「りっぱなパパになるぞ!」放送

 アニメ『ドラえもん』4月28日放送分のBパート「りっぱなパパになるぞ!」のレビューです。


【原作】

初出:「小学六年生」昭和52年3月号
単行本:「てんとう虫コミックス」16巻などに収録

 現在ののび太が、25年後ののび太に会いに行く話。
 今この作品を読んで思うのは、45年後ののび太が現在ののび太に会いにくる話「45年後…」*1との連関である。25年後ののび太が登場する「りっぱなパパになるぞ!」と、45年後ののび太が登場する「45年後…」は、どちらも大人になったのび太の言動から藤子・F・不二雄先生の人間観がにじんでいて、この両作はその人間観という点で呼応しあっていると感じるのだ。


「りっぱなパパになるぞ!」のなかで、25年後ののび太と現在ののび太がこんな会話をしている。

25年後ののび太「失敗しては反省し、また失敗しては反省し…。その繰り返しさ。なおったのは近眼だけ。」
現在ののび太「じゃあ いつになったら りっぱなおとなになれるの?」
25年後ののび太「さあね…。ひょっとして一生、今のままかもね。」
現在ののび太「くるんじゃなかった。」
25年後ののび太「そうがっくりするなって。少しずつでもましにはなってきてるから」

 そして「45年後…」では、45年後ののび太が現在ののび太にこう語りかける。

一つだけ教えておこう。きみはこれからも何度もつまづく。でもそのたびに立ち直る強さももってるんだよ。」

 こうした言葉が率直に表しているように、のび太は、失敗を繰り返しながら時どき反省し、そうやってたまに反省してもすぐに元の木阿弥で、また失敗を繰り返す…… そんな日々を懲りずに反復しながらも、人生を完全にあきらめることはなく、つまずいても立ち上がる七転び八起きの精神を内に秘めて生き抜くことで、長いスパンで見れば、少しずつゆっくりとではあるが過去よりマシな方向へ着実に成長しているのである。決して〝立派な人〟〝偉い人〟になれるわけではないが、25年後ののび太は、つらいことがあって酒に酔いつぶれたりしながらも家族のため懸命に働く夫であり父であり、45年後ののび太は、息子をハネムーンに送り出したことで人生の大仕事をひとつ成し遂げた充足感と円熟味をそれとなく湛えている。
 未来の世界からやってきたロボットが、万能とも思える未来の道具を使って、一人の少年の運命を変えようという空想度の高いこの物語は、その先に〝失敗と反省を繰り返しながら七転び八起きで生き抜く少年の、平凡だけれど着実な成長〟という、地に足のついた結論を見据えているのだ。そして、そうしたのび太の成長の仕方は、藤子・F先生の人間観がしっかりと投影されたものなのである。(『ドラえもん』を描き続けることで、F先生の人間観が意識化されていった面もあるだろう)


 このテーマに関連した、藤子・F先生の発言を見てみよう。

のび太というのはいろいろ欠点だらけで、人間であるがゆえの弱点、欲望をさまざまに引きずっていて、ヒーローにはもちろん、いいコにもなかなかなりきれない。で、世間に対して、常に何か劣等感があって、自分はダメ人間だなんて思っている。だからといって、そこですねて、ふてくされて何もかもほっぽり出してしまうようなこともない。漠然とではあるけれども、もう少し勉強ができたらいいとか、もっと体を鍛えなくちゃとか、思うわけです。ただ、そのためには本来、地道な努力が必要なんですが、ついつい近道して、安易にドラえもんの道具に頼ってしまうのが玉にキズなんですね(笑)
 (略)
でも、いわゆる〝のび太〟的な要素というのは、誰の中にもあります。それが濃厚な〝純のび太〟であるか、〝半分のび太〟であるか、かすかに〝のび太チック〟であるか、その程度の差こそあれ、誰もが持っている要素だと思うんです。だからこそ、みんな、今の自分よりも少しはましになりたい、もっと向上したいと思う。でも、毎日、同じ反省を繰り返しながら、足踏みをしている。結局のところ、それが人間というものなんじゃないかと思うんです。
小学館「デニム」1992年8月号(創刊号))

 このなかで、藤子・F先生ののび太観、ひいてはのび太に託した人間観がわかりやすく語られている。のび太は、劣ったところ、弱いところをたくさん抱え持った少年で、彼自身そのことを痛いほど自覚している。しかし、自分はダメだから、自分は弱いから、とすべてをあきらめて自暴自棄になってしまうこともなく、もっと立派な人間、強い人間、優れた人間になりたいという欲求を持ち続けている。なのに目先の欲望に負けて安易な方向へ走ったり、調子に乗って失敗をしでかしたりと、なかなか思うように成長することができない。そういうもどかしさや葛藤のなかにあっても、なんとか学校へ通い続け、友達づきあいを保ち、社会からドロップアウトすることなく健全な生活を送っている。
 そして、そんなのび太的な特徴は、多かれ少なかれ誰もが持っているもので、だからこそ、のび太に深く共感する人がたくさんいるのだし、逆に、のび太の姿から自分の欠点が見えてくるようでイヤだ、という反応も生まれるのである。

一応、登場人物が歳をとらないタイプのマンガとして書いてるんですけど、スタイルとしては、のび太が一生懸命上昇志向を持って、もう少しマシな人間になりたいという姿勢を持ち続けてるマンガであるわけですよ。いかにも成長マンガであるような装いをもちながら、実は成長しない。そのへんの矛盾がちょっと痛いところです。だから厳密に言えば、ほんのちょっと成長しています。たとえば、前は5回に1回、0点とったのが、最近は10回に1回になった(笑)とかね。
岩波書店「よむ」1993年6月号)

 この発言を読むと、のび太の成長が遅々として進まない理由のなかに、前述のようなF先生の人間観だけでなく、『ドラえもん』という作品の構造的な問題も含まれていることが了解できる。『ドラえもん』は、登場人物が歳をとらない構造のマンガであり、のび太らは同じ年齢で春夏秋冬を何度も繰り返し体験することになる。それはあの『サザエさん』とも同じ構造であり、いってみれば『ドラえもん』や『サザエさん』は、登場人物が歳をとらないことが前提の作品なのである。
 時間の経過にともなう肉体的・年齢的成長という点でも、反省や努力などによる精神的成長という点でも、のび太をやすやすと成長させるわけにはいかない。たまには反省するがすぐに元の木阿弥、便利な道具を使っても失敗ばかり、という事態の反復によって、作品の前提条件を保たねばならぬ宿命にあるのだ。
 ただし、同じ横丁生活マンガの系譜にあっても、『ドラえもん』は『サザエさん』と違ってSFの要素を有している。タイムマシンというSFガジェットを用いて、成長した未来ののび太の姿を作中で描き出すことができるのだ*2。作品の構造的な問題のため通常のエピソードではおいそれと成長させることのできないのび太だが、その成長した未来の姿をSF的時間移動によって表現できるのが、『ドラえもん』という作品の特性なのである。



※「45年後…」については、昨年2月6日の当ブログで言及しているのでご参照ください。
http://d.hatena.ne.jp/koikesan/20050226




【アニメ】(「のび太の25年後 りっぱなパパになるぞ!」)

・「ぼくの部屋にも一台テレビを…」とのび太にせがまれたパパが、口に含んでいた水をのび太の顔にブーッと吹きかけるシーンでは、声を出して笑ってしまった。


・「大人ってそんなものだ」と言ってから、あくびして寝入るドラえもん。その達観した様子がいい味を出していた。


のび太の息子・ノビスケの日記帳。原作では表紙に「2002年」とあるが、現実の世界がすでに2006年なので、この数字はアニメでは描かれなかった。


・25年後ののび太と子どもののび太の会話をじっくり聞いていると、25年後ののび太の生活が、よい家庭に恵まれ、慎ましやかな幸福感に包まれていると感じられ、心が和んだ。

*1:「45年後…」の初出は「小学六年生」昭和60年9月号。てんとう虫コミックスドラえもんプラス』第5巻に収録

*2:アニメ『サザエさん』にも一家の過去や未来を描いた話はあったと思うが、それはもちろんタイムマシンを使ったものではなく、過去の回想や未来予測といったかたちで表現された。