桜桃忌に

 6月19日(水)の話です。

 この日は桜桃忌。小説家・太宰治の忌日です。1948年6月13日、太宰は愛人の山崎富栄と玉川上水で入水自殺しました。その遺体が上がったのが6月19日でした。6月19日は奇遇にも太宰の誕生日でもあったことから、太宰を偲ぶ日となったのです。今年は太宰治生誕110周年にあたります。

 

 毎年桜桃忌に太宰治の作品を読み返そうと心がけていまして、今年は『女神』というごく短い小説を再読しました。

 この小説の主人公(小説の語り手)には、お洒落で知的な友人がいました。その友人は戦中に夫婦で満州疎開しました。戦争が終わって日本へ戻ってきた友人が突然主人公の家を訪れて再会を果たしますが、そのときの友人の様子がおかしいのです。友人は、真顔で妄想めいたことを言い続ける頭のおかしな人になっていました。

 その後、主人公は友人の妻に会いに行くのですが、主人公と友人の妻が交わす言葉の擦れ違いようがなんだか奇妙で面白いのです。藤子・F・不二雄先生の短編『ミノタウロスの皿』で「言葉は通じるのに話が通じないという……これは奇妙な恐ろしさだった」という状況が描かれていますが、私はその状況をちょっと思い起こしました。

 私はふだんの生活の中で藤子マンガのいろいろな場面やセリフなどを思い出したり口にしたりすることがありますが、この『ミノタウロスの皿』の「言葉は通じるのに話が通じない…」という状況は思い出す頻度が高いです。

 

 太宰の『女神』は、ラストで主人公の妻のセリフによって主人公の立場がひっくり返るというか、立場がなくなるというか、アイロニカルでユーモラスな終わり方をします。落語のオチを見ているようです。そんな落ちの決まり方も藤子F先生の短編(『老雄大いに語る』とか)と共通する魅力を感じます。