「ミチビキエンゼル」について

 公式サイト「ドラえもんチャンネル」で「みんなで選ぶ!藤子・F・不二雄“SF”の秋」という企画を開催中です。

 https://dora-world.com/contents/2149

 Twitterの投票で要望の多かったSF短編を4週にわたって1週ごとに別作品を特別配信していくというもので、現在は第1週の作品『ノスタル爺』が期間限定配信中です(11/8(月)午前11時まで)。

 https://dorachan.tameshiyo.me/DZSNOSUTARUJI

 

 『ノスタル爺』と同時に「ミチビキエンゼル」(『ドラえもん』)と「ここほれニャンニャン」(『ポコニャン』)も配信されています。今回はその「ミチビキエンゼル」と「ここほれニャンニャン」について少々触れたいと思います。

 

 

●「ミチビキエンゼル」

 https://dorachan.tameshiyo.me/MICHIBIKIENZERU

 

 この話を初めて読んだのは、小学何年生のときだったかしら。

 なんかコワいなあ、と感じたことをおぼえています。ミチビキエンゼルがやっていることは常に正しいはずなのにコワいし、あの顔つきがどこかブキミに感じられ、天使の姿をしていることも漠然とコワかった記憶があります。

 それと、当時はアカンベエの一コマにインパクトを感じました。

 

 子どものころの私がミチビキエンゼルの顔をブキミと感じたことについて、ちょっと考えたいと思います。

 ミチビキエンゼルの顔は、全体的な輪郭が横長の楕円形で、小さな黒目と大きな口で構成されています。小さな黒目の内側に白い点(光)があります。大きな口は、しゃべっていないときでも常に半開きです。なんとなく笑顔に見えます。そして、頭の上に天使のリングが浮いています。

 系統としては、ブキミというよりカワイイ系ともいえましょう。

 それなのになぜ、私にはブキミに感じられたのか?

 

 まずは、ミチビキエンゼルがやっていることがコワいので、それとの相乗効果で顔がブキミに感じられてくる……ということが挙げられます。シンプルなカワイイ系の顔をしながらやっていることがコワいからブキミなのです。この顔でこんなことやるの?という不穏な違和感にみまわれるのです。

 

 そのうえでミチビキエンゼルの顔をあらためて見ると、ミチビキエンゼルがやっていることのコワさを除いても、ただカワイイだけではないものを感じさせます。それをブキミと言ってしまうとちょっと違う気がするのですが、単に手放しでカワイイと言ってしまうこともできない何かを感じるのです。

 私がミチビキエンゼルの顔をブキミに感じたと言ったら、知人が「ミチビキエンゼルの顔は鳥のヨタカに似ている」と反応してくれました。言われてみれば、ヨタカの顔を正面から見たような顔をしていますね。

 私は、ウーパールーパーオオサンショウウオのような両生類の顔を思い出しました。小さくつぶらな目と左右に広がった口のイメージが重なるのです。

 そうした動物たちに似ていることが、ミチビキエンゼルの顔がただカワイイだけでない何かを含んでいることと関係がありそうです。

 そうしたヨタカ的な・両生類的な顔つきに、子どものころの私は何らかの引っかかりを感じたのでしょう。

 

 ミチビキエンゼルはカワイイのにカワイイだけではない何かを含んだ顔をしていて、それがのび太に対してコワい行動をとるから、少年時代の私にはブキミな顔に見えた、ということでしょう。今日のところはそういうことにしておきます。今の私はミチビキエンゼルの顔にすっかり慣れて親しみを感じているので、それでよいのです(笑)

 

 さて、ミチビキエンゼルは何かを判断すべきもろもろの局面で正しい答えを出して導いてくれます。迷っているときなど、つい手を出したくなる道具ですね。

 でも、嫌になるくらいお節介で融通がきかない困り者でもあります。

 ドラえもんはミチビキエンゼルが困り者だとわかっていてのび太に渡すわけですが、そんな困った道具を悩んでいるのび太に渡しちゃうドラえもんの気持ちがよくわかる!と素直に思える状況を描いた場面が個人的に好きです。「ミチビキエンゼル」の扉ページから数えて3ページ目のことです。実に秀逸な場面だと思います。その場面があったからこそ、ミチビキエンゼルのような、ありがたいけれど困り者のひみつ道具が登場できたのです。

 それはどんな場面だったか。

 ロボットのくせに風邪をひいたドラえもん。つらいのであったかくして寝ようとしたら、外にいるのび太から重大な問題で悩んでいるので来てほしいと呼び出され、それは行かないわけにはいかないとつらいながらも外出します。

 で、のび太のいる場所まで来て、のび太にどうしたのか聞いてみたら、のび太の悩みがあまりにもくだらないものだったのです。

 のび太本人にとっては重大な問題なのでしょうが、はたから見れば「好きにしろ」と思える程度の悩みです。

 風邪をひいてつらいのに無理して駆けつけたらのび太の悩みが実にくだらなかった……。そりゃあドラえもんは呆れるし怒りますよ。ミチビキエンゼルみたいな困り者の道具を渡したくもなるでしょう。

 ドラえもんは、ミチビキエンゼルがそのときののび太にとって必要な役立つ道具だから出してあげたのですが、その道具が困り者だということもちゃんと頭にあって、それなのにのび太に渡しました。

 のび太の悩みにまっとうに応えるだけならミチビキエンゼルなんて渡さなかったでしょう。良心が痛みますからね。

 ドラえもんは、実にくだらない悩みで体調の悪い自分を呼びつけたのび太への懲罰的な意味もこめて、ミチビキエンゼルを渡したのです。そんなドラえもんの心情に素直にうなずけます。私も「のび太の悩みは、わざわざドラえもんを呼びつけるほどのものではない。そんなの勝手にしろ、というレベルの悩みだよな」と感じたからです。

 そんなふうに私に思わせてくれるくらい、この場面で聞かされたのび太の悩みはくだらなかったし、風邪をひいたドラえもんの様子がしんどそうでした。

 そして、のび太がそのくだらない悩みをドラえもんに告げるくだりが、読者である私からすれば、読んでいて面白くて絶品なのです。ミチビキエンゼルような便利だけど厄介なひみつ道具のび太に渡される必然性が生じる場面でもあります。だから、とても好きな場面なのです。

 

 ミチビキエンゼルはその場その場で正しい判断を示してくれます。頼もしくありがたいやつです。ミチビキエンゼルにしたがっていれば間違いない、と思わせてくれます。

 ところが、やたらとお節介で融通がきかず判断を強制してくるので、当初はありがたい、頼もしいと思えても、そのうち厄介なやつになってきます。

 そのうえ、ミチビキエンゼルの判断はその場しのぎ的な面があって、その場を切り抜けるだけなら正しい選択なのだけれどその後の人間関係など考えるとまずいよな、という事例が目立ちます。人と人の機微みたいなものを無視して“正しい”判断を押しつけてくるので厄介です。

 

 それに、たとえ常に正しい判断を与えてくれたとしても、自分の意思による主体的な判断をいつも奪われること、他者の判断を強制され続けることの苦痛は耐えがたいものがあります。間違った判断になるかもしれないけれど自分で判断し決定できることのありがたみを(面白いお話を楽しみながら)感じさせてくれるのが「ミチビキエンゼル」なのです。

 

※追記

 子どものころ「ミチビキエンゼル」を読んだ影響のひとつに、「導き」という語彙をくっきりと意識したということもあります。初めて読んだ当時「導き」の意味を理解できていたか定かではありませんが、「ミチビキ」という語感にどこか心誘われたことを憶えています。

 ミチビキ、ミチビキ、ミチビキと脳内リフレインしたはずです。

 その後、てんとう虫コミックス13巻で「七時に何かがおこる」を読んだとき「みちび機」が出てきて「わー、またミチビキだ!」とその語彙を再び(テンションが上がる方向で)意識した気がします。

 余談ですが、「みちび機」の「うそつ機」的なネーミングはいろいろと応用できそうで便利ですね(笑)

 

 

●「ここほれニャンニャン

 https://dorachan.tameshiyo.me/KOKOHORENYANNYAN

 わずか8ページで泣かせてくれるおはなしです。結末にホロリとするし、その前にポコニャンの置き手紙が心にグッと来ます。なんと健気でいじらしいポコニャン

 そして、ポコニャンはひたすら本格的にかわいいのです。