映画『のび太の新恐竜』感想【その5】「恐竜から鳥への進化に関心を抱く」  

 12月16日に映画『のび太の新恐竜』ブルーレイ&DVDが発売されます。

 https://www.hmv.co.jp/news/article/2011111020/

 

 ソフトで観返す前に劇場で観た感想を書き終えるべく、感想【その5】をアップします。

(以下、映画『のび太の新恐竜』の内容に具体的に触れています。未見の方はご注意ください)

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 映画『のび太の新恐竜』のメインゲストキャラクターであるキューは、羽毛恐竜から鳥類へと進化する生物史のプロセスにおいて、羽毛恐竜と鳥類の中間にあたる存在です。キューは、既存の羽毛恐竜よりも鳥寄りに突然変異して生まれてきた個体であり、キューの子孫が代々進化していくことで本格的な鳥類が出現することになるのです。

 そうしたキューの姿を通して「恐竜は鳥類に進化して現在も生き残っている」という学説をドラマティックに伝えてくれたのが、映画『のび太の新恐竜』なのでした。

 

 私はこの映画を観たことで「恐竜から鳥類への進化」にいっそう興味を抱き、こんな本を購入して読んでみました。

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 ●『そして恐竜は鳥になった −最新研究で迫る進化の謎』(監修:小林快次、執筆:土屋健、誠文堂新光社、2013年)

 

 この本で、「羽毛恐竜がどのように羽ばたいて飛べるようになったか」について、3つの仮説が挙げられています。

 

 ・地上で走りながら羽ばたいている種から飛翔できる種が出現した

 ・滑空している種から飛翔できる種が出現した

 ・木登りしている種から飛翔できる種が出現した

 

 これら3つの仮説のうち、キューはどれにあてはまるでしょうか。

 専門家ではないので正確なことは言えませんが、素直に考えれば「滑空している種から飛翔できる種が出現した」になるでしょう。

 キューが属する“ノビサウルス”という種は自在に滑空する羽毛恐竜であり、その滑空する種から突然変異で出現したのがキューですから、「滑空しているノビサウルスという種から、飛翔できるキューが出現した」ということになるのだと思います。

 

 そのうえで、「地上で走りながら羽ばたいている種から飛翔できる種が出現した」という別の説にも、個人的にちょっと注目したいのです。

 というのも、『のび太の新恐竜』では、キューが地上で前肢を思いきり上下にバタバタと羽ばたかせるシーンが見られたのです。のび太がタイムパトロールに取り押さえられたさい、キューはのび太を助けようとタイムパトロールに突っかかっていきました。そのときキューは、前肢をバタバタと上下に運動させたのです。

 

 そのシーンがとても印象的だったものですから、「滑空している種から飛翔できる種が出現した」のがキューであるとするのが妥当と思いながらも、「地上で走りながら羽ばたいている種から飛翔できる種が出現した」という説にも、ちょっと思いを寄せたくなったのでした。

 

 前掲の本『そして恐竜は鳥になった』では、「地上で走りながら羽ばたいている種から飛翔できる種が出現した」という仮説に関する説明として、こんなことが書かれています。

 

実は、「腕を羽ばたかせる」という動作は限られた動物だけがもっている特徴である。つまり、腕(肩)を「上下に振る」という動作である。ヒトである私たちはなんの苦もなくその動作を行えるので実感がないかもしれないが、同じ哺乳類であっても、例えばイヌは腕を羽ばたかせることはできない。これはネコもウマもゾウも同じである。

 

 こういう説明を読むと、キューが完全に羽ばたいて飛べるようになる前のシーンで前肢を上下にバタバタと振る動作が見られたことに、相応の意味が感じられます。限られた動物しかなしえない“前肢を上下にバタバタさせる”動作を可能とする筋肉や骨格を備えて生まれてきたのがキューなのだと示すことになるのですから。

 私には、キューがその動作を見せたシーンがとても大事なものと思えます。

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 ところで、『のび太の新恐竜』では、キューが歴史上初めて羽ばたいて飛ぶことに成功した羽毛恐竜であるかのように描かれています。そして、キューの子孫が鳥類へと進化していったのだと、そんなふうなことが語られます。

 ですが、この現実の世界では、映画内でキューが初めて飛べたとされる時代(白亜紀の終わり=6600万年前)よりずっとずっと前に、すでに鳥類は出現していました。

 キューが初めて羽ばたいて飛んだその時代には、とっくに鳥類がいたのです。

 そのため、こんな批判が『のび太の新恐竜』に向けられました。

 

 6600万年前に羽毛恐竜が歴史上初めて羽ばたいて飛び、その後の時代に鳥類が出現することになる……というふうにこの映画は描いているが、それは時代設定としておかしい……と。

 

 まあ、おかしいことはおかしいのでしょう。歴史的事実と違いますからね。

 

 現在のところ、化石が発見されている最古の鳥類は、ジュラ紀後期(およそ1億5000万年前)に生きていた始祖鳥です。

 始祖鳥は現生鳥類の直系の祖先ではないようですが、現生鳥類の直接的な祖先も6600万年前の恐竜大量絶滅よりも前にすでに登場していました。それを証明する化石が見つかっています。

 この現実の世界では、キューが初めて羽ばたいて飛ぶことができた時代(=6600万年前)には、鳥類はすでに多様に存在していたわけです。

 

 それゆえ、『のび太の新恐竜』に対して「時代が正しくない」と批判する声が出てきたのです。

 

 たしかに、正しくないと言われれば正しくありません。 『のび太の新恐竜』がキューの初めて飛んだ時代を「隕石が衝突し非鳥類型恐竜が大量絶滅する6600万年前」に設定したことは、現実のこの世界で鳥類が誕生したとされる時代が「1億5000万年前」であることを思えば、なんとまあ大胆な時代改変だろう、と呆気にとられるところはあります。

 しかしながら、鳥類の進化には複雑多岐なプロセスがありますし、まだ分かっていないことだらけです。そんななか、「羽毛恐竜から鳥類へ進化していった」ことは定説化しているのですから、その定説を「キューが飛んだ!」という明快なシーンに集約させて感動的かつシンボライズに描いたのは、エンタメの手法として別に悪くないと私は思うのです。

 また、その時代改変があったおかげで「隕石衝突による大災害、恐竜大絶滅の危機、というスペクタクルな光景の真っ只中でキューがついに羽ばたいて飛べた!」という熱烈なクライマックスシーンを描けることになったわけで、そういうエンタメとしての盛り上げにはずいぶん貢献したのではないでしょうか。

 映画のウソのおかげで、現実にはありえなかったけれど途轍もなくエモーショナルな光景を見られたのです。

 ファンタジーの魅力です。

 

 それに、「羽毛恐竜から鳥類への進化」については、こんな話もあります。

 

・いま見つかってるなかでは「最古の鳥類」と言われる始祖鳥は、「ジュラ紀後期」に生息していた。

・そして、進化のプロセスで見れば「鳥類まであと一歩」の位置に属するデイノ二クスは、「白亜紀前期」に生きていた。

・さらに、翼を持つ恐竜のなかでは最も原始的な種類であるシノオルニトミムスやオルニトミムス(オルニトミモサウルス類)は、「白亜紀後期」の恐竜である。

 

 これはどういうことかというと、

 「羽毛恐竜から鳥類への進化」という観点で見た場合、比較的原始的な種類の羽毛恐竜が新しい時代(白亜紀後期)に生きていて、すでに鳥類である始祖鳥が古い時代(ジュラ紀後期)に生息していた…ということです。

 原始的な種ほど新しい時代にいて(新しい時代の地層から化石が見つかって)、それより進化した種であるはずの始祖鳥はもっと昔にいた(もっと昔の地層から見つかった)というわけで、「羽毛恐竜から鳥類への進化」という観点で見ると、出現の順番が逆転しているのです。

 

 鳥類(ジュラ紀後期)→鳥類まであと一歩の羽毛恐竜(白亜紀前期)→翼を持つ種では原始的な羽毛恐竜(白亜紀後期)

 

 という順番で出現しているのですね。

 

 この現象を、前掲の『そして恐竜は鳥になった』では「始祖鳥のパラドックス」と紹介しています。

 このようなパラドックスが発生することに対し、現時点では「化石記録の不完全性」という点から説明がつけられているそうです。当時の生物がすべて化石として残るわけではなく、また、そのすべてが発見されるわけではない、ということらしいです。

 現在定説とされている鳥類誕生のシナリオが正しいのであれば、始祖鳥が生息したジュラ紀後期より前の地層から各種の羽毛恐竜の化石が発見されるはずであり、研究者はその証拠を追い求めているところです。

 

 『そして恐竜は鳥になった』ではそういう解説がなされていますが、私見では、翼を持つ羽毛恐竜が進化して飛べるようになる現象というのは、ある一時代の一点のみで起きたことではなく、幅広い時代にわたってランダムかつ多発的に起きたのではないか…と想像します。ですから、『のび太の新恐竜』の舞台となった6600万年前というまさにその時代に「羽毛恐竜が羽ばたいて飛べるようになった!」という出来事があったとしても別におかしくはないのでは……と浅学ながら思ったりもするのです。

 

 さらにいろいろと調べてみると、

・始祖鳥より前の時代に生きていた「最古の鳥類」候補が中国遼寧省で発見されている。

・「始祖鳥は鳥類とは言えない」という説もある。

 

 といった情報も見つかりました。

 

 現在は恐竜学の進展によって、羽毛恐竜と鳥類の境界が曖昧になっているそうです。なので、「始祖鳥は鳥類か非鳥類型恐竜か」について見解の相違が起こったりしているようです。

 

 そんな状況ではありますが、今のところ、鳥類は「始祖鳥とそれより進化した鳥たち」と定義されています。羽毛恐竜と鳥類の境界が区別できなくなってきているのに、なぜ始祖鳥以前と以降を区分できてしまうのか?

 『そして恐竜は鳥になった』では、次のように説明されています。

 

現実問題として鳥類をどこかで定義しなければ、差し障りが出てくる。そこで「始祖鳥以降」という基準を人為的に設け、鳥類と定義している。

 

 鳥類を定義するために、始祖鳥を便宜的に「最古の鳥」ということに設定しているわけですね。

 

 そのように恐竜学は日進月歩であり、諸説わかれていて、恐竜学が進んだおかげで羽毛恐竜と鳥類の境界が曖昧になっています。ですから、素人では「これが決定的な知識だ」とはおいそれと言いがたいところがあります。

 そんななか、恐竜学の進展によって「鳥類は羽毛恐竜から進化して出現した」という説はますます確かなものになりました。『のび太の新恐竜』は、その「鳥類は羽毛恐竜から進化して出現した」という確度の高まった定説を多くの観客に印象的かつ感動的に伝えてくれたのですから、そのことだけでも私は「よくやってくれた!」とねぎらいたくなるのです。

 

 そして、「始祖鳥のパラドックス」のような現象が生じ、鳥類と羽毛恐竜の境界が曖昧となっている現在の学説状況を踏まえれば、『のび太の新恐竜』が鳥類誕生の時代を独自に設定したことに対して「それは間違った歴史だ!けしからん!」だなんて目くじら立てて怒ることもないのではないでしょうか……。

 と私などは思うわけですが、まあ、怒るのは自由ですし、批判すべきときにはしっかり批判しておくことも必要でしょう。

 でも、これは言わせてください。「『のび太の新恐竜』が描いた鳥類誕生の時代が間違っている!」と批判する方が依って立っている「正しい知識(羽毛恐竜の進化や鳥類誕生に関する知識)」にも、これまで見てきたとおり不確かなところがいろいろとあり、異論も出ており、日進月歩なところがあって、想像や推測が入り込む余地がけっこうありそうなのです。絶対的に正しい知識だとは言い切れない面をだいぶ残していそうです。

 他者の知識を批判する前にいったん立ち止まって、あるいは他者を批判したあとに自分を振り返って、「自分は本当に正しい知識の上に立っているのだろうか」「自分が正しいと信じているその知識はどれほどの確証性があるのだろうか」と自己懐疑や自己省察してみるのも、知的に有益な行為ではなかろうか、と思う次第です。

 

 などと私が言ってみたところで、『のび太の新恐竜』で描かれた「羽毛恐竜が初めて羽ばたいて飛べた時代」「鳥類が出現することになる時代」がおかしいことに変わりはありません。「時代設定がおかしいのは許せない!」と訴える方が掲げる正義の前では、私の言葉など軽々と粉砕されてしまう気がします。

 そりゃあ私だって、不正確な知識よりは正しいとされている知識を盛り込んだほうが、こういう進化とか恐竜とかを扱った作品はリアリティが補強されて完成度の高いものになるとは思いますよ。もっと言えば、科学とか歴史の知識をなるべく正しいと思われるかたちで盛り込んだうえで摩訶不思議な冒険の物語を紡ぎだす姿勢こそ、私が思う本来的な映画ドラえもんの魅力だったりもします。

 だけど、不正確なことを描いているからその作品を否定しようだなんて気にもなりません。「私が思う映画ドラえもんらしさ」から外れているからといって、批判の対象にしようとも思いません。批判するどころか、そうした作品にも大いに楽しめるものは多々あるのです。

 「私が思う○○らしさ」にこだわりすぎるあまり、そこからはみ出した作品を「はみ出した」ということだけを理由に排除・否定するような思考にはなるべく陥りたくありません。「私が思う○○らしさ」からはみ出した作品のなかに、私が思いもよらなかった未知の面白さが秘められているかもしれません。私の好みではないと思っていた作品、私のこだわりから外れている作品を、思いがけず楽しめてしまった!ということはいっぱいありうるはずです。(もちろん、そういう作品のなかには、面白くないと感じられたり、好きになれないものもまたいろいろと存在するでしょう。そして時には、「これは○○らしくない!」という理由で否定的感情を抱くこともあるとは思いますが…)

 

 ともあれ『のび太の新恐竜』は、「鳥類は羽毛恐竜が進化して出現した」という現在では有力な説をエンタメの手法で描いてくれました。私はそのことだけで「よくやった!」と称えたいです。

「羽毛恐竜から鳥類への進化」や「鳥類の誕生」に関する精細な知識については、この映画を観て興味を抱いた人がそれぞれ自分で学んで知っていけばよいのです。その方面への知的好奇心が芽生えない人であれば『のび太の新恐竜』で観た進化のことなんて忘れていくでしょう。エンタメとして楽しめたら、それ以上のことは観た人が好きにすればよいのではないでしょうか。

 

 この映画で描かれた恐竜・進化の知識をぜんぶ正しいものだと鵜呑みにして憶えてしまう方もいらっしゃるかもしれません。

 それについて、私はこう思っています。

 子どものころマンガやアニメで間違った知識を得、後年になって「あれは間違いだったのか!」と知ったときの「わー、やられたー」「見事に騙されてたー」という感情は、決して不愉快なものではありません。むしろ、「おいしいウソをついてくれてありがとう!」とその作品に感謝したくなります。

 正しさの呪縛(正しい知識を盛り込まなければならないという過度なプレッシャー)によってフィクションの自由が奪われてしまうほうが私には悲しい事態です。

 

 う~ん、なんだか今回は全体的に「『のび太の新恐竜』批判に対する私の反論」みたいな文章になってしまいました。『のび太の新恐竜』を批判する文章がバスっているのを見かけて、この映画を大いに楽しんだ側の言葉を(焼け石に水だとしても)1人分でも増やしておかねば…といった気持ちが私のなかに生起したようです。

 

 ここまで反論めいたこと書いきておいてアレですが、そもそものことを言えば、私は反論とか論争はあまりしたくないのです。反論するとなると、どうしてもためらいや恐れや苦手意識が生じます。

 ネット上の論争というのは、互いの論を理性的にぶつけ合ってより建設的な論に到達するなんてことは少なくて、どちらかといえば、感情的なののしり合いや相手の人格の否定し合いになったりすることが多く、あとに残るものは心の傷や不快感や虚しさばかりです。偏見かもしれませんが、私はそういう印象を持ってしまっています。

 

 私は、「この作品、面白かったねえ!」「このキャラクター、魅力的だったなあ!」「このシーンのここが素晴らしいよねえ!」と楽しいことを和気あいあいと話していたいのです。

 

 原則として、誰かが『のび太の新恐竜』を好きなら好きでいいし、嫌いなら嫌いでよいのです。作品を楽しめたなら幸いだし、楽しめなくてもまあそういうことは多々あるでしょう。

 私だって、嫌いなものを無理に好きになれと言われたくありません。相手の好き嫌いの感情を尊重しつつ、自分の好き嫌いを尊重してもらえるのが望ましいと思います。

 私の好きなモノを誰かが嫌っている、誰かの好きなモノを私が嫌っている、なんてことは、そこらへんにゴロゴロ転がっている普通の現象ですからね。

 そのうえで、好きなモノが誰かと一致すれば、それはとてもラッキーでとてもうれしいことです。また、お互いに何かしらのかたちで影響し合うことで、嫌いなモノが自然と好きになったりすれば、それもまた素敵なことと思います。

 

 ただ、今回私が恥ずかしながらちょっとムキになってしまったのは、拝読した『のび太の新恐竜』批判のなかに、この映画は道徳的・倫理的に問題だ!みたいな意見があり、その意見が多くの人に読まれて共感を得ていたからです。そんなことを言われてしまうと、この映画を肯定的に楽しんでいる人(つまり私)の道徳や倫理までも問われているようなものじゃないですか。そんなところまで責められたくないぞ、という感情がむくむくとわき起こり、『のび太の新恐竜』にはそこまで言われるほどの問題はないですよ!ということを書き残しておきたい衝動にかられたのです。

 『のび太の新恐竜』には問題があるどころか、

・鳥類は羽毛恐竜が進化して出現した、という現在では定説化した学説を物語のなかに感動的に取り込んだ

・恐竜モノの作品によく登場するアメリカやヨーロッパの恐竜ではなく、アジア圏の恐竜たちをいろいろと登場させた

 という点で(取り込み方が科学的に精密ではなかったというだけで)、恐竜映画の歴史のうえで新しいことをやってくれたのではないか、と私は評価したいです。

 

 

 ただ、「『のび太の新恐竜』で描かれた鳥類誕生の時代設定がおかしい」という批判があったおかげで、そのことについて自分なりに考えをめぐらせることができたのは幸いでした。批判があったがゆえに、そのことをあらためて考える楽しみを得られたのですから、その点は実にありがたいと思っています。

 

 

 ■映画『のび太の新恐竜』感想【その1】「泣く準備はできていた」

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/10/19/204541

 

 ■映画『のび太の新恐竜』感想【その2】「羽毛恐竜キューの生態に思いを馳せる」

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/10/20/121759

 

 ■映画『のび太の新恐竜』感想【その3】「キューの“進化”に考えをめぐらす」 

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/10/27/191513

 

 ■映画『のび太の新恐竜』感想【その4】「鳥らしさを愛でる」

 https://koikesan.hatenablog.com/entry/2020/11/02/181753