関西で、すごい新人が出てね、こんな絵を描くんだよ。ぼくにもこんな構図は描けなかった」といい、どういう構図かというと、人物があり、それを今なら硬質ガラスみたいなものの上に立たせ、下から見たという構図なのです。その頃では、正に革新的な構図で、びっくりしました。それを描いたのは、楳図かずおさんで、なかなかすごいと思いましたね。
(月刊マンガ少年別冊『地球へ…』第3部、1980年、藤子不二雄中島梓竹宮恵子の座談会より)

 藤子先生も楳図先生も、手塚先生の『新宝島』を読んで衝撃を受けマンガというジャンルへのめりこんでいきましたし、藤子先生は昭和26年、楳図先生は昭和30年にデビューしているので、漫画家として活動した期間もほぼ合致しているのですが、どちらかというとあまり接点がない印象です。そんななか、両者の接点を指摘するさい真っ先に思い浮かぶのが上記のエピソードです。



●藤子情報
・「ジャンプスクエア」12月号が4日(水)ごろに発売されました。藤子A先生の連載『PARマンの情熱的な日々』は第25回「赤塚氏とテラさんと猿」。『プロゴルファー猿』の猿谷猿丸のモデルが誰であるかという話が興味深いです。


・コメント欄でゆきさんから情報をいただいたのですが、現在発売中の「小学二年生」12月号に「藤子・F・不二雄キャラ大集合おでかけマスク」が付録でついています。猛威をふるう新型インフルエンザの予防に、ということでしょう。マスクのデザインとして、ドラえもん、ドラミ、Q太郎、O次郎、コロ助、デンカ、チンプイモジャ公、空夫、ドンモ、小池さんといったFキャラがあしらわれています。