映画ドラえもん『新・のび太と鉄人兵団』感想

■拙著『ドラえもんは物語る 藤子・F・不二雄が創造した世界』(社会評論社)が、Amazonの16日(金)の「コミック・アニメ研究」カテゴリでベストセラー1位だったようです。
 https://twitter.com/#!/ComicsBook_Best/status/180668778856726529
 Amazonが扱う本全体の中での順位は大したことがないのでしょうけど、一日だけ・特定のカテゴリの中だけの結果であっても「1位」というのはやはり非常に嬉しいです^^ 皆様、ありがとうございます。
 

ドラえもんは物語る―藤子・F・不二雄が創造した世界

ドラえもんは物語る―藤子・F・不二雄が創造した世界

■昨日(16日・金)、映画ドラえもん『新・のび太と鉄人兵団 〜はばたけ天使たち〜』がテレビ朝日系列で放映されました。
 この作品は、リニューアル(声優交替)後の映画ドラえもんでは最高傑作と評価されることが多く、私も気に入っています。藤子・F・不二雄先生没後の映画ドラえもんまで含めても、私にとっては最高位の作品です。
 今回、あらためてテレビで鑑賞したわけですが、やはり素晴らしかった。感銘を受けました。(エンディングのカットの仕方などテレビ放送上の難は感じましたが、作品そのものは素晴らしいです)
『新・のび太と鉄人兵団』テレビ放映を記念して、私が昨年書いた本作の感想をここに載せたいと思います。この文章は、藤子不二雄ファンサークル ネオ・ユートピアの会誌(51号)に投書した原稿を若干改稿したものです。


(以下、映画ドラえもん『新・のび太と鉄人兵団』の感想です。作品の結末にも触れているのでご注意ください)


 映画ドラえもん『新・のび太と鉄人兵団 〜はばたけ天使たち〜』を観た。良質なリメイク作品だった。傑作と名高いオリジナル作(原作マンガおよび旧映画)の要所を的確に掬い上げながら、下手をすると蛇足になりそうな新要素をうまく『鉄人兵団』の物語に溶け込ませていた。劇場で鑑賞し終えたとき、「これぞ映画ドラえもん!」という深い納得感がもたらされた。


ドラえもん』の世界観の中に巨大ロボットが入り込んだら……という状況が、この作品の序盤を占める魅力だ。巨大ロボット“ザンダクロス”の外観や動作や巨大感を目にしているだけで、ずいぶんと楽しめる。ザンダクロスの部品を運んだり組み立てたりする場面から醸し出されるウキウキとした雰囲気、完成したザンダクロスが住宅地の中に屹立したときの圧倒的な“日常の中の非日常”感、ザンダクロスが動き出して一歩を踏み出すときのワクワクするような驚異……。そうしたところが、とても魅惑的だった。
 ザンダクロスがバレエを踊ったりガクッと頭を垂れたりする動きもよかった。ザンダクロスの外観がメカニカルでかっこよく描かれているため、その外観にバレエの動きや頭を垂れる動作が似合わず、似合わないことによって絶妙なユーモアが生み出されていた。
 処刑されかけた美少女ロボット“リルル”をザンダクロスが救出に来たときは胸に熱いものが込み上げてきたし、終盤、鉄人兵団との最終決戦でザンダクロスの活躍が繰り広げられたときは「こういう場面が観たかった!」と思わせてくれた。鉄人兵団のおびただしい兵力の前でボロボロになり、それでもなお戦おうとするザンダクロスの姿に泣けた。


 鑑賞前の不安材料だった新キャラクター“ピッポ”の扱い方が思いのほか悪くなかったのも、本作成功の見逃せない因子だろう。事前情報の中で、いかにもかわいらしくデザインされたピッポの姿を目にしたとき、そして、ジュドの電子頭脳がマスコットキャラクター化されるという設定を知ったとき、私は落胆した。ピッポは名作『鉄人兵団』の世界にはそぐわない異質な存在に見えたし、作品のストーリーやテーマやムードを損なってしまう負のパワーをみなぎらせているように感じられた。
 それがどうだろう。実際に作品を観ると、不安材料でしかなかったピッポがけっこう巧みに作品世界に溶け込んでいたのである。作品のテーマを補強することにも貢献していたし、鑑賞者の感情移入を誘う働きもしていた。映画を観る前と後とで、ピッポに対する印象が大きく変わった。私にとって、これほど鑑賞前後で印象がガラリと変わったキャラクターは珍しい。鑑賞前は、ピッポのぬいぐるみなんて要らない、と思っていたのに、後になって何だか欲しくなり、結局劇場の売店で買ってしまったほどだ(笑) 
 ピッポという新キャラクターを投入して本当によかった、と手放しで礼賛することはできないけれど、「ピッポを加える」ということが(大人の事情などで)不可避な前提条件だったと考えれば、異質に見えるピッポを見事に『鉄人兵団』の世界に融合させたスタッフの手腕に感嘆するばかりである。鑑賞前ピッポに抱いていた抵抗感や嫌悪感はおおむね拭われ、なかなか良いキャラクターだったな、と素直に感じられるようになった。


 ピッポという新要素が加わったことで、こんなことも起こった。もともとメカトピアで「ジュド」と名付けられていたロボットが、地球に来て「ザンダクロス」「ピッポ」という二つの別名を与えられることになったのだ。ジュドの身体部分にザンダクロス、頭脳部分にピッポという名前が付けられたのである。一体のロボットが、ジュド、ザンダクロス、ピッポという三つの名を持たされることになったわけだ。
 こうした、一つの存在が三つの名前に引き裂かれた状態は、劇中でうまく扱わないと、ただ混乱を招いたり無意味な設定に堕したりするだけになって、作品をダメにしてしまうおそれがあるのだが、本作は、その三つの状態の差異や意味合いを巧みに描き出していた。「自分はジュドである」ということに強い愛着と矜持を持っていたジュドの頭脳部分が、ピッポと名付けられてのび太たちと交流するうちに、「メカトピア国民としての自分」と「地球人と心を通わす自分」との間で揺れ動きはじめる。自分はピッポではなくジュドなんだ、と主張しながらも、自分を友達として受容してくれるのび太たちの側へ次第に心が移っていく。
 ジュドであった“彼”は、ピッポという名前を正式に名乗り出したわけではないが、ピッポとしてのび太たちに愛される自分を本当の自分だと感じるようになっていった。そうして、のび太たちに協力して鉄人兵団と戦うまでになり、最後にはピッポという名を心から好きだと感じるのである。
 本作はそのように、ジュドなる自分とピッポなる自分との間で葛藤しながら気持ちを変えていく“彼”の心理をこまやかに描き出していた。


 ジュドの頭脳部分であるピッポは、身体部分であるザンダクロスと対極のイメージを帯びることによっても存在感を獲得していた。
 ザンダクロスは、頭脳が搭載されないことで「人間に操縦されるロボット」となった。自分の意思を持たないそうしたザンダクロスの機械的なクールさと比べ、感情豊かで生き物っぽさがあふれるピッポは、じつに対照的なイメージを帯びている。
 マシン然とした巨大ロボット「ザンダクロス」と、マスコットキャラ然としたヒヨコ姿の「ピッポ」とが、ストーリーの終盤で一体化して鉄人兵団と戦うことになる。その最中、“彼”のことを「ジュド」と呼ぶリルルとの交信も行なわれる。ここに来て、三つに分裂していたジュドとザンダクロスとピッポがひとまとまりの統合体となり、“三つに引き裂かれた名前”の物語が終結を迎えるのである。


 ピッポが作中世界に加わったことで、オリジナル作ではリルルだけが担っていた“のび太たちとコミュニケーションする鉄人兵団側のロボット”という役回りが、ピッポにも分割されることになった。そのため、リルル単独の存在感が薄らいだ面もあれば、リルルの性格や背景が独自に掘り下げられる面もあった。オリジナル作で感じられたリルルの冷たさや怖さがマイルドになったのは少々残念だが、それでも、リルルというキャラクターが強く毀損されるほどの悪影響はなかったし、『新』のリルルはリルルで魅力的だった。リルルと初遭遇したしずかやのび太たちが頬を赤く染める描写は、リルルのとびっきりの美しさを伝えてくれるもので好ましかった。リルルが鉄人兵団の総司令官に、地球人を奴隷にする計画の間違いを訴える場面では、目頭が熱くなった。


 ピッポとリルルの両者が劇中に登場することで、ストーリーの後半で「ピッポのび太」「リルルとしずか」という二つの心の交流が重点的に描かれることになり、そのうえで「ピッポとリルル」の心の交流も加わることになった。その状態が、リルルとピッポが消えていくクライマックス場面へと有機的につながっていく。今にも消えていこうとするリルルとピッポの姿を交互に映しながら、二人が心を通わせるさまを描いたクライマックス場面は、それ以前の場面で二人の心の変化や共振がこまやかに描かれてきたからこそ、より深みを増して感動を誘うものになったのだ。


 最終場面。生まれ変わったと思われるリルルとピッポが翼で羽ばたきながらのび太の前に一瞬だけ姿を現す。その瞬間、私の頭の中で、この場面と「はばたけ天使たち」という副題とが結びつき、「ああ、そういうことか!」と腑に落ちた。その腑に落ちた感覚を保ちながら、エンディングをうっとりと味わうことができた。このときの満足感も大きかった。
 もう少し「天使」という要素に意識を凝らすと、『新・鉄人兵団』の追加要素である「リルルの磔」の場面が意味ありげなビジョンとして私の中に立ちのぼってくる。「創世記」になぞらえたアムとイムのエピソードをはじめ、自己犠牲による救済や天使などの因子を持つこの映画において、リルルの磔はイエスの十字架を思わせる非常にシンボリックな画像だと感じられてくるのである。