オバQ=のらくろ?

 4月8日の日記で、「子ども漫画論 『のらくろ』から『忍者武芸帖』まで」について書いた。
 この本は、藤子不二雄作品では『オバケのQ太郎』をとりあげているのだが、その中で著者の藤川治水氏は〝オバQのらくろの変身ではないか〟と述べ、オバQが犬を怖がるのは彼が同族に正体を見破られることを警戒しているからなのだ、との考えを披瀝している。藤川氏が〝オバQのらくろの変身〟と考えるのは、オバQの着ている服のすそをまくるとそこに丸い3本指と黒いすねの足が見え、その足がのらくろの足に似ているからである。
 もちろん、オバQの正体がのらくろのはずがない。藤川氏とて本当にそう信じ込んでいるのではなく、漫画史におけるキャラクター系譜でオバQのらくろの流れを汲んでいるのだということを比喩的に表現したにすぎないのだろう。
 藤川氏はそのあと、こう論を続けている。

政治の具に供されたこともあった痛ましい漫画主人公のらくろの歴史的教訓を、そのまま袋をかぶせることで正体不明のものとして再生させ、そして、漫画の長所は主人公ではなくてその行動にあるんだと強調し、だからおばけに造りあげたんだ、と自己証明しそうなオバQ

 8日にも書いたように、藤川氏は漫画を論じるとき、どうしても政治思想や教育効果などと絡めて語る傾向にあり、ここでも『オバQ』という作品を〝戦争に利用された『のらくろ』の反省から、無党派アナーキストになって再び登場した『のらくろ』的なるもの〟という観点でとらえているようだ。



 それはそうとして、本書になかなか興味深い資料が載っていたので紹介したいと思う。
 藤川氏によると、「『オバケのQ太郎』が街中に出現したころ、大学生が漫画を読むということでジャーナリズムが騒いだ」そうである。もう少し時代がくだると、「少年マガジン」が大学生の愛読誌として騒がれるようになるのだが、本書が執筆された時点では「少年サンデー」のほうが社会現象になっていた。つまりその当時は、「マガジン」よりも「サンデー」が売れていたのである。
 そうした情勢の中で慶応大学漫画クラブが都内の大学生453人を対象に漫画家の人気ランキングを調べていて、その結果が本書に掲載されている。昭和40年の調査結果である。

1位:長谷川町子
2位:手塚治虫
3位:赤塚不二夫
4位:小島功
5位:藤子不二雄
6位:佃公彦
7位:横山光輝
8位:トシコ・ムトー
9位:白土三平
10位:富永一朗

 この10名のうち、手塚、赤塚、藤子、横山の4人は、当時「少年サンデー」に連載を持っていた。まさに「少年サンデー」の黄金時代を象徴する顔ぶれだ。
 ところが、このあと数年のうちに、少年漫画に劇画をとりこんだ「少年マガジン」が急激に勢いをつけ、発行部数で「少年サンデー」を抜き去ることになる。そうした中で、手塚先生や藤子先生が描くような、簡潔で丸っこい絵柄の児童漫画が時代遅れとみなされるようになり、両先生は人気面・精神面で長いスランプに突入することになる。ことに、手塚先生と、藤子先生のうちの藤本(藤子・F・不二雄)先生の苦悩は深かった。
 藤本先生は、丸っこい絵柄の児童漫画の時代が終焉を迎え、もう自分が人気漫画家として再浮上することはないかもしれない、と暗澹たる気持ちでこの時代をすごし、その気持ちは、昭和48年に「ビッグコミック」で発表した『劇画・オバQ』に色濃く反映されている。
劇画・オバQ』のラストでQちゃんが「正ちゃんはもう子どもじゃないってことだな……」と寂しげにつぶやくが、これは当時の藤本先生の「もう子ども漫画の時代じゃないってことだな……」という実感を強く投影したセリフである。また、タイトルに「劇画」という語を使い、登場人物の描線もいつもとは違う劇画タッチにしたのは、自分の作品にとってかわって少年漫画界を席捲する「劇画」というものに対する、一種の敗北宣言であり、シニカルなパロディであり、そのほか諸々の複雑な感情の発露だったにちがいない。
 そんなスランプの期間について、手塚先生は、『ブルンガ1世』を描いていた昭和43〜44年ごろから『ブラック・ジャック』を描きはじめる昭和48年までが「長い長い冬の時代」*1だったと述べ、藤本先生は「昭和44年から49年ごろがどん底だった」*2との言葉を残している。そして、藤子不二雄のもう一方である安孫子藤子不二雄A)先生はといえば、この時代、念願だった「ブラック・ユーモア短編」を青年誌に続々と発表し、話題作『劇画毛沢東伝』を上梓、女性週刊誌や劇画誌などにも連載をもって、活躍の場を多岐に広げていたわけだが、そういう状況について「〝青年コミック〟という寄り道にさまよっている間に、本筋である〝少年漫画〟を忘れていた」*3と書いている。


 さて、「子ども漫画論」の内容から少し話が逸れてしまったが、本書の『オバQ』関連部分で注目すべきことは他にもあって、それは、小学館の婦人雑誌「マドモアゼル」に連載された『オバケのQ太郎』の図版が1ページのみだが掲載されている点である。
オバケのQ太郎』は、昭和39年に「週刊少年サンデー」で連載がスタート、一時的な中断を経て再スタートを切ったのち爆発的な人気を博し、「小学一年生」〜「小学六年生」「幼稚園」「よいこ」などの学習雑誌にも連載の場を広げていった。さらに昭和41年1月号から、「マドモアゼル」「女学生の友」*4といった女性向けの雑誌でも連載がはじまったのだった。
 この「マドモアゼル」版『オバケのQ太郎』は、今から数年前、ある熱心な藤子ファンの方が発掘し藤子不二雄ファンサークル「ネオ・ユートピア」の会誌でとりあげるまで、誰にも知られていないに等しい状態で埋もれていた作品で、それだけに、そんな幻の作品が「子ども漫画論」で紹介されているのを見て、少し驚いたわけである。
 本書は、本文中でもわずかながら「マドモアゼル」版『オバQ』に言及していて、「昭和四十一年度より、「少年サンデー」で誕生して二年にも満たないオバQは、ミス雑誌「マドモアゼル」にも登場した。この新しき市場で萎縮するか、はたまた、行動半径をか拡大させるか、これはまた読者の支援如何による(後略)」と、新しい活躍の舞台を得た『オバQ』の先行きを気にかけている。

*1:手塚治虫漫画全集「ブルンガ1世」2巻(昭和58年/講談社

*2:季刊「UTOPIA」9・10合併号(昭和57年/藤子不二雄公認ファンクラブ・ユートピア

*3:「二人で少年漫画ばかり描いてきた」(昭和52年/毎日新聞社

*4:「女学生の友」連載時のタイトルは『オバケのP子日記』