藤子・F・不二雄先生のご命日に『未来ドロボウ』を再読

 本日9月23日は、藤子・F・不二雄先生のご命日です。
 ご命日の6日前にあたる9月17日、私は名古屋市富田図書館で「藤子・F・不二雄没後20年 ドラえもんから広がる読書の世界」という講演をさせていだきました。
 
 演題にあるとおり、この講演は「藤子・F・不二雄先生没後20年」という大きな節目にちなんで開催したものです。
 今年はF先生のお墓参りには行けませんでしたが、僭越ながら、講演をさせていただいたことがF先生を偲ぶ行為になったのではないかと思います。その意味で、今年は例年とは違う特別なかたちでF先生を追悼することができました。


 ・当ブログで講演をレポートした回はこちらです。
 http://d.hatena.ne.jp/koikesan/20160919


 講演の会場となった名古屋市富田図書館では9月に入ってから一ヵ月間、藤子・F・不二雄先生没後20年を偲んで関連図書などの展示コーナーを設けています。アットホームな雰囲気の館内のところどころにF空間が広がっています。
 
 
 
 
 
 
 ・拙著も展示の仲間に加えてもらえてありがたい限りです。

 
 
 ・講演が終わって以降は、講演の中で紹介した本および紹介する予定で紹介しきれなかった本も、拙著のコーナーに集めて展示・貸出をおこなっています。9月30日(金)まで展示予定です。


 さて、講演以外にも、ご命日当日にF先生を偲ぼうと、少年SF短編の傑作『未来ドロボウ』を読み返しました。F先生没後20年という歳月を思うとき、そういう歳月の重みについて考えることのできる作品、しかも自分が大好きで、できるだけ短時間で読める作品ということで、『未来ドロボウ』を選びました。
  
 
 ・小学館コロコロ文庫『未来ドロボウ』(小学館、1996年発行)の表紙カバーと裏表紙カバー。


『未来ドロボウ』の主人公は中学生の少年です。そして、若さを欲して少年と入れ替わる老人が登場します。この老人の年齢は不明ですが、勝手に80歳くらいだと設定すれば、私はいま二人の年齢のほぼ中間にいることになります。そんな年齢の今だからこそ、本作を再度噛みしめておこうと思ったのです。
 老人が語る「未来は、それがあるというだけですばらしいことなんだ」「若いということは想像以上にすばらしい、すばらしすぎるんだ!!」というセリフに初めて触れたのは、中学生の頃です。新鮮な感銘を受けました。
 まさにこの自分が“若い”渦中にあり、(未来がどうなるかはわからないものの)未来がまだたくさん残されている感覚を自然ともてる年齢だったわけでして、それゆえに、自分は今そんなふうにただ存在するだけで「すばらしい!」と賞賛される地点にいるんだと、客観的に自分の人生の位置に気づかされたような気がしました。
「未来は、それがあるというだけですばらしいことなんだ」というセリフは、あの頃よりだいぶ未来が減った今の自分には、より真に迫ってきます。
 しかし「若いということは想像以上にすばらしい、すばらしすぎるんだ!!」というセリフについては、まだ実感をもって理解できるところまでは行っておりません。私は、過去の特定の出来事を思い出して懐かしむことはあっても、「あの頃は(今と比べて)よかったなあ」とは感じないのです。若い頃に良いことも悪いこともあったように、今もまた良いことも悪いこともあって、ある側面では若い頃より今のほうが楽しかったり充実していたりもします。ですから、もっと老いていろいろなものを失ったとき、「若いということは想像以上にすばらしい、すばらしすぎるんだ!!」と心から感じられるのかもしれません。あるいは、老いてますます精神が充実して、いつまでもこのセリフを実感できないのかもしれません(笑)


『未来ドロボウ』の老人が自分の人生を振り返り、「学問ひとすじの人生だったよ。わき目もふらず……。春も夏も秋も冬も気づかぬうちに通りすぎていった」と語ります。そのセリフが、「昨日も一昨日も、一ヵ月前も一年前も、いや、昭和二十九年夏の上京の日以来、今日までが僕の意識の中では、ノッペラボーのひとつながりです。そして、ごく稀に周囲を見廻した時、その変わりように驚き、時間の経過を覚えるのです」というF先生の言葉(『二人で少年漫画ばかり描いてきた』1977年、毎日新聞社)と重なって感じられました。


 F先生のダジャレっぽいネーミングセンスは昔から好きでしたが、近年ますますツボに入ってきた感じです。今回『未来ドロボウ』を読んでみたら、団地住まいの子どもたちの野球チーム名が“ダンチーズ”だったり、少年になついている野良犬が“ノラシロ”だったりして、その他愛なさがたまりませんでした(笑)