先日、藤子ファン仲間から「A先生のブラックユーモア短編のなかで好きな作品は?」と尋ねられた。
私は、藤子不二雄A先生が昭和40年代に発表した〝ブラックユーモア短編〟と呼ばれる作品群に強く心酔していて、どれもこれも好きなものばかりなので、そのなかからベスト1とかベスト3を選び出すのはそうとう困難な話だ。困難ながらもあえて選ぶとすれば、間違いなく上位にくる作品のひとつが『マグリットの石』である。
『マグリットの石』は、「ビッグコミック」昭和45年5月10日号で発表された作品で、そのタイトルが示すとおり、シュルレアリスムの代表的画家、ルネ・マグリット(1898〜1967年/ベルギー)の絵画を直接的なモチーフとしている。
『マグリットの石』の主人公・陰間鏡二は、ぼさぼさの髪の毛に丸い眼鏡の冴えない浪人生。近所の主婦からは変人だと思われている。
陰間は、古本屋でたまたま手にしたマグリットの画集を開き、そこに掲載された空に浮かぶ巨大な石の絵(『ピレネーの城』)を一目見て、精神の安定を掻き乱されんばかりの衝撃を受ける。彼はすっかりマグリットの石の絵に取り憑かれ、古本屋を出てもその絵が頭から離れなくなる。
そしてついには、自室の窓から覗き見た空に巨大な石が浮かんでいる光景を、まざまざと目撃するに至るのだ。
インパクトのある視覚体験があとあとまで脳裏に焼きついて離れなくなったことは私にもあるし、その視覚体験が睡眠時に見る夢のなかで妙にクリアに再現されたこともある。とはいえ、空に浮かぶ巨大な石をリアルに見てしまった陰間のように、現実には存在しないものを本当に存在しているかのように知覚してしまうとなると、これは完全に「幻覚」の領域になるわけで、残念ながらというべきか幸いにしてというべきか、私はまだ、これぞ幻覚体験だと言えるような幻覚を目にしたことはない。ささいな目の錯覚とか見間違いならよくあるのだが。
藤子A先生は、2002年9月7日、名古屋市美術館でマグリット展が開催されたのを記念して「マグリットの石」と題した講演を行なっている。その講演のなかでA先生は、マグリットの絵全般に見られる特徴として、「非常にリアルなタッチでシュールなイメージを描いている」と述べた。また、「ひとつひとつの物は具象的に描かれているのに、出来上がった絵は抽象的な世界になっている」「絵の内容とタイトルが合致していない」といった意味の発言もあったように記憶している。A先生はそうした特徴を〝ミスマッチの魅力〟と表現し、それはマグリットが内面に隠し持っていた〝いたずら心〟の顕在化だろう、と分析していた。
そんなマグリットの絵に強く触発されたン十年前のA先生は、自分の内面にある〝いたずら心〟をいかんなく発揮し、自己流の〝ミスマッチの魅力〟を演出したいと思われたのだろう。そうした動機から「パッとしない予備校生の日常に量感と質感あふれるマグリットの石の図版を入れ込む」という発想が生まれ、ブラックユーモア短編『マグリットの石』を執筆されたのではないだろうか。
ところで、マグリットをはじめとしたシュルレアリストたちが、もっとも有効とみなし実践していた表現原理のひとつに「異境送り(デペイズマン)」というものがある。異境送りとは、現実の日常的な世界では決して起こりえない物と物、イメージとイメージとの出会いによって、そこに新たな美しさや驚きを現出させる芸術的手法のことで、19世紀の詩人ロートレアモンが彼の詩集に記した「解剖台の上の、ミシンと洋傘の偶然の出会いのように美しい」という一節が、その概念をよく言い表している。
私は、その異境送りの現象が『マグリットの石』の作中で生じているのを強く感じる。地味で影の薄い予備校生と、存在感に満ちた巨大な石との不条理な出会いは、私の存在をありきたりの日常から異境へと送り出し、目覚めながらにして見る夢を私に突きつけてくるのである。
ただし、『マグリットの石』が連れていってくれる異境は、いま私がいる現実からはるか遠い非現実の世界ではなく、平凡な日常と紙一重の差でズレているだけの近接した世界だった。そしてまた、この作品が突きつけてきた夢は、主人公の陰間に自分を否応なく投影してしまう私にとって、痛切に身につまされる悪夢であった。日常と紙一重の差しかない世界で見せられる、わがごとのような悪夢。10代の頃の私には、『マグリットの石』で描かれた陰間鏡二の行く末が自分自身の近未来像であるかのように感じられてならなかった。
しかし現在に至っても私は、陰間のように境界線を完全に踏み越えてあちらの世界へ行ってしまう、というレベルには達していない。心の状態が病的な一方向へ極端に振り切れてしまった陰間と比べれば、私の心などそうとう健全な範疇に入るだろう。
たしかに『マグリットの石』は、10代の私にとって精神の根底を狂おしいほどに揺さぶるような差し迫った作品であったのだが、歳を重ねるにつれ、そんな身を切られるような切迫感はあまり感じなくなってきた。今ではむしろ、ブラックユーモアのユーモアの部分をやわらかく受けとめ、作中から浮かぶひねくれた笑いを娯楽的に堪能できるようになっている。
それでも『マグリットの石』を読み返せば10代のころ抱いた危うい感情の断片が蘇ってくることはくるわけで、この作品は依然として私に痛々しいリアリティを突きつけてくる。
『シュルレアリスムと芸術』『シュルレアリストたち』などの著書がある巌谷國士氏によると、シュルレアリスムとは、現実離れした空想世界や現実から遊離した別世界ではなく、我々がいるこの現実に内在した「強度(シュル)の現実(レアリテ)」であり、ときとして、我々が現実だと仮に思っているものの中から露呈するものであるという。私にとって『マグリットの石』で描かれた世界は、まさに、現実離れした絵空事などではなく、現実のどこかに潜んでいて、何かの拍子に剥き出しになって襲いかかってきそうな強度の現実なのである。
『マグリットの石』データ
●ページ数:20ページ
●初出雑誌:「ビッグコミック」昭和45年5月10日号
●単行本
・サンミリオンコミックス「ひっとらぁ伯父サン」(昭和46年/朝日ソノラマ)
・ソノラマ漫画文庫「ひっとらぁ伯父サン」(昭和51年/朝日ソノラマ)
・愛蔵版「ブラックユーモア短篇集」2巻(昭和63年/中央公論社)
・中公文庫「ブラックユーモア短篇集」1巻(平成7年/中央公論社)
・ChukoコミックLite「ブラックユーモア短篇集」1巻(平成14年/中央公論新社)