映画ドラえもん『のび太のひみつ道具博物館』感想(ネタバレあり)

 9日(土)から映画ドラえもんのび太のひみつ道具博物館』が公開中です。
 私は試写会を含めて3回鑑賞しました。


(以下、ネタバレありの感想を書いています。未見の方はご注意ください)



●『のび太のひみつ道具博物館』に伏流するメッセージ(の一つ)が、「ダメに見える人や自分がダメだと思い込んでいる人でも、何かしら良いところはあるんだよ…」というものでした。少なくとも私は、そうとらえました。表立っては見えづらい“他人や自分の取り柄”を見つけて掬い上げられる感性の大切さに、あらためて気づかせてもらったような気がします。(映画鑑賞後、寺本監督のインタビューを読んだら、監督もこのことを伝えたかったと述べていました)
 劇中でこのメッセージを象徴するのが、盗まれた鈴にひたすらこだわるドラえもんの回想シーンです。ダメなのび太を助けるため未来の国からはるばるとやってきたドラえもん。当初はのび太って本当にダメなやつだと思っていたわけですが、いっしょに暮らし付き合っていくなかで、のび太にも良いところがあるんだ、と初めて気づくときが来ます。その気づきをもらたしてくれたのが、この鈴をめぐるエピソードだったのです。だからドラえもんは、あの鈴じゃなきゃダメだったのです。
 エンディングのスタッフロールに入る寸前、真っ二つに割られた鈴が元通りに重なり合うカットで私はジーンとしました。泣くというところまではいきませんが、胸の内で静かに感銘が響いたのです。そんなジーンという余韻と、Perfumeが歌う『未来のミュージアム』が響き合って、心のなかで独特の音色が奏でられたような感覚です。
 藤子・F・不二雄先生が、メッセージ映画(主張や思想などを訴えることを主目的にした映画)は好きじゃない、とおっしゃっていたように、メッセージ性が他の娯楽要素を差し置いて前面に躍り出てしまっては娯楽映画として問題です。「ダメに見える人や自分がダメだと思い込んでいる人でも、何かしら良いところはあるんだよ…」。こうした実にメッセージらしいメッセージを、押しつけがましくなく、けれど素直にわかりやすく、物語に溶け込ませながら伝えるのは思った以上に難しいものですが、『ひみつ道具博物館』はそれを良い感じのバランスで描いていました。


●今作は、これまで長編の映画ドラえもんが守ろうとしていたスタイルへの囚われから、ずいぶん解放されていて、新たなスタイルの長編映画ドラが生み出された!という印象をもたらしてくれました。
 ここで言う“守ろうとしていたスタイル”とは、のび太ドラえもんらいつもの5人が異世界へ旅立ち、異世界の住人と交流し友情を深めながら、侵略者や独裁者、犯罪者など強大な敵と戦う本格冒険譚…といったものです。もっと簡潔に言えば“シリアス、スペクタクル志向”ということになりましょうか。そうやって言語化してしまうと、言い当てられていない何かがあるような気がしてくるのですが、とにもかくにも、今作はそうした既成のスタイルから自由であろうとしており、その態度が成功につながっている、と私は感じたのです。
 これまでの各映画ドラにも、そのスタイルからどこかしら脱したり外れたりした部分はありましたし、F先生ご自身が描いた大長編ドラ自体(特に後期作品で)じつは変則的な試みがなされていたわけですが、F先生没後のオリジナル映画(F先生の原作大長編ドラが存在しない映画)において、今作ほど“守ろうとしていたスタイル”から大きく踏み出した…という印象を受けたことはありませんでした。スタイルに囚われることからの解放感を明瞭に感じたのです。

 
 今作は、日常から別の世界へ出かける…という最も大枠のフォーマットは踏襲しつつも、これまでの長編映画ドラとは違うテイスト、新たなスタイルへと踏み出しています。従来の殻の一部を破って、片足だけは外側へ突き出した、と言ったらよいでしょうか。
 全体を貫くライトなムードが、長編映画ドラとしては異彩を放って感じられます。さすがにクライマックスのところで危機的な状況が訪れるのですが、その場面にしたって、危機への対処の仕方や解決の方法などにさほど重い雰囲気はありません。強大で恐ろしい敵を登場させず、シリアス度やスケール感を抑制し、全体的にライトなムードで包み込んでいる……。そういうスタイルを意識的に目指して作品がつくられている…。これまでの長編映画ドラのスタイルへの囚われから解放されていると私が感じたのは、大まかに言えばそういったところです。


●新しいスタイルへ踏み出したと言っても、その出来栄えは革新的とか先鋭的といったものではなく、子ども向け娯楽アニメとしてちゃんとまとまっている、という印象です。脚本も演出も丁寧で、数々の伏線が的確に回収されており、見せたいものが明確で、いわばウェルメイドな作品となっています。長編ドラの併映作だった短めの映画(『ドラミちゃん』『ザ・ドラえもんズ』など)があったのですが、そういった作品が持っていたライトでコンパクトなノリを、長編ドラが積極的に取り込んで自家薬籠中のものとした。それが今作『のび太のひみつ道具博物館』なのではないか、と思ったりもしました。


 世代的な思い入れ、あるいは現在の好みから言っても、『のび太の恐竜』から『のび太と竜の騎士』あたりまでの初期作品をもっとも愛好している私にしてみれば、その時代の長編映画ドラのスタイルを守ろうとしてくれるのは実にありがたいことですし、そのスタイルで傑作を生み出してくれたら最高なのですが、そうした伝統的なスタイルを固守しようとすることが必ずしもうまくいっていない、それどころか裏目に出ているとすら思うことがしばしばありました。ですから、もうそろそろ従来のスタイルに囚われすぎず、もっと自由に、もっと柔軟に映画『ドラえもん』をつくっていってもよいのではないか……と思うようになったのです。大冒険を繰り広げたりシリアスに敵と戦ったりしなくても、映画はつくれるだろうと。
 そんなふうに考えていたこともありまして、今作が従来のスタイルから片足だけでも外側へ踏み出し新たな領域を広げてくれたことを評価したいのです。
 映画ドラえもんの現在と未来のために誰かがやらなくてはならないことを、今作で寺本監督(はじめスタッフ一同)がやってくれた! その果敢さに拍手を送りたいです。


●そのように果敢さを感じさせてくれた『ひみつ道具博物館』ですが、その出来上がりは、先にも述べたように、実験的だとかトンガっているとかそういったものではなく、うまくまとまったウェルメイドな作品です。
 物語の大半が“ひみつ道具博物館”なるハコモノの内部で展開されるという、この限定的な舞台規模が今作の大きな特徴です。スケール感を抑え全体的に明朗なトーンにしたため、作品から受ける印象が、テレビスペシャルやかつての同時上映作に近いものに感じられ、その点に物足りなさをおぼえる向きもありましょう。ですが今回の映画はスケールの大きさやシリアスさより、構成力の高さや細部への配慮、意識的なコメディタッチで勝負している気がして、その意味でも成功をおさめていると思うのです。劇場の大スクリーンで観るのだからスケールの大きな作品がよいというのが一つの見識なら、大スクリーンで観るからこそ細かい配慮や豊かな動きや小さなネタにも気づけるような今作もまた、劇場向けの作品にふさわしいと思うのです。
 

 気づけたらより楽しくなるけれど気づけなくても本編を楽しむうえでは問題ない…というような小ネタがいくつもあって、作り手の遊び心やドラえもん愛がそこかしこに感じられました。小ネタのなかで私の胸がもっともときめいたのは、タケコプター史の映像を観るお客さんのなかに、藤子両先生とおぼしき人物がいたことです。コンビ解消後の公式作品のなかでこういうお姿が観られるなんて、ちょっとした奇跡に遭遇した気分です(笑)


 本作の主舞台である“ひみつ道具博物館”に展示された数々のひみつ道具。これを眺める楽しさも本作の大きな魅力です。ストーリーに直接絡んでこないひみつ道具も画面にたくさん映り込んでいて、「あっ、あれは○○だ!」「こんな道具まであるんだ!」「この道具は何と言ったかなあ?」などと楽しむことができます。ひみつ道具の百科本・カタログ本・解説本がこれまでに何種類も出ていますが、そういった本を読んだときのワクワク感が蘇ってくるようです。
 本作はひみつ道具にかかわる設定にいろいろとツッコミどころがあるのですが、私は『ドラえもん』ファンのなかでは比較的細かい設定にこだわらないタイプということもあって、映画の面白みが損なわれるほど気にはなりませんでした。(F先生ご自身があまり設定を固めずに作品を描き出す方であり、お話の面白さのためには柔軟に設定を変えていくこともしばしばだった、という背景もあります。むろんF先生が設定を変えることと、F先生亡きあとに設定が変えられることとは意味合いが違いますが)
 ともあれ、“ひみつ道具を主題化する”という、ある意味掟破り的なことを大胆不敵に行なった…というところも、この映画の果敢さの一つだと思うのです。


●今作の大きな特徴として、推理劇の側面があった、ということも挙げられます。もちろん年季の入った推理マニアの要求水準を満たすようなものとは違いますが、怪盗DXの正体が誰か?という謎が、この映画のストーリーを牽引する動力の一つとなっていましたし、真犯人とは別の人物が犯人であるかのように誘導・錯覚させる描写(ミスリード)があったり、シャーロック・ホームズへのリスペクトネタがいつくもあったりと、子ども向けながら真摯な本格推理劇であろうとしていました。本格推理の最低限のポイントはちゃんと押さえられていると感じました。
 今作で描かれたのび太ドラえもんの関係性は、ワトソンとホームズの関係を意識した面もあったようです。そのように、推理劇という物語構造と、ドラえもんのび太の関係を描くというテーマとがシャーロック・ホームズを媒介にしてつながっているのも素敵だと思うのです。


●クライマックスのアクションシーンは、絵の動きに魅了されました。人工太陽が膨張し地球を呑み込む!という大規模な危機に、ガードロボの襲撃という危機が重なって、その二重の危機を回避するため、一人一人がそれぞれの持ち場で対処していきます。その、ちょっと複雑でかなりダイナミックな動きが、怪盗ドラックスのルックスで子どもたちの大爆笑を誘いながら、テンポよく華麗に描かれていて、実に見事でした。怪盗ドラックスとガードロボの格闘シーンが、やたらとカッコよく描かれていて、カッコよすぎるがゆえに笑いすら誘われました。
 怪盗ドラックスのルックスが子どもたちの大爆笑を誘ったのは、通常は2頭身のドラえもんが、いつものドラえもんの顔のまま頭身を何倍にも増やしたからです。「主役はめこみ機」で身体だけリアルタッチマンガの主人公と化したドラえもんや「フリーサイズぬいぐるみカメラ」でママの身体になったドラえもんを見たときの面白さに通ずるものです。ドラえもんが頭身を何倍にも増やした姿と言えば、私の世代だと方倉二先生の『ドラえもん百科』を思い出しますが、『ドラえもん百科』で描かれる頭身の多いドラえもんは顔が劇画調になっているので、ちょっとニュアンスが違いますね(笑)


 一つ引っかかった点を指摘します。人工太陽膨張の危機は解決されたわけですが、その解決方法は、ポポン(『T・Pぼん』のブヨヨンをモデルにしたキャラクター)が人工太陽を一気に呑み込む、というものでした。これは、ポポンが持つ“ナカミスイトール”機能を利用した方法なのですが、ポポンが行なったことを見ると、人工太陽の中身を吸い取った、というより、人工太陽を丸ごと呑み込んだ、という感じなのです。これはナカミスイトールの機能とちょっと違うようにも感じられるのですが、それ以上に引っかかったのは、ソースカツ丼などを食べて満腹になっただけで故障してしまったポポンが、人工太陽のような尋常じゃない物体を呑み込んで無事だったことです。結果的に無事だったのですから、まあそれは良かったとしても、ポポンに人工太陽を呑み込ませることを提案したのがのび太だったことは、何と言うか、ちょっと問題ありのような気がします。ソースカツ丼を食べて故障してしまったポポンの姿を知っているはずののび太が、膨張する人工太陽をポポンに呑み込ませようとするなんて、ポポンに犠牲を強いているように見えてしまうわけです。同じ解決方法を取るにしても、ポポンの自発的な意思で人工太陽を呑み込ませたほうが良かったかなあ、と思います。
 ともあれ、そうした大きな危機が収束し、その後、盗まれたドラえもんの鈴捜しの場面になります。最後にのび太が、ドラえもんが鈴にこだわっていた理由に気づき、半分になった鈴が重ね合わされ、前述のとおりエンディングに入っていきます。このエンディングへの入り方がまことに絶妙でした。
 声優さんの演技も良かったし、キャラクターの一人一人がうまく役割を持たされ活かされていたのも評価点です。


●F先生亡きあと数々公開されてきた映画ドラえもんオリジナル作品のなかでは、最上位グループに入るほど完成度が高い、と感じました。少なくとも、声優交替後のオリジナル作品では傑出した出来栄えだったと思います。
 オリジナル作品でここまで達成してくれたんだ!という感慨をもたらしてくれる作品でした。
のび太の新魔界大冒険 〜7人の魔法使い〜』『新・のび太と鉄人兵団 〜はばたけ 天使たち〜』と、これまでリメイク作品においてその才気を発揮していた寺本幸代監督は、ご自身初のオリジナル作品でも、まことに良い仕事をやってくれました。寺本監督(スタッフ一同)に拍手を送りたい、と先ほど書きましたが、いま一度拍手を送りたい気分です。
 これで寺本監督の次回作がますます楽しみになってきました。


●来年の映画ドラえもんは、予告映像を見れば一目瞭然、1982年に公開された『のび太の大魔境』のリメイクです。監督は未発表ですが、予告映像のクレジットからの推測で八鍬新之介さんでしょうか。声優交替後のリメイク作品については『新宇宙開拓史』を除けば基本ライン以上の面白さがあった(中でも『新鉄人兵団』は最高到達点だった)ので、どちらかと言えば安心して来年の映画を迎えることができます。


 
 ・映画パンフレット


 
 ・劇場用グッズ、ポポンの「スクイーズマスコット」と「ぶるぶるぬいぐるみ」