梶田達二 洋画展

koikesan2006-07-16

 きのう15日(土)、懐かしの漫劇倶楽部会員のTさんに誘われて、名古屋三越で開催中の「梶田達二 洋画展」へ行った。帆船の油絵を中心に、大型パズルの原画として使われた戦艦大和の絵や、上高地の風景画などを鑑賞した。


 梶田達二氏は、昭和35年ごろから40年代にかけて、講談社小学館集英社・学研・光文社などの少年誌に口絵や表紙絵、挿絵などを執筆して活躍した画家で、雑誌ばかりでなく、プラモデルのパッケージ、カレンダー、ジグソーパズル、ソノシート、宝くじ、図鑑など多岐にわたる媒体に絵を描いていた。メカやヒーロー物が主体だった。この時代に少年時代をすごした人は、梶田氏の精密で迫力に満ちたイラストに心躍らせた経験があるのではないだろうか。
 梶田氏は1990年代以降、洋画に軸足を移し、主に帆船の油絵で高い評価を受けている。



 今回私が幸運だったのは、Tさんが梶田氏と知り合いだったおかげで、同行した私まで梶田氏とお話ができたことである。洋画展会場のテーブルに座って、1時間近くお話をさせてもらっただろうか。現在70歳の梶田氏は、Tさんと私に、穏やかに気さくにさまざまなことを語ってくださった。



 梶田氏の画風や経歴を見ると、あの小松崎茂を思い出さずにはいられない。小松崎茂といえば、藤子先生(とくにA先生)も影響を受けた大物画家である。A先生は小松崎茂絵物語に憧れを抱いていた。
まんが道』を読むと、「満賀道雄才野茂は、絵物語もすきで、ふたりの同人雑誌『少太陽』には、人気絵物語作家、小松崎茂のタッチをまねた西部劇を発表した!」とか、「絵物語は、小説とまんがの合体したような形式で、昭和20年代の後半から30年代のはじめにかけて、全盛をほこった! 絵物語の中でも、山川惣治小松崎茂の二大巨匠が、圧倒的人気だった」というナレーションが見られる。また別のところでA先生は、小松崎茂のサインのカッコよさにゾクゾクとし、そのサインの字体を真似て書いたこともあった、と語っている。



 私が、梶田氏の創作歴・諸作品から小松崎茂を連想するのも当然で、梶田氏はやはり小松崎の影響を多大に受けた画家なのだった。
 名古屋で生まれた梶田氏は、小松崎茂に憧れて上京。正式な弟子入りはなかったものの、小松崎の仕事場によく出入りをしていたという。小松崎の弟子は、独立後、師匠の影響からなるべく離れようと努力する傾向にあるが、梶田氏は、小松崎の影響をまったく隠さず、そのあとを素直に追いかけるような創作活動を展開した。


 当時少年誌に描いた原稿などは大半が返却されず、今はどこにあるのか分からない状態で、もし全部きちんと保管してあれば、2部屋くらいがびっしり埋まってしまう量になっているだろう。もし小松崎先生のように、美術館で大がかりな展覧会を開くとなれば、散逸している原稿があちこちから集まってくるかもしれない、と梶田氏は言う。



 梶田氏からうかがった話で、藤子ファンとして興奮したことがある。
 藤子先生は、昭和29年から住み続けたトキワ荘を36年に出たあと、昭和38年ごろから下北沢に仕事場としてアパートの一室を借りていた。この、藤子先生が借りた部屋の隣に、なんと、梶田氏が住んでいたというのだ。トキワ荘時代は、藤子先生の部屋の周囲に、寺田ヒロオ石森章太郎赤塚不二夫など複数のマンガ家が暮らしていたわけだが、下北沢のアパートでは藤子先生の隣に、人気画家・梶田達二が住んでいたのである。マンガとイラストとジャンルは違っても、同じ時代、同じ少年誌を舞台に活躍した両者が隣り合って暮らしていたというのは、まことに興味深い事実である。(当時の藤子先生の自宅は川崎市生田にあって、下北沢のアパートはあくまでも仕事場だった)
 さらに、ウルトラマンの画家として知られる前村教綱氏も、同じアパートの2階に住んでいた、と梶田氏は教えてくださった。
 だから当然、梶田氏は藤子先生とも交遊があって、とくに草野球のチームで試合をしたのが思い深いという。梶田氏の所属するドンキースと、安孫子先生やしのだひでお先生のいるポロリーズとは、何度も対戦したことがある。
 藤子先生の下北沢の仕事場に関しては、具体的な情報が乏しく謎に包まれているのだが、梶田氏の話によって、2階建ての建物で、全部で6部屋ほどしかないアパートだとわかった。駅から徒歩で5〜6分くらいのところにあったという。



 下北沢から富士見台へ引っ越した梶田氏は、今度は手塚治虫先生の自宅の隣に住むことになり、現在はちばてつや氏のお宅の近所に住んでいるということだ。


 
 ありがたいことに、梶田氏にサインを書いていただけた。そのさい梶田氏は、「ふだん色紙にサインを書き慣れていないので、うまく書けないなあ」「でも、めったに書かないからこれは貴重だよ(笑)」「マンガ家さんは、サインと一緒に自分のキャラクターを描けるから羨ましい」とおっしゃっていた。


※写真は、梶田先生が表紙を描いた「週刊少年マガジン



赤塚不二夫先生の妻・赤塚眞知子さんがお亡くなりになった。昨年10月青梅赤塚不二夫会館で藤子A先生と対談をされたときは、とてもお元気そうだったのに… 赤塚先生がまだ病床で闘病中だと思うと、切ない気持ちになる。
 ご冥福をお祈りします。

 赤塚眞知子さん56歳(あかつか・まちこ=漫画家・赤塚不二夫さんの妻、フジオ・プロダクション社長)12日、くも膜下出血のため死去。葬儀は遺志により近親者らで済ませた。事務所は東京都新宿区中落合1の3の15。喪主は長女りえ子(りえこ)さん。
 不二夫さんが眞知子さんとの再婚を発表した87年、前妻が再婚を後押ししたことで話題になった。02年に脳内出血で倒れた不二夫さんを献身的に看護していた。
毎日新聞)7月16日
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060715-00000066-mai-peo