藤子・F・不二雄先生の異色短編『ノスタル爺』

 藤子・F・不二雄先生の異色短編『ノスタル爺』が、期間限定で無料配信されています。

 https://dora-world.com/contents/1766

(『ノスタル爺』の公開は2月13日(土)午前10時まで)

[期間限定]

STAY HOME特別企画!

まんが無料配信!

ドラえもん」はじめ藤子・F・不二雄作品を公開中!!

 

[現在配信中の作品]2/9(火)AM10時~2/13(土)AM10時

「きこりの泉」(てんとう虫コミックスドラえもん」36巻より)

「見た!パー子の正体」(てんとう虫コミックスパーマン」7巻より)

「ノスタル爺」(藤子・F・不二雄SF短編集Perfect版2巻より)

 

 公式的に無料公開されたおかげで、いま『ノスタル爺』がSNSでおおいに話題にのぼっています。

 主人公の浦島太吉は、自分の人生において掛け替えのない大切なもの(結婚相手と故郷)から戦争によって引き離され、そのあげく30年ぶりに帰国してみれば、何より大切なものの一切合切が完全に失われている事実を突きつけられます。

 ところが、通常ならありえない奇跡的な現象が太吉の身に起きて、失った大切なものをごっそりと取り戻すことになりました。溺れるように全身全霊で郷愁にひたる太吉……。

 

 私がこの短編マンガを初めて読んだのは、中学生のころでした。

郷愁」という感情の精髄、「郷愁」に内包された本質的で甚大な力のようなものをヒシヒシと感じたのをおぼえています。

 そのとき抱いた私の感情は、感動と言えるだろうし驚きとも衝撃とも言えますが、それまで味わったことのない独特の心の振動が私のなかに生じた記憶があります。

 

 自分にとって人生の根幹となるような大切なものが完全に過去のものとなり、永遠に失われ、もう二度と絶対に取り戻すことはできない……。

 そのはずだったのに、それら失ったものを奇跡的に取り戻すことができたとしたら……。

 いったんは失ったものの重要さ、大きさ、懐かしさを思えば、何があってももう二度と絶対に手放したくない!と思うのは自然な感情の流れでしょう。

 

 懐かしくてたまらないもの、思い残したもの、いったんは失ったもの、もう帰ってこないはずだったもの……。浦島太吉はそうしたものたちを奇跡的に取り戻し、深く果てしない思いに浸ります。郷愁です。何ものにも替えがたい、ほんものの、絶対的な郷愁。

 そんな深甚な郷愁に心身を浸してしまえば、「今後自分がどんな不遇な身に落とされても、奇跡的に取り戻した大切なものたちをもう決して失いたくない!」という思いに満たされるでしょう。そしてその思いは、しだいに動かしがたい強固なものになっていくでしょう。

 太吉は、取り戻したものを失わないための決断をします。

 客観的に見れば、彼のその後の人生が台無しになる世捨てのような決断です。しかし太吉には、それこそが失った妻と故郷と自分の時間を取り戻し己の全身全霊を満たしていく最善にして唯一の方法だったのでしょう。もうそれしかなかったのです。

『ノスタル爺』の作品空間に充満しているのは、そういうたぐいの深甚な郷愁です。その圧倒的な感情に触れて、私は心が震えました。

 

『ノスタル爺』で描かれた太吉の郷愁は、そのように特別な力と意味を有していて、単純に一般的な郷愁と比べることはできません。しかし、太吉の郷愁じゃなくとも郷愁というものは本質的にそういう力を潜ませているものではないか…と私は本作を読んで感じたのです。

 それを「郷愁力」だなんて言いあらわすと言葉が軽くなってしまいそうですが、ともあれ、郷愁がもつ力の侮りがたさがじわじわと胸に浸透してきます。

 

 

 『ノスタル爺』を読むと、「抱けえっ!!」という短い言葉がインパクトをもって強く心に刻まれます。その「抱けえっ!!」と同じくらい「それはそこにあった」も初読時の私にはインパクトがありました。ビシッと鮮烈に心に刻印されたのです。

 目の前でありえないことが起こっていて、そのありえない現象にSF的なロジックや理知的な説明はまるで加えられないのに、「それはそこにあった」というごく短い言葉だけで私はすべてを説得されてしまいました。

 

「抱けえっ!!」の叫びは、この物語を初めて読んだときと次に読むときとでは印象ががらりと異なって感じられ、「抱けえっ!!」と叫ぶ爺さんの表情から受け取れるニュアンスもまた違って感じられます。その意味で2度読み必定の作品ですね。

 

 奇跡的な現象が起きて、溺れるように郷愁にひたる太吉の耳に聴こえてきたのは、幼い里ちゃんの歌声。こーこはどーこの細道じゃ…。

 このシーンもおそろしいくらい私の心に迫ってきました。

 幼い里ちゃんの歌声が、この作品を読む私の耳にも物理的に聴こえてきたような“それはそこにあった”感を味わったのです。自分のいるこの現実の部屋が、里ちゃんの歌声以外は無音になったような不思議な感覚でした。

 

 浦島太吉は、太平洋戦争の終結を戦地で迎えたものの、終戦を知らぬまま孤島のジャングルで30年間生き抜いて日本へ帰ってきた元日本兵として描かれています。

 この太吉の設定からは、戦後28年間にわたりグアムのジャングルで潜伏生活をおくっていた元陸軍軍曹の横井庄一氏や、フィリピン・ルパング島のジャングルに潜んで暮らし戦後29 年目に生還した元陸軍少尉の小野田寛郎氏が思い出されます。

『ノスタル爺』が発表されたのは「ビッグコミックオリジナル」1974年2月5日号においてです。横井氏は1972年1月24日に発見され同年2月2日に帰国、小野田氏が日本へ帰国したのは1974年3月12日です。

 ということは、『ノスタル爺』が描かれた時期は小野田氏が帰国する少し前のことになります。その時期は、小野田氏が帰国することになる!といった報道が活発になされて旬の話題だったのかもしれませんね。しっかり調べたわけじゃないので確かなことは申せませんが…。

 

 そして、浦島太吉のネーミングの由来はもちろん「浦島太郎」です。太吉の故郷であり浦島一族が暮らしていた「立宮村」のネーミングは当然ながら「竜宮」から来ているのでしょう。

 

 1970年代のある期間の藤子マンガ(F・Ⓐ作品とも)に見られる緻密で抒情的な風景は、当時アシスタントだった高峰至先生が描かれていることが多く、たとえば『みどりの守り神』のジャングル化した新宿高層ビル群や『愛ぬすびと』の雨の降りしきる室生寺などが高峰先生のお仕事です。そして『ノスタル爺』の土蔵も(たぶん、土蔵以外の田舎の家屋なども)高峰先生が手がけておられるそうです。そうした実在感のある田舎の風景描写が、主人公に起きた奇跡「それはそこにあった」にいっそうの説得力を与えています。

 

 藤子F先生は、『ノスタル爺』で扱った「終戦を知らずジャングルで潜伏生活を送った元日本兵が日本へ帰還したら、故郷の村はダム建設で水没、大切な人も亡くなっていた…」というモチーフを、エスパー魔美「生きがい」でも取り上げています。

「生きがい」の初出は「少年ビッグコミック」1980年7月25日号です。藤子F先生は『ノスタル爺』で一度扱ったモチーフを6年半ほどのちに『エスパー魔美』で再び手がけ、『ノスタル爺』よりすっきりした前向きな結末を用意しました。“故郷を失った元日本兵”が物語のなかでより救われる結末を描いたのです。

 

『ノスタル爺』の“故郷を失った元日本兵”浦島太吉は、奇跡的に取り戻した過去に強く強く執着してそこから離れないでいようと世捨て人のような道を選びました。それに対し『エスパー魔美 生きがい』の横沢元二等兵は、失った過去に自分なりのケリをつけ前向きに第二の人生を歩んでいこうとします。

 世を捨て過去にとどまり続ける『ノスタル爺』と、社会の一員として未来を向いて歩き出す『エスパー魔美 生きがい』。“故郷を失った元日本兵”が物語のラストで取った選択は、そのように実に対照的です。

 

 むろん、『エスパー魔美 生きがい』のほうがモヤモヤせずすっきりとしたハッビーエンドを迎えるわけですが、『ノスタル爺』のほうも、それはそれで浦島太吉にとっては彼がそのとき取れる最善の道を選んでおり、二度と失いたくない故郷を死ぬまで失わずにすんだのですから、どちらが幸か不幸かは一概には言えないでしょう。

 ただ、これだけは言えましょう。

エスパー魔美 生きがい』が健全にすっきりと希望的なラストを迎えられたのは、やはり横沢元二等兵が魔美ちゃん&高畑さんとたまたま出会えたことが非常に大きいのだと。その出会いがあって、ほんとうに幸いだったと思うのです。

 

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・ゴールデン・コミックス『異色短編集4 ノスタル爺』(小学館

 私が『ノスタル爺』を初めて読んだのはこの単行本です。

 この巻に限らず、ゴールデン・コミックス異色短編集はどの巻も藤子先生が描いたのではないシリアスでミステリアスな画が表紙を飾っています。その表紙に加え、異色短編集の「異色」という語の響きが心に刺さって、未熟な私にはまだ早い世界を覗くような、なにかイケないものを見てしまうような、そんな感覚で単行本のページをめくったのをおぼえています。

 そして、実際に読んだひとつひとつの作品の内容にも、なにかイケないものを見てしまった感じを受け、カルチャーショックというか、自分の足場が揺らぐような驚きや衝撃をくらうことになったのです。