前の日記( https://koikesan.hatenablog.com/entry/20080303 )で『ミノタウロスの皿』のヒントとなったであろう、いくつかの先行作品について書いた。そこで今回は、私が以前あるところで書いた『ミノタウロスの皿』をめぐる文章を、加筆修正して掲載したい。
(以下の文章は、作品のストーリーや結末に具体的に触れているので、未読の方はお気をつけを)
『ミノタウロスの皿』を最初に読んだのは十代の前半だったろうか。小学館のゴールデン・コミックス異色短編集でこの作品に巡り会った。
コミックスの表紙のイラストが異様に不気味で、一瞬読み始めるのを躊躇してしまった(笑) 藤本先生ではない人物が表紙イラストを描いているのを、当時は不思議に感じたものである。
『ミノタウロスの皿』のストーリーは、宇宙船の乗務員である地球人青年がイノックス星に不時着するところから始まる。(この冒頭部からして『猿の惑星』へのオマージュである) イノックス星では、文明の担い手である人類(作中では「ズン類」)が地球で言う牛の姿をしており、人類に食べられるため飼育されている牛(作中では「ウス」)が地球で言う人類の姿をしている。地球の常識・価値観の枠内にいる地球人青年の目には、イノックス星の食文化が「牛が人間を食べる」という残虐かつ不条理なものに映らざるをえなかった。
ここで着目したいのは、地球の牛は言語によって人類とコミュニケートすることができず、したがって自分がいずれ人類に食われるという明確な認識をもっていないのに対し、イノックス星のウスはズン類並みの知性をもち、言語によってズン類と意思の疎通ができ、自分がいずれズン類に食われる運命にあることをはっきりと自覚している、という点だ。地球の牛とイノックス星のウスとのあいだには、見た目の逆転現象だけでなく、そのようにもっと本質的な差異が横たわっているのだ。
その本質的な差異(イノックス星の家畜には人格・知性がある)によって、作中の地球人青年も読者である私も、家畜でありながら美しい少女の容貌を持つミノアへいっそう強く感情移入することになるし、言語的コミュニケーションが可能な相手を当たり前のように食べてしまえるイノックス星人の感覚に違和感をおぼえることにもなるのだ。はたして我々地球人は、地球の牛が人類に等しい知性をもち言葉を操る存在であったなら、その肉を抵抗なく習慣的に食べ続けることができただろうか、と。
主人公の地球人青年は、家畜であるミノアの命を救うため、イノックス星人に懸命に働きかける。言葉を尽くして交渉し、熱をこめて説得する。ところが、「言葉は通じるのに話が通じない」という奇妙な状況が生じ、事態は平行線をたどるばかり。こうした、言葉が空疎にすれ違い続ける状況・互いの常識がどこまでも交差しない状況をめぐる描写は、私の心に鋭いショックをもたらした。
自分が普段当たり前のように信じている常識・価値観が、立場の違う者にとっては非常識・無価値である場合もありうるのだ、という真実をつきつけられたのだ。そして、その真実をつきつけられたことで、自分が絶対だと無意識的に信じ続けてきた常識が瞬時に相対化され、揺るぎなかったはずの価値観が頼りなくぐらつきだし、自分の脳内で個人的なパラダイム・シフトが始まってしまったのである。
イノックス星人がミノアを食べる事態がことさら残酷に感じられるのは、ミノアのルックスの可憐さや性格のけなげさ、つまりミノアという個がもつ魅力が大きく影響しているとも思う。地球人青年がミノアの命を必死に救おうと努力した背景には、地球人にそっくりな家畜を食べるイノックス星の風習に残虐性を感じたからという文化的な動機とともに、個体としてのミノアの魅力に強く心惹かれたからという私的な動機がある。
後者の動機によって、この作品にはロマンスの要素も加味されてくる。主人公である地球人青年は、ヒロインであるミノアに恋愛感情を抱く。だからこそ青年は、恋する女性の命を救うため、イノックス星の慣習に敢然と立ち向かったのである。
ところがミノアは、青年の奮闘も空しく、自分の命よりミノタウロスの皿の栄誉(つまりズン類に食われる道)を自ら選びとる。青年は、恋する相手ミノアの命を救えなかったという失意ばかりか、事実上ミノアにふられるという失恋を味わうことにもなるのだ。
本作のラストに、地球人青年が待望のステーキをほおばるカットが置かれている。青年は、イノックス星から地球へ帰る宇宙船のなかで、ミノアの命を救えなかったことに涙しながら、ステーキを当たり前のように食べる。目の前のステーキと先般まで会っていたミノアの存在とをダブらせる様子もなく、牛の肉を食べる行為に幾ばくかの疑問や躊躇をおぼえる素振りもなく、そのステーキを「待望」して食べるのである。イノックス星人に対して「彼等には相手の立場で物を考える能力がまったく欠けている」とまで言い切った青年でありながら、結局は彼もまた、イノックス星人の立場に立って物事を考えることがまるでできていなかった……。という真実が、最後の最後、わずかワンカットで皮肉っぽくあぶりだされるわけだ。
イノックス星人の立場に立って物事を考え、イノックス星人のことを「人類」だと受けとめていたら、イノックス星人にそっくりな地球の牛の肉をそうやすやすと「待望して」食べてしまうことはできなかったはずである。結局は食べてしまうことになるにしても、それまで当たり前に食べていた牛肉に何かしら違和感や顧慮をおぼえて然るべきではないだろうか。つまりこの地球人青年は、徹頭徹尾、地球人である自分の立場に立ってものを考えていたにすぎず、「相手の立場で物を考える能力がまったく欠けている」点においては、イノックス星人のことをとやかく言えないのだ。
また、ミノアの命を救おうとした行為も、食肉用の家畜であるミノアの立場を顧みることなく、ミノアが地球人にそっくりな美少女であるがゆえに、地球人目線の人権意識やヒューマニズムや恋愛感情を一方的にミノアに投影していたにすぎない。この地球人青年は、イノックス星人ばかりか、ミノアの立場に立ってものを考えていたとも言いがたいのである。
私は、ストーリーの本編では主人公の地球人青年におおむね共感しつつ読んでいた。それなのに、最後の最後になって、このように主人公への疑問を意識させられることになった。ちょっとしたワンカットでしかないのに、私には相当ショッキングなラストである。(このラストは、読者によっていくつかの解釈にわかれそうだが……)
そのほか、『ミノタウロスの皿』から私が受けた影響として、たとえば、ミノタウロス、ミノア、イノックスといった作中の固有名詞の引用元となった「ミノア文明」への興味の喚起が挙げられる。ミノア文明は、紀元前2000年紀にクレタ島で栄えたヨーロッパ最古の文明で、その拠点的な建造物だったのが迷宮と言われるイノッソス宮殿である。ギリシア神話の伝説の王・ミノスにちなんで「ミノア文明」と名付けられた。そのミノス王の妻・パシパエがある呪いによって生んだのが、牛頭人身の怪物・ミノタウロスだ。ミノス王は、乱暴なミノタウロスを迷宮に閉じ込め、毎年アテナイから少年少女を7人ずついけにえとしてミノタウロスに捧げた。
こうしたミアノ文明の史実とギリシア神話のエピソードのイメージが『ミノタウロスの皿』の作中に注ぎ込まれ、独特の雰囲気を作り上げている。古代文明と神話の世界が、未来の異星を舞台とした作品のビジュアル面を装飾しながら、なおかつこの作品の根底を支える精神のひとつとして息づいている、と私は感じるのだ。
写真は、『ミノタウロスの皿』の初出誌「ビッグコミック」1969年10月10日号である。『ミノタウロスの皿』は単行本で読むと全36ページの作品だが、初出誌を見ると22ページ。つまり藤子F先生は単行本収録時に22ページの作品を36ページに加筆したのである。実に14ページ分も加筆されているわけで、『ミノタウロスの皿』が単行本収録時いかにバージョンアップされたかがわかる。
同誌には『ミノタウロスの皿』のほか、楳図かずお『耳』、石森章太郎『佐武と市捕物控』、水木しげる『浮気会社』、手塚治虫『I.L』、さいとう・たかを『ゴルゴ13』などのマンガが掲載されている。錚々たる面々だ。