落語と藤子・F・不二雄作品

 中京テレビの深夜番組『太田上田』の最新回(10月13日24:58~)のゲストは、伊集院光さんでした。

 この伊集院さんとMCの一人・太田光さんが落語の話で盛り上がっていて面白かったです。

居残り佐平次」を演ることの怖さ、「あたま山」の解釈、談志さんの「粗忽長屋」の凄み、ビートたけしさんの「人情八百屋」の完成度の高さなど、古典落語への興味をあらためて誘われる、楽しく濃いトークでした。

 

 自分で演りたい演目という話題では、伊集院さんは「死神」、太田さんは「大工調べ」を挙げていました。

 太田さんは、何より「居残り佐平次」を演りたいのだけれど、これはハードルが高くて無理だろうな、と語っていました。「居残り佐平次」には話芸の化け物が登場するので、それを話芸である落語で演じるというのは、たとえば『ガラスの仮面』のドラマで誰も見たことがない名演技をする俳優を生身の人間が演じることに近いとか。そういう喩えを伊集院さんがなさっていて、なるほどなあと思いました。

 

 喩えといえば、伊集院さんが「あたま山」は演り方しだいではデヴィッド・リンチ作みたいになる、と言い、太田さんが談志さんの演る「粗忽長屋」はデカルトみたいな哲学的な雰囲気を帯びている、と言って、そうした喩えも印象的でした。

 

 私が演芸場などで実際に落語を聞いた機会は数えるほどしかありません。記憶の限りで初めて生で落語を聞いたのは、なんばグランド花月での桂文珍さんの高座でした。演目は忘れてしまいましたが…。

  名古屋の大須演芸場で、立川一門の落語家さんの落語を聞いたこともあります。「子ぼめ」「あくび指南」「親子酒」「粗忽長屋」といった演目が披露されました。トリの立川こしらさんの「粗忽長屋」は、ご本人が思い入れを持っていることもあって、さすがの面白さでした。冒頭からオチまで話に引きつけられたのです。

 生で落語を聴いていると、藤子・F・不二雄先生のギャグマンガってつくづく落語的魅力に満ちているよなあ、と腑に落ちてきます。

 

 よく知られているとおり、藤子F先生は大の落語好きで、ご自分の作品の中でよく落語ネタを使っていました。『ドラえもん』だけでも相当数の落語ネタがありますが、なかでも私が好きな話は「胴斬り」を下敷きにした「人間切断機」です。

「人間切断機」は、人体を真っ二つに切断!という恐ろしい残虐行為をあっさりとやってしまうところがまずおかしいです。「ほんとに切るやるがあるか」と怒るのび太。それに対してドラえもんは「心ぱいするな。かんたんにくっつくのりがあるから」などと平然と言ってのけてしまいます。

 人体切断という、普通に見れば過激な事象なのに、じつにあっさりと、あっけらかんと、イージーに事がおこなわれ、そのシュールさがおもしろすぎるのです。

 

 というわけで、「人間切断機」ではのび太が胴体を切断されて上半身と下半身に分離されます。上半身ののび太は、切断された瞬間は怒ったものの、切断されても問題ないとわかったとたんお気楽なものです。のんびりテレビを見たりおやつを食べたりしながら、自分の下半身にお使いを頼んだり(電球を買いに行かせた)、せんべいを取りに行かせたりと使い走りにします。上半身は楽しいことをやって、下半身に働かせたのです。

 しかし、そんな都合のよい状況がいつまでも続くはずがありません。

 そのうち、下半身が「これまでぼくはいつもそんしてた。テレビ見たり、おいしいもの食べるのはいつも上の方で…、ぼくはおもいからだをのせて、歩かされてばっかり」と気づきだします。

 そんなふうに、のび太が楽をするため自分の分身的存在に働かせ、そのうち分身的存在に知恵がついてのび太に逆らうようになる、という話に「かげがり」(てんコミ1巻)もあります。パパに庭の草むしりを言いつけられたのび太は、かげきりばさみで自分の影を切り取ってもらい、その影に草むしりをさせます。草むしりをさせたあげく、コーラを取りに行かせたり、うちわで煽がせたり……。そのうち、影が知恵をつけていき、そのまま放置しておくとのび太と影の立場が入れ替わってしまう、という危機が訪れるのです。

 自分の分身だから、と遠慮なくこき使っていたら、その分身が知恵をつけ、分身に反逆され、下半身を失ってしまうかもしれない/影と入れ替わってしまうかもしれない、と自分の存在が根底から揺らぐピンチに瀕するのが、この2つの話の共通性なのです。

 

 と、ちょっと話が落語からそれましたが、ともあれ、「人間切断機」は先述のとおり古典落語の演目「胴斬り」を下敷きにしています。

 

「胴斬り」はこんなお話です。

男が夜道を歩いていると辻斬りにあい、胴をスパッと斬られてしまった。一大事だが、辻斬りをした人間の腕が達者だったためか、使われた刀が名品だったのか、きれいに上半身と下半身に分離されて、命に別状はなかった。このときは、たまたま通りかかった兄貴分に家まで連れ帰ってもらった。

次の日になって兄貴分が様子を見にくると、上半身は飯を食い、下半身はそこらじゅうを跳ね回っていた。

男が言うには、切り口はつるんとしていて血は出ないし痛みもない…

上半身と下半身に分かれてしまったから、元の職業である大工はもうできない。でも仕事をしないと生きていけないから、ということで、上半身は先頭の番台に立ち(立つとはいえないか…)、下半身はこんにゃく屋でこんにゃく玉を踏む、という職についた。

 

 その後、話は終盤に入りオチがつくわけですが、オチの部分はWikipediaから引用しましょう。

兄貴分が様子を伺いに行くと、銭湯、蒟蒻屋ともに「いい人を連れてきてくれた」と重宝している様子。

ただ、働いている当人たち曰く、

上半身「近頃目がかすむから、三里に灸をすえてくれ」

下半身「あまり茶ばかり飲むな、小便が近くていけねえ」

 

「胴斬り」のストーリーを読めばおわかりのとおり、「人間切断機」は、一人の人間の胴体が上半身と下半身にスッパリ切断されてしまったのに当人はいたって平気で、上半身と下半身がそれぞれに行動する……という「胴斬り」のメインアイデアを取り入れ、それを『ドラえもん』の世界観の中でテンポよくアレンジしているのです。

 オチの、上半身がお茶(水)をガブガブ飲むので下半身がおしっこを催して困ってしまう……というアイデアも共通していますね。オチも「胴斬り」から採ったものなのです。

 

 

ドラえもん』で使われた落語ネタという点では、「世の中うそだらけ」に出てくる「壺算」ネタも昔から好きです。

 この件については、以前ブログで詳しめに書いたことがあります。

 

 ■「壺算」と「ドラえもん

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/20060726

 

 落語ネタの多い藤子F作品のなかでも落語濃度が高い作品の筆頭格が『21エモン』です。レギュラーキャラクターのゴンスケとオナベからして、落語の登場人物ですからね。古典落語に登場する権助もおなべも、地方から出てきた奉公人です。

 藤子F先生は、権助についてこんな発言を残しています。落語からの影響を話題にしているなかでの発言です。

 

 「飯炊きの権助」というのがいろんな話に出てきますが、あのキャラクターが僕は好きですね。『ウメ星デンカ』という作品や『21エモン』という作品の中で、権助をロボットで登場させているんですが、どっちも雇われている身分なのに反骨たくましくて、しょっちゅう雇い主に抵抗して労働者の権利を守ろうとするのね。

(『ドラえもん研究 子どもにとってマンガとは何か』南博編、1981年、ブレーン出版)

 

 そんな『21エモン』におけるゴンスケの、反骨たくましく雇い主に抵抗する性格はもとより「おらは」「〜だべ」という言葉遣いも、落語の権助が由来です。

  一方、落語のおなべは、不器量だけれど働き者の女中として登場します。『21エモン』のオナベモも(不器量かどうかは別として)そういうキャラクターですね。

 

 ここで、私が所有するアニメ『21エモン』のセル画をご覧いただきましょう♪

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  このなかに、いま話題にしたゴンスケもオナベもいます!(モンガーがいない…)

 

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 『21エモン』における落語要素は、こちらのブログが詳しいです。「こんなところにも落語からの影響があったのか!」と知ることができました。

 http://omoshow.blog95.fc2.com/blog-entry-1546.html

 

  古典落語は一種のフリーコンテンツです。誰もが自由に使用し、再構成できる創作物です。

 現代の落語家が古典落語の演目を各々の演出や語り口で演るのと同様に、藤子F先生は『ドラえもん』の中で古典落語の演目をやっているわけです。