だまし絵展から藤子作品を連想する

 名古屋市美術館で1月10日から3月22日まで「だまし絵II」が開催されていました。2009年に催された「だまし絵展」の第2弾です。古典的なだまし絵から、だまし絵の進化系、だまし絵的な立体作品まで、視覚が欺かれることの楽しさを堪能しました。
 
 
 ・名古屋市美術館


 
 ・2009年の「だまし絵展」と今回のチケットを並べてみました。


「だまし絵II」は、プロローグを含めて全体で5つのコーナーにわかれていました。

 ・プロローグ
 ・第1章 トロンプルイユ
 ・第2章 シャドウ、シルエット&ミラー・イメージ
 ・第3章 オブ・イリュージョン
 ・第4章 アナモルフォーズ・メタルフォーズ

 入場してすぐに目に入ったのがアルチンボルドの作品。いろいろな物を多彩に組み合わせて人物のように見せるのが得意な画家です。本と本に関連する物を組み合わせて人物のようにした『司書』と、樽や壺や瓶で構成された『ワイン蔵』が展示されていました。
 
 ・同展のチラシにもアルチンボルドの絵が使われています♪


 順路の前半に展示された作品では、美術史上の名画の裏面を忠実に再現したムニーズ『裏面シリーズ』や、一見すると普通の人物画だけど人物の目が動く福田美蘭『婦人像』などが特に印象的でした。写真作品の田中偉一郎『ストリート・デストロイヤー』は、道路のひび割れや自動車のへこみに男がパンチを打ち込むポーズを取っています。もともとひび割れた道路なのに、その男がパンチでひびを入れたように見えるトリックです。自分でもマネしてやってみたくなってきます(^^


 2次元だけじゃなく立体作品もありました。屋内の窓から屋内の景色が見え、屋外の窓から屋外の景色が見えるレアンドロ・エルリッヒ『ログ・キャビン』、意味をなさない不定形な構造物が鏡に映るときちんとしたピアノの形になる福田繁雄『アンダーグランド・ピアノ』、ぐにゃぐにゃのワイヤーに特定の位置から光を当てると壁に映し出される影が生き物の形になるラリー・ケイガンの『トカゲ』『蚊』などが面白かった!


 さて、ここからは「だまし絵II」で観た作品と藤子マンガ(とくに『ドラえもん』)とを恣意的に関連づけながら語っていきます。
 ブラック短編『マグリットの石』をはじめ藤子不二雄A先生の作品で何度も題材にされているルネ・マグリットの絵画が、前回に続き展示されていました。「第4章 アナモルフォーズ・メタルフォーズ」のコーナーに、『星座』『赤いモデル』『白紙委任状』が展示されていたのです。
魔太郎がくる!!』の「ドリアン・グレイの肖像」という話には、魔太郎が由紀子さんと「不思議絵展覧会」へ行く場面があります。そこには、「だまし絵II」で展示されたのと同じ画家の作品も複数登場します。マグリットエッシャーアルチンボルド…。私がこの話を読んだのは小学生のころです。現実のだまし絵展へ足を運ぶより前の小学生時代に、私は『魔太郎がくる!!』を読むことでだまし絵系の展覧会を疑似体験していたのでした。


●だまし絵の古典的な手法に「トロンプルイユ」というものがあります。絵に描かれた物を本物と見誤らせる手法です。「だまし絵II」に出品されていた作品でいえば、たとえば、二段の棚とその棚に置かれた物を描いたゲオルグフレーゲル『果物と花のある棚』、木枠にふちどられた壁龕とその壁龕の中や周囲に鷹狩りの道具が配置されたクリストフェル・ピアーソン『鷹狩道具のある壁龕』などがトロンプルイユの手法を使った古典的な絵画です。あたかも壁に本物の棚があるかのように、本当に鷹狩りの道具が掛けられているように見えるくらい写実的に描かれています。
 このような“絵を描くことであたかもそこに本物があるように見せかける”というトロンプルイユの手法から私が思い出したのは、『ドラえもん』の「みせかけ落がきペン」(てんとう虫コミックスプラス4巻)です。みせかけ落がきペンを使って○を書いてその○の中に「どらやき」と文字を記すと、それが本物のどら焼きにしか見えなくなります。一本だけ線を引いてその横に「ブロックべい」と書けば、そこに本物のブロック塀があるように見えます。円や線といった単純な記号と物の名前を書くだけで、それが本物に見えてしまうのです。
 トロンプルイユが対象をリアルに描くことで本物に見せかける手法であるのに対し、みせかけ落がきペンは、ごくシンプルな記号を書くことで本物に見せかけるひみつ道具、というわけです。
「みせかけ落がきペン」は、リアルとは逆の、極めて単純な記号的落書きによってそこに本物があるかのように見せかける、超絶的錯視の話なのです(笑)


 トロンプルイユの“そこに本物があるかのように見せかける”手法は、絵画だけでなく立体作品でも応用されます。「だまし絵II」で観た作品では、たとえば、ドゥエン・ハンソンの『カーペットを掃除する女』がそれです。リアルに造られた人物の立体像です。解説によると、「生身の人体を直接型取りし、肌の皺やシミまで克明に再現した着色を施し、それにぴったり見合った古着を着せるというプロセスによって迫真的な造型を獲得」しています。
ドラえもん』にも、本物の人間そっくりな立体像が登場する話があります。たとえば、「立体コピー」(てんとう虫コミックス13巻)がそれです。ドラえもんが出した“立体コピー紙”の上にのび太が寝ると紙が人体の情報を取り込むらしく、その後しばらくするとのび太そっくりの立体像が平面の紙から浮かび上がってきます。コピーのび太は、心を持たないし自ら動くこともありません。まさに人形です。本物にしか見えない人形なのです。ですから、コピーのび太をたまたまた見かけた人はそれを本物ののび太だと思い込んで接することになります。コピーのび太によって、そこに本物ののび太がいるかのように見せかけることができるのです。まさしくトロンプルイユの精神ですね♪


 さらにトロンプルイユとの関連で話を進めると、「かべ紙の中で新年会」(てんとう虫コミックス9巻)、「ジャイアンよい子だねんねしな」(同27巻)に登場するひみつ道具“かべ紙ハウス”にも思いが至ります。ポスターのように丸められた状態で四次元ポケットから取り出されたかべ紙ハウスは、広げるとペラペラの紙に単純な家が描かれています。一見すればそれは壁紙とかポスターのように思えるのですが、描かれた家のドアを開けるとその向こう側に本物の3次元空間が広がっているのです。紙に描かれたドアがじつは本物の部屋への入口になっているわけです。トロンプルイユは“2次元の絵によって、そこに3次元の本物があるかのように見せかける”手法でしたが、この場合は“そこに2次元の絵があるように見せながら、じつは3次元の本物であった”というもので、トロンプルイユを逆手を取ったかのようなイメージを与えてくれます。


●「だまし絵II」の「第2章 シャドウ、シルエット&ミラー・イメージ」は、その章題のとおり、影と鏡に関する作品を展示していました。
 影や鏡を題材にした話は『ドラえもん』にいろいろとあって、私は、影ならば「かげがり」(てんとう虫コミックス1巻)、鏡ならば「うそつきかがみ」(同2巻)が特に印象深くて大好きです。それと、私の好きな大長編ドラえもんベスト3のうちの1つ『のび太の鉄人兵団』は、鏡面世界を主舞台とした作品です。
「だまし絵II」の図録にこんな解説文が載っていました。「鏡も、普通はものをそのまま映し出すと考えられている。しかし、福田繁雄の≪アンダーグランド・ピアノ≫を見ると、立体の形と鏡に映った像の形がまるで一致しないのに驚くだろう。現実よりむしろ鏡の中のほうが正しい世界に思えてしまう」
 これを読むと、ますます「うそつきかがみ」のことを思ってしまいます。「うそつきかがみ」は、まさに、鏡の前にいる人物の姿と鏡に映った像が一致しませんし、現実の姿より鏡の中の姿のほうが正しいと思ってしまう話ですから。『アンダーグランド・ピアノ』の解説文が「うそつきかがみ」の解説文に見えてきました(笑)


エッシャーの有名な作品『上りと下り』は、階段を上る人は無限に上りつづけ、下る人は無限に下りつづけるという、現実には立体化不可能なループ階段が描かれています。
 階段を上り下りすることで終わりのないような不思議な感覚を体験する…というところから、私は『ドラえもん』の「ホームメイロ」(てんとう虫コミックス18巻)を思い浮かべました。迷路化した野比家の中で、本来なら2階から1階へ下りる階段がなぜか上へ向かっていて、3階でもできたのか?と上ってみると1階にたどり着いてしまいます。さらに迷宮度を増した野比家になると、いくら廊下を歩き、いくら階段を降りても永久的に玄関から出られないような事態に陥ります。それはエッシャーの『上りと下り』と同一の状況ではありませんが、階段の上り下りによってゴールがないかのごときシュールな体験をするという点で通じるものを感じるのです。
 エッシャーの作品では『物見の塔』も見ることができました。手前から上にまっすぐのびた柱がなぜか奥の天井とつながっているとか、1階の内側に置いたまっすぐなハシゴがなぜか2階の外側にかかっているとか、そんな遠近感のねじれた建物が描かれています。前述したように『魔太郎がくる!!』の「ドリアン・グレイの肖像」にエッシャーの作品が登場するのですが、その作品が『物見の塔』なのです。魔太郎は作中でこの作品を観ながら「これは絵の魔術師といわれるエッシャーのえがいた不思議絵……よく見るといろんな不思議がいっぱいこの中にあるんだ」とガールフレンドの由紀子さんに解説します。
魔太郎がくる!!』の「無田博士のビックリハウス」に出てきた奇妙なハシゴも、エッシャーの遠近法のねじれた建物と似た幻惑感をもたらします。現実的には立体化不可能なねじれ方をしているのです。


福田美蘭の絵画『婦人像』は、なんの変哲もない女性の上半身が描かれているのですが、じっと観ているとその女性の目が動きます。
肖像画の目だけが動く”というところから、私の中では『のび太の宇宙小戦争』でギルモア将軍の肖像の目が動く場面とイメージが重なりました。『婦人像』は観る人を驚かすために描かれているわけですが、ギルモア将軍の肖像の目は監視装置になっています。ピリカ星の首都ピリポリスでは、街のあちこちでギルモア将軍の肖像が見られます。それは独裁者の威光を示すものであると同時に、目が監視カメラの役割も担っているのです。
 独裁者の肖像が街のあちこちにある、というディストピア的光景は、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』を彷彿とさせます。全体主義国家オセアニアでは、独裁者ビッグ・ブラザーの描かれたポスターが街のいたるところに貼られています。その肖像画は、こちらがどう動いてもずっと目が追いかけてくるよう描かれており、画の下には「ビッグ・ブラザーがあなたを見ている」というキャプションがつけられています。


 福田美蘭『婦人像』の解説に「じっと眺めていると画中の女性の目が動く≪夫人像≫は、「絵画は動かないもの」という固定観念をストレートにくつがした作例である」とありました。
 絵画は静止したものという固定観念をくつがえす、といえば、『ドラえもん』の「つづきスプレ―」(てんとう虫コミックス5巻)が思い当たります。絵画につづきスプレーを噴きかけると、そこに描かれた場面の続きが見られるのです。絵画の中で永遠に静止していたはずの時間が動き出すのです。絵画は動かないものという固定観念があるからこその驚きや面白さを味わえます。
 ダ・ヴィンチモナ・リザ』、ドガ『舞台の二人の踊り子』、ミレー『落穂拾い』といった美術史上の有名絵画の続き場面が描かれるくだりは絶品です。美しく澄ましたような名画が、少しのちにはこんなことになっていた、というパロディ精神が愉快。しまいには一万円札に印刷された聖徳太子(当時)まで続きの場面を見せてくれてるのですから最高です。

 
 ・「だまし絵II」鑑賞後、図録を購入しました。


 2009年の「だまし絵展」のレポートはこちらです。だまし絵の魅力や藤子不二雄A作品との関連などを書いております。
 http://d.hatena.ne.jp/koikesan/20090524