リニューアル『ドラえもん』に向けられた批判の声

 4月15日(金)からリニューアル『ドラえもん』がスタートしたわけだが、このブログで毎度毎度〝リニューアル『ドラえもん』〟と表記するのもまだるっこしいので、とりあえず今日のところは、水田わさびさんが希望する『わさドラ』という呼び方で文を進めたい。そして、1979年4月から本年3月まで放送された『ドラえもん』については、『大山ドラ』と呼ぶことにする。


 本日、「日刊スポーツ」(名古屋版)を買うと、『わさドラ』第1回放送の、関東と関西における視聴率が発表されていた。(ネット上の記事では関東の視聴率のみが書かれている)
「関東16.0% 関西16.9%」(ビデオリサーチ調べ)ということだから、まずまずの数字ではないだろうか。大山のぶ代さんの降板が世間で話題になったわりには低い数字だ、との見方もできるが、最近の『ドラえもん』の通常の視聴率(12%台)を思えば好成績だといえるだろう。
 まあ、1回めの放送は、「新しいドラえもんってどんなもんだろう?」という好奇心で観る人が多く、そのぶん視聴率も底上げされるだろうから、第2回以降の視聴率で『わさドラ』の真価が問われることになりそうだ。


 さて、『わさドラ』第1回放送を観た私は、その原作重視の姿勢に歓喜し、「これは素晴らしいリニューアルだ!」と感嘆したわけだが、ネットの掲示板やブログなどで『わさドラ』を観た人々の反応を読んでいると、賛否両論が激しく渦巻いていて、どちらかといえば否定的な意見のほうが目立っているような印象を受けた。
 26年間も続いてきてそれを愛する人が大勢いる『大山ドラ』が、今回のリニューアルで「新番組」「別物」といっても過言でないくらい変わってしまったのだから、それに対する批判、怒り、悲しみ、反感などが噴出するのは、いわば自然の法則のごとき現象であり、事前に予測できた事態である。むしろ、誰も彼もが諸手をあげて『わさドラ』を礼賛するような状況になることのほうが奇妙だし、そうなってしまっては、『大山ドラ』に思い入れのある人間としてあまりに寂しすぎる。だから私は、『大山ドラ』のファンが感情をあらわにしながら否定的な意見をネット上に書き込んでいるのを見て、「やっぱり『大山ドラ』は多くの人に愛されているのだなぁ」としみじみ感じ入ったのである。
 私の場合は、『大山ドラ』以上に藤子・F・不二雄先生が執筆した原作マンガの『ドラえもん』に強い愛着をもっているため、その原作マンガに絵の個性も話の内容も台詞まわしも接近してくれた『わさドラ』をすんなりと肯定的に受け入れることができたわけで、もし今回のリニューアルが、原作からさらに離れてアニメオリジナル路線を強化するとか、グッズ拡販のためファンシー志向を強めるようなものであったなら、激しい拒絶反応を示していたにちがいない。
 そんなわけで、「原作マンガよりも『大山ドラ』が好きだ」とか「『ドラえもん』といえば『大山ドラ』のことだ」という『大山ドラ』ファンが、今回のリニューアルを〝許しがたい暴挙〟〝『大山ドラ』の否定と破壊〟〝悲しすぎる改変〟といったふうに感じてしまう気持ちも少しは理解できるのだ。


 私だって、『大山ドラ』には深い思い入れがある。昭和52年に創刊された「コロコロコミック」を主舞台とした『ドラえもん』人気の高まりの中で、『ドラえもん』アニメ化の気運が上昇していくホットな状況をリアルタイムで体験した世代なのだ。昭和54年4月からテレビ朝日で『ドラえもん』のアニメが始まると知ったときの夢見るような心地や、初回放送を観たときのワクワクとした胸の高鳴りを、今でも鮮明に思い出せるほどである。それだけ長いあいだ『大山ドラ』とつきあってきたということでもあるから、その『大山ドラ』の歴史が幕を閉じることに寂しさや遣る瀬なさを感じないわけがないのだ。
 しかし、その寂しさや遣る瀬なさ以上に、これから始まる『わさドラ』への期待を強く感じたし、26年という歳月の中で『大山ドラ』は充分にその歴史をまっとうしたのだ、と考えることもできたので、今回のリニューアルを否定的にとらえる気持ちはほとんど起こらなかった。


わさドラ』に対する否定的な意見が噴出するのは自然な現象だと納得できるものの、どうしても抵抗をおぼえてしまう意見もあった。テレビ朝日や『わさドラ』の新声優・スタッフを乱暴な言葉で中傷誹謗したり、旧声優陣・スタッフの降板劇をことさらにスキャンダル扱いして騒ぎ立てたりするような書き込みは論外として、そのほかで気になったのは、「藤子・F・不二雄先生は新しい『ドラえもん』を観て泣いている」「原作者がどう思うことか」といった種類の意見だ。藤子・F・不二雄先生が他界している以上、その答えは永久に聞けず、ここで何を語っても推測や想像の域を出ないわけだが、あえて言わせてもらえば、ご自身が精魂込めて描いた『ドラえもん』の原作マンガを尊重する方向へ進んだ『わさドラ』を観て、藤子・F先生が否定的な感情を抱くとは考えがたいし、少なくとも藤子・F先生が『わさドラ』に対して怒りや悲しみをあらわにするなんてことはありえないだろう。


 また、「こんなの『ドラえもん』ではない」「ぜんぜん『ドラえもん』らしくない」という意見も多く見受けられた。そうした意見は、「こんなの『大山ドラ』ではない」「ぜんぜん『大山ドラ』らしくない」という意味においてはそれなりに理解できるものであるが、私から見れば、『わさドラ』は、藤子・F・不二雄先生の原作マンガに本気で立ち返った、本来の『ドラえもん』らしい『ドラえもん』なのである。だから「こんなの『ドラえもん』ではない」という意見に出会うたび、がっくりと肩を落としたくなった。
 もちろん1回の放送だけですべてを即断できるわけはなく、本当に「これが本来の『ドラえもん』らしい『ドラえもん』なのだ」と胸を張っていえる作品に育ってくれるのか、長い目で見守っていきたいところである。


「時間が経てば慣れるという人がいるが、私は『わさドラ』には絶対に慣れない」という声もあった。冷静に考えれば、1回観ただけの今の段階では、今後『わさドラ』に慣れることが可能かどうか断定できないだろう。人間の脳にとって「慣れ」の効用はとても大きく、今は慣れないと思っていてもいずれ慣れてくる場合だって大いにありえるし、もし慣れなくても慣れないなりに『わさドラ』の魅力に気づけるかもしれない。中には、いつまでも『わさドラ』に慣れることができず、残念ながら『ドラえもん』を観るのをやめてしまう人もいるだろうし、逆に、『わさドラ』によって『ドラえもん』の魅力にとりつかれ、新たにファンになる人もいるだろう。私としては、慣れないからといって『わさドラ』の視聴をやめたりせず、これからも『ドラえもん』ファンでい続けてもらいたいが…
大山ドラ』に慣れ親しんできたがために『わさドラ』に強烈な違和感をおぼえてしまうという方は、これを機会に、小学館の「てんとう虫コミックス」で原作マンガの『ドラえもん』を読んでみるのがいいと思う。原作マンガを読めば、今回のリニューアルが目指している方向が理解でき、『わさドラ』の美点に気づけるかもしれないし、それ以前に私は、原作マンガの『ドラえもん』のおもしろさを多くの人に堪能してもらいたいと思うのだ。


 最後に、すさまじい批判や反発が予想されながらも、原作回帰をテーマに大幅なリニューアルを実行した製作者の方々の英断を高く評価したい。


■追記
「アニメ『ドラえもん』がリニューアルによって原作マンガに接近した」と言うが、具体的にどんなところが原作マンガに接近したのか。その点を的確に記述しているブログの記事を紹介するので参考にしていただきたい。

はなバルーンblog「アニメドラが生まれ変わった日」

Ashiko K Milk「新ドラえもん評!4/15:勉強べやの釣り堀」

Ashiko K Milk「新ドラえもん評!4/15:タイムマシンがなくなった!!」

ドーン・オブ・ザ・日記「ドラえもん放送開始」

青いい空はポケットの中に「アニメ『ドラえもん』リニューアル版の感想」