『不思議の国のアリス』

 
 昨年10月名古屋の大須商店街にオープンした「アリスの水曜日」です。ルイス・キャロルの『不思議の国の(鏡の国の)アリス』をテーマにしたお店で、アリスグッズ、雑貨、お菓子などを販売しています。
 店の外観がすでにワンダーランドのようで心誘われます。『不思議の国のアリス』の冒頭、アリスは兎を追って穴に入り込み、ずんずん落下します。やがて着地してたどり着いた広間には、あちこちに扉がありました。
 この店の外観は、その広間の光景を意識しているのでしょう。
 こんなにも扉があるのに、ほんとうの入口はただ一つ。あとはフェイクの扉です。
 
 ほんとうの入口はこれ! 大人だと腰をかがめなければならないくらい小さな扉であるところも、アリスの世界観へのこだわりが感じられます。
 店内は「赤の女王の間」と「白の女王の間」に分かれ、「赤…」ではアクセサリーや雑貨、「白…」では菓子が販売されています。
 男性ひとりでは入りづらい店の一種ではあるのですが、私は『不思議の国のアリス』好きの一人であるという自意識に後押しされて、小さな扉をくぐってみたのでした(笑)



 
「アリスの水曜日」へ行ったあと本屋に立ち寄ったら「月刊MOE」が『不思議の国のアリス』特集でした。20代の頃までよく「MOE」を読んでいたのですが、最近はめっきり遠ざかっています。アリスの店に行ったばかりのタイミングでアリス特集に出会ったので、これも何かの縁と久々に「MOE」を買ってみました。



 
 私は『不思議の国のアリス』の文庫本を何バージョンか持っています。この作品は、語呂合わせやナンセンスな会話など言葉遊びがあふれていて、一般の小説以上に翻訳者の違いが読み味の違いに反映しやすいです。
 これらの文庫の中で私が比較的気に入っているのは、旺文社文庫版(多田幸蔵・訳/高山宏・解説)です。翻訳の文体が私に合うのと、注釈や解説が詳しく丁寧だからです。残念ながら旺文社文庫はそのレーベル自体がすでに無くなっています。角川文庫版(福島正実・訳)は、同時代人の読みやすさを最優先して煩雑な注釈をすべてカットしており、これはこれで親切な試みだと思います。



『アリス』の魅力はいろいろと挙げられましょうが、ワンダーランドで遭遇する奇妙な生き物たちと、作品のいたるところで見られる言葉遊びがその最たるものでしょう。
『アリス』に登場する数々の生き物たちの中で特にお気に入りなのは、チェシャ猫です。常にニヤニヤ笑いを浮かべている不思議な猫です。
 アリスとチェシャ猫の会話に「気ちがい」という語が頻出する場面があります。1ページの中に「気ちがい」が9回も出てくるのです(「気ちがい」の語は、訳者によって「狂ってる」だったり「おかしい」だったり「変わりもん」だったりもします)。
 チェシャ猫は「ここに住んでいるものはみんな気ちがいなんだから。おれも気ちがいだし、あんたも気ちがいさ」とアリスに言います。そして、自分が気ちがいであることを証明するため、こんな論法を用います。

「犬は気ちがいではない」
      ↓
「犬は怒るとうなり、嬉しいときには尾を振る」
      ↓
「おれは嬉しいときにうなって、腹がたつと尾を振る」
      ↓
「だから、おれは気ちがい」である。

 このセリフに説得力があるかどうかはともかく、きっちりと論理的な物言いではあるなと思います。これは『アリス』におけるナンセンス性や言葉遊びのほんの一例ですが、こういう屁理屈めいた言葉遊びも実に楽しいですね。
 チェシャ猫は姿を消せるのですが、そのさい尻尾から消えていってニヤニヤ笑いだけを残存させる…なんて芸当を見せてくれます。この場面を活字で初めて読んだとき、何もない空間にニヤニヤ笑う口だけが浮かび上がっている映像が私の脳裏に生じました。


 ほかに好きな生き物といえば、これは『鏡の国…』に出てくるのですが、ハンプティ・ダンプティ! 大きな卵型の生き物です。“ハンプティ・ダンプティ”という語には“ずんぐりむっくり”という意味合いがあります。この生き物の姿を見たアリスが正直に言ってしまったように、ハンプティ・ダンプティは外見と名前が合致しているのです。「名は体を表す」のわかりやすい例ですね。
 このハンプティ・ダンプティが述べる“非誕生日プレゼント”という考え方が強く印象に刻まれています。誕生日プレゼントは1年に1回しかもらえないけれど、非誕生日プレゼントは364回もらえる……とか何とか、そんな感じのことを彼は力説するのです。
 この考え方、ディズニー映画版『ふしぎの国のアリス』(1951年/日本公開は53年)においては、三月ウサギとマッドハッター(いかれ帽子屋)が唄にしています。
「君と僕とが生まれなかった日 めでたい なんでもない日♪」「誕生日は1年に1度っきり そうともたったの1回さ でもなんでもない日は364日 ってことは? 年がら年中お祭りだ! 万歳!♪」といった唄です。
 ハンプティ・ダンプティのセリフや、映画版でのこの唄を聞いていると、非誕生日を無性に祝いたくなってきます。
 なんでもない日、おめでとう!!!
 
 ディズニー版『ふしぎの国のアリス』は、ディズニー映画に心酔していた若かりし頃の藤子両先生のディズニー熱を冷ましてしまった作品としても私の記憶に刻まれています。藤子不二雄A先生は自伝本『二人で少年漫画ばかり描いてきた』でディズニー版『ふしぎの国のアリス』についてこんなふうに述懐しています。

おそらくディズニイは従来のディズニイ・タッチを破る新感覚の漫画映画をめざして『アリス』をつくったのだろう。だが、それはこれまでのディズニイ・タッチを期待していった観客をとまどわせ、失望させる結果となった。
 僕たちもそうだった。この漫画映画の中でアリスが迷いこんだワンダーランドは、むしろヒステリーランドとでも呼んだらいいくらい狂躁と混乱に満ちた世界だったのだ。(中略)当時、かなり保守的な少年だった僕たちはこの不協和音に満ち満ちたディズニイ漫画映画の変身におどろき、あきれ、頭がいたくなって、そうそうに映画館をとびだしてしまった。
 信仰していたものに裏切られた衝撃は大きい。以来、バッタリと僕たちのディズニイ信仰はツキモノが落ちるように落ちてしまったのだ。

 藤子A先生によれば、『ふしぎの国のアリス』は2人の藤子先生がそれまで愛してきたディズニー映画とは異質に感じられるものでした。そのことが、藤子先生のディズニー信仰を一気に解いてしまったのです。
 藤子A先生はこの映画を「狂躁と混乱に満ちた世界だった」と評しています。それまでのディズニー映画と比べると『アリス』の世界は非常に異様であり、「保守的」なディズニーファンであった藤子先生には受けつけづらいものだったわけです。
 私の感覚では、原作の『不思議の国のアリスからして「狂躁と混乱に満ちた世界」と受け取れます。チェシャ猫が“この世界の生き物はみんな気ちがいだ”と言っているように、『アリス』の世界は原作においてもマッドでカオスなのです。ですから、それを映画化したら「狂躁と混乱に満ちた世界」になってしまうのは自然なこと…とも言えるわけです。
 藤子A先生も「今から思えばディズニイの『不思議の国のアリス』は、その後ヴェトナムに傾斜していくアスピリン大国アメリカの集団ヒステリー的狂躁と荒廃を予言したブラック・ユーモア的漫画映画の傑作だったのかもしれない」と書いておられます。A先生がおっしゃるとおり、ディズニー版『ふしぎの国のアリス』は出来の悪い作品だったわけではありません。それまで親しみ愛好してきたディズニーワールドとは異なっていた、というのが藤子先生とって衝撃だったのです。
 星新一さんは、ある映画雑誌のアンケートでこのディズニー版『ふしぎの国のアリス』をベストワンに選んだことがあるそうです。そうやってこの映画を高く評価する人もいれば、受けつけない人もいる……。好き嫌いが比較的くっきりと分かれやすい作品なのかなあ、と思ったりします。
(藤子先生は高校時代、辞書と首っ引きでディズニーに英文のファンレターを書いて出したことがあります。その2ヶ月後にディズニーから送られてきたものの中に『ふしぎの国のアリス』のパンフレットがあったそうです)



 ハンプティ・ダンプティの話に戻ります。ハンプティ・ダンプティが、人間はみんな同じ顔に見えるから次にアリスに会っても気づかないだろう、なんて言う場面があります。これは、自分と異なる種族・自分から遠い種類の生き物はみんな同じように見えるため個体識別が困難になる、という現象です。
 この現象に対し、非常に簡潔かつ明快に腑に落ちる説明を私に与えてくれたのが、藤子・F・不二雄先生の傑作SF『モジャ公』です。
 
モジャ公』に「ナイナイ星のかたきうち」というエピソードがあります。クエ星人のムエという宇宙人が、800年も昔の地球人(源頼政)と現代の地球人(天野空夫)を同一人物だと思い込んで、頼政に殺された父親のかたき討ちを空夫に対して行なおうとする話です。我々から見たら、頼政と空夫の顔はまったく似ていません。なのになぜクエ星人には頼政と空夫の顔が同じに見えたのか…。その理由を、ロボットのドンモが具体例を挙げながら解説するのです。
 地球人の空夫から見ると、異星人であるモジャ公がクラスメイトたちと撮った集合写真はみんな同じ顔で、どれがモジャ公か識別できません。モジャ公は「失礼な!おれはずばぬけてハンサムだい」と怒ります。そして、空夫やモジャ公から見れば、クエ星人の個体を見分けることは困難です。
 そんなことになってしまう理由について、ドンモは「種族がチガイスギルカラダ。オタガイニ見ナレナイカラ」と説明します。それを聞いた空夫は「そういえば地球の動物や魚でも顔を見わけるのはむずかしいや」と納得するのです。私も空夫と同様、この数コマのやりとりで一気に納得してしまいました。
(クエ星人が、800年前の地球人と現代の地球人を同一人物だと思い込んでしまった理由には、クエ星人が平均寿命2500歳と長命だから…というのもあります)



 はてさて、当ブログらしく『不思議の国のアリス』の話題から藤子話に進展してしまっていますが、そのついでに言うならば、『不思議の国のアリス』に登場するドードー鳥にも藤子ファン心がピクンと反応します。
不思議の国のアリス』の作者はルイス・キャロル(英国、1832〜1898)です。本名を、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンといいます。彼は数学者・論理学者で、そんな専門の書物は本名で出していたのですが、それ以外の創作物(『アリス』や『スナーク狩り』『シルヴィーとブルーノ』など)ではルイス・キャロルという筆名を使っていました。
 
 キャロルには吃音癖があって、かしこまった場所などで自己紹介をするとき「ド・ド・ドジソン」と発音してしまうことがあったそうです(ドジソン(Dodgson)という名は、もともとの発音からして「ドドソン」あるいは「ドッドドン」だった、という説もあります)。イギリスには「ドードー鳥のように息も絶えだえ」という慣用句があって、これは「時代遅れの」「お古の」という意味。またドードーという名前の由来はポルトガル語で「のろま」の意味を持っているそうです。そんなことからキャロルは、ドードー鳥にシンパシーを感じ、そこに自分を投影して『不思議の国のアリス』の登場させたというわけです。
 そして、ドードーといえば、『ドラえもん』の「モアよドードーよ、永遠に」ですね!「モアよドードーよ、永遠に」からの流れで、大長編ドラえもんのび太と雲の王国』にドードーが登場することも忘れがたいです。こちらでもドードーはモアとともに登場しています。
 絶滅動物は無数に存在するわけですが、「モアよドードーよ、永遠に」と、幼いころ読んだ絶滅動物図鑑の影響で、私の意識の中では絶滅動物の筆頭格のひとつがドードーになっています。ドードーが小説や漫画や映画などの創作物に登場すると、それだけでなんだかテンションが上がって、その作品への好感度が増してしまいます。
 綿矢りささんの小説『勝手にふるえてろ』(文藝春秋、2010年)は表紙にまでドードーがいてくれて気持ちが高まりました(笑)